トウジンカグラ

百川カサネ

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4話 邂逅編

23 刀刃邂逅

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 それは悲鳴に相違なかった。
 誰のものかは定かではない。気がついたら眼前に蒼が迫っている。床を蹴り抜刀したのだと火群ほむらは遅れて知覚する。
 手中の紅蓮が常よりも重く、熱く、奔る。そのまま脳天から叩き斬る勢いで、けれど散ったのは鮮血ではなく閃光だった。天が砕けたように蒼が散り、光が零れる。何より、音が。
 火花が散るほどの衝撃に、酷く澄んだ悲鳴が上がる。鋼が震える。空気が震える。
 震えて、広がる、触れる、交わる。還ってくる。火群の鼓膜を叩いて脳髄を揺らす。裡に入り込んでくる。

 ――まるで、凪いだ水面に雫をひとつ落とすような。
 ――あるいは、童が転がす鈴のような。
 ――もしくは、比翼の鳥が囁くような。

 ――それは間違いなく、鋼と鋼の交歓だった。

 跪く男の眼前にひと振り。上段から渾身の力で以て振り下ろされた紅蓮の赫赤たるを照り返す鋼。それは抜けるほどに高く遠い、空の色を封じている。
 そして空の向こうには、深い藍を湛えた瞳が瞠られていた。
 一対の鋼が互いの身に食らいつく。あるいは犯し、あるいは呑み込み、けれどぎりぎりとせめぎ合って、天の欠片をほろほろと零していく。剣戟の閃光を散らす濃藍には、ただ一人、紅蓮を振り下ろして拮抗する火群が、男と同じく瞠られた瞳の黄金色が映っている。

「お、前ッ!」

 焦燥か、怒りか。歯噛みの音と共に男の唇から掠れた低音が零れる。同時に、火群の視界が急速に揺らぐ。
 跪く姿勢から、ほとんど無理矢理押し上げるようにして男が刀を払い、立ち上がる。噛み合っていた鋼が解けて閃光と共に刀刃が滑る。振り払われるまにまに火群の身体がぐるりと宙を舞った。刀を構えて火群を見据える男から精緻に飾られ編まれた天井の木目、朱塗りの庇から空へと、視界が移り変わっていく。逆さになった七宝の町並みが遠く霞んで見える。浮遊感。落下する感覚。

 ぞっと、腹の底が急速に冷えていく。
 耳の奥に甘く残響する鋼の音が掻き消えた。代わりに火群を呑み下すがごとく唸る風音に包まれて、轟轟と響くそれに火群の身体中の血も逆さに流れて引いていく。氷を呑んだように冷えた腹の底に反して、目の奥が燃えるように熱く、赤く染まっていく。

 眉間に力を込めて身体を捩る。足裏が縁台の欄干に触れた、認識するよりも早く七宝の町並みに、広がる空に背を向けて欄干を蹴る。腹の底の冷感と目の奥の熱感が混ざり合い均される、火群は未だに重く熱く逸る紅蓮を構え勢いのまにまに男に迫った。即座に鋼の交歓が始まる。高く低く澄んでは悲鳴が響く。
 打ち込むのは火群の紅蓮だった。鋼と鋼が触れ合う度に雫が弾け、鈴が揺れ、鳥が囀る。音が謳う。火花が生まれては散っていく。空を閉じ込めた刀刃が紅蓮を受け流す度に火群は打ち込む角度を、位置を、高さを変え、時に宙を舞うほどに跳躍し時に地を這うがごとく身を沈めては絶え間なく澄んだ音を響かせる。

 悲鳴は最早嬌声めいて輪唱している。手数を重ねるほどに加速する身体に反して、火群の思考は冷たく熱を帯びていく。
 紅蓮であれば並大抵の刀を砕くことができる。火群自身、あわよくばそのつもりで紅蓮を振るっている。だというのに、熱く重く逸っては熾る紅蓮を受けても男の刀は軋みもしない。ただ受けては流し、捌いていく。男の立ち位置も真っ直ぐに火群を見据える背筋も、何合斬り結ぼうと揺るぎない。死角すら狙って繰り出される紅蓮をも男は過たず受け止めていた。
 攻め込んでいるのは火群のはずなのに、ただ受け流す男に追い詰められているような錯覚すらあった。

 澄んだ悲鳴の向こうに、その男の顔がある。
 短羽織に袴姿の、籠手と脛当てをつけた男。腰には鞘が差されている。短い黒髪を結い上げて、そして何よりも深い藍の瞳が強い。どう跳躍し回り込もうとも白皙は確実に火群を追い、その瞳に真っ直ぐに映し込んで捕らえる。その鏡像も交差する鋼に、閃く火花に阻まれて散る。消える。
 深い藍の中の火群が、消える。
 一際高く、紅蓮が悲鳴を上げた。

「っああああ――!!」

 赫赤の鋼が震える。刀身に閉じ込められた炎の赤がうねり、荒れ狂う。手にした紅蓮の熱は火群の身体を灼いて、紅蓮のいかりに押し出された声は掠れていた。目の奥まで犯す熱に視界が赤く染まっていく。
 只管に火群を捕らえ続けていた男の濃藍の瞳が瞠られ、須臾の間に細められた。

「! お前、――」

 男が何事かを小さく叫んだ。受け流すばかりだった刀刃が上段に構えられ、同時に紅蓮の放つ熱がちりりと、端から冷えていく。空を閉じ込めた鋼は冴え冴えと光を湛えて、そんな男の刀刃に呼応するように紅蓮が熱気を増していく。冷気と熱波は絡み合い縺れ合い、生々しくもまぐわっているようだった。手中の柄を強く握れば焔で舐め尽くすように紅蓮が熱を吐く。同じだけ空の高きに呑み込まれ、犯される。今の紅蓮の放つ熱量では、空を封じる刀刃の蹂躙にはまだ足りない。

 嗚呼、もしも紅蓮が本当の姿であったなら!

 頭の片隅を焦がすもどかしさと苛立ちをも振り切り置き去りにして、火群も上段に振りかぶった姿勢で一際強く床を蹴った。
 刹那、

「――そこまで!」

 だぁんと、あまりに重い打音と声が典承殿に響き渡った。
 重ねてぎしり、みしりと、軋む音がする。

 それは天から落ちる見えない巨大な手のひらが火群を押し潰す、あるいは無様に床に伏せた火群が抗う音だった。
 腕も肩も足も首も、指の先すら動かすことが叶わない。火群が起き上がろうと力を込めれば込めるだけ骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。握り締めたままの紅蓮はただの鉄塊に還ったかのように、先までの苛烈を冷やされ鈍い重みで火群の掌を押し潰すばかりだった。
 かは、と。首をもたげようとすれば圧迫された肺から息が漏れ、追い打ちのように更なる力が頭頂部を押さえつけてくる。それでも火群は抗うことを止めない。現状の元凶へと唯一自由になる眼球を動かす。狭められた気道から怒りを絞り出す。

「クッ……ソ、ババアッ……!!」

 視線の先では、女が火群を見下ろしていた。
 瑠璃るりは指先の一つも動かすことなく、御簾の向こうで静かに座し続けている。制止を吼え見えない何かで押し潰す女は床に伏す火群に冷たい視線を注ぎ、続く声もまた火群を煽る熱を奪うがごとく冴えていた。

「言うたとて無駄、とは言うたばかりだが、いきなり噛みつくほどの駄犬とまでは思うておらんかったな」

「ッるっせェ……!! 犬じゃ、ね――ッが!」

「しばらく黙っておれ。犬の不始末に片を付けるのも飼い主の務めゆえな」

 かひゅ、と喉が鳴る。首の根元から押さえつけるように更なる力が加わり、火群は頬を床に擦りつけるような格好で見えない何かに押し潰された。横倒しになった視界には『飼い主』などと嘯く女と、変わりなく居並び続ける面布を纏う少女と男たち、そして――片膝を突き、重々しく抜き身の刃先を下げる男が映っている。
 男は眉間に深く皺を刻んでいる。濃藍の瞳を眇め、視線は火群へ、あるいは男の背後の瑠璃へ、そして手中の刀刃へと巡っていく。そのこめかみにはひと筋の汗が伝い落ち、刀を握る腕は微かに震えていた。

「妾の駄犬がすまぬなあ、氷雨殿」

 火群へ向ける冷徹とは打って変わって、女は淡く眉を下げた。苦笑すら浮かべている。
 対して名を呼ばれた男は物々しい空気もそのままに、肩だけでぎこちなく女を振り返った。刀刃は抜き身のまま、切っ先を重く下げて。

 恐らくこの男、否、あの刀は――床に押しつけられたままの火群と同じだ。

 瑠璃の見えない何かに押さえつけられ、身動きが取れない空色の刀刃。床に伏した火群からは未だに震え続ける男の両の手が、刀の柄がよく見えている。
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