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1話 邂逅編
2 襲撃
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男は片腕をぐうと伸ばす。んん、と呻いて、大きく息を吐きながら脱力した。そのままゆうらりと立ち上がり、ぐしゅぐしゅと目元を擦った。
伊角の隣で虎八が一歩前に出る。ここに至るまでの全てが間延びた動作の男は、一度も刀を持つ手を緩めていない。
少しの距離に目を細め、伊角は男を探る。
歳の頃は伊角よりは若そうである。煤色の着流しを朱の帯で適当に締めており、胸元まで存分に開けていた。肉づきの薄っぺらい身体で、そのだらしない佇まいもあってまず武士ではないだろう。よくて武家を放逐された無頼の者といったところか。
それにしては、あの適当に羽織っただけの着物が、何よりも抱えた刀が遠目にも――上等に過ぎる。
「あ?」
「――ッ」
目が合った。
目元を擦る指の隙間から垣間見えたのは、どこか浮き世から離れた、金色の目であった。
伊角の視線は刀に注いでいたはずだったが、その持ち主と目が合ったのだ。まるで遮るように、だらしのない姿からは想像もつかない俊敏さで。
にわかに身構える伊角からは興味が失せたとばかりに男がぶるぶると頭を振る。切りっぱなしたざんばらな髪が散る様は雨に濡れた犬のようで、刹那漂った剣呑さはもうない。最後にもう一度大きく伸びをして、それから男は金の目を細めた。ぎゅうと眉間に縦皺を刻み、睨むように目元を力ませている。
「……ゾロゾロゾロゾロ、こんなトコで何の行列だアンタら?」
「……っ東国は伊角様の戦行列だと言うたであろう! いいから道を開けよ!」
「いすみィ?」
虎八は苛立たしく告げるが、男は暢気に首を傾げた。何かを探し当てるように中空を見つめている。
周囲から閉じた七宝において、天下の覇を争う武家の名など遠い世界のものであろう。まして伊角の家は、恥じ入るばかりではあるが然程大きい家でも、古くから続く名門でもない。ここに至るまでの道中でも伊角の名を知らぬ市井の民など多くいたし、武家を相手にする旅籠の下男下女でも覚えのない様子だった。
領地の外に一歩出れば伊角を知らぬ者がいるなど、いくら憤ろうと周知の事実だ。伊角は身の程をよく弁えている。であるなら側仕えたる虎八も理解しているはずだ。
にも関わらずここまで虎八が憤るとは。上洛を目前にした妨害や主たる伊角に対する不遜が気にくわないのもあろうが、何よりも対する男の空気が悪い。武士の命たる刀を抱えながら、武士にはあまりにも似つかわしくない姿格好に立ち居振る舞い。武士たるとは何かを重んじる虎八には許し難いに違いない。
そもそも、まず話が噛み合っていない。否、会話をというものをしようという気がない。虎八もだが、男もだ。
「……ア~……いすみ。いすみ? いすみィ……ナニ?」
顔見知りに挨拶でも投げるような軽佻浮薄。何度も伊角の名を口の中で転がした末、敵意を剥き出した虎八相手にこれだ。
伊角の名に聞き覚えがないにしろ戦行列を見慣れないにしろ、武器を携えた集団を前に男は少しも気にした様子がない。
「伊角家が御当主、耀灌様だ! 貴様、不敬であるぞ!」
「あァ、やっぱりな、それそれ」
ついには不敬を吼える虎八を前に、まるで聞こえていないかのように男は身体を傾けた。
目が合う。怒れる側仕えを追い越して、男は今度こそ、明確に、その浮き世から離れた金の目で伊角を見ていた。川底の砂金粒を探すような眼差しから一転、へらりと目元を緩めている。
「『いすみようかん』だ。美味そうな名前だと思ってたんだよなァ」
「貴様ァ!」
耐えかねた虎八が前に出るが、男はひょいと避けて一歩踏み出し伊角に問いかける。
「なあ、アンタがよーかんさんで間違いねェな?」
気安い仕草で見上げてくる瞳は底が見えない。じっとりと妙な心地が伊角の背中を這い回る。虎八の声も水を通したように不鮮明に聞こえる。
――何だ、この男は?
腰の重みを確かめる。愛刀は確かにそこにあった。いつでも抜く準備はある。いつでも、抜ける。
伊角はゆっくりと、重々しく頷いた。唾を呑む仕草を隠すように。
「如何にも。私が伊角が当主、耀灌だ」
「あっは、何だ、思ってたより若いじゃねェか」
男は破顔した。そうかそうかと頷いて、目元に落ちる前髪を片手で掻き上げる。
露わになった金の目が中天の陽光を受けて光る。その輪郭が細められたのは、陽が眩しかったから、ではあるまい。
「いやァ、よかったよかった。オレぁアンタを待ってたんだよ」
「……何だと?」
背後でちゃがちゃと、刃鳴りの音が重なった。
列を成す兵たちのみならず、笑う男の向こうの虎八も既に柄に手をかけていた。
伊角は視線で虎八を制する。対する男は向けられたいくつもの敵意によもや気づいていないのか、あるいはどうでもよいのか。一切気にした風もなく続けた。
「アンタを七宝に入れるな、テーチョーに追い返せ、ってさ」
光刃が奔った。
空が真っ二つに切れる。鋼がひゅうと啼いて上段から。男のざんばら髪を散らして脳天へ一直線。確実に叩き斬る一撃。その向こうに虎八の鬼気迫る顔があった。
獲った、と。ちいさく上がる口角が見えた。刃鳴りと敵意を前に身構えもしない男の真後ろからだ。避けられたとしても痛烈な一撃を与えることは疑いようもない。
伊角もそう思っていた――男がひょいと首を傾け、ここまで後生大事に抱えていた刀を無造作に肩口に押し上げるまでは。
「がッ――!」
虎八の顔面に柄頭がめり込む。そのまま勢い込んで後ろに倒れ、どうと音が上がった。
男は虎八を振り向きもしない。肩に掛けた刀を下ろし、ゆっくりと、しかし無造作に振り抜く。からんと涼やかな音と共に鞘は悶絶する虎八の足下に転がった。その間も男は伊角を見ていた。
伊角は男を、そして抜き身の刀身を見る。黄金の瞳は何らの気負いもなく、その様がまた剣呑だった。構えるでもなく握られた刀はだらんと切っ先を下げ、仄かに赤みを帯びた鋼を晒している。
砲声が上がった。伊角の背後で耐えかねた武者たちが動き出す。男への罵声、伊角への喚起、虎八を案じるもの。混じり合ったそれらに押されるように伊角も抜刀する。男が何なのかを図りかねるまま。
「さあ、」
若い衆が当主を守護せんと伊角の隣に、前に出る。背後では各々得物を構える硬質な音が重なる。
人波に隔てられてゆく向こうで、男の舌舐めずりが見えた。
「イこうぜ――紅蓮」
朗らかに、歌うように、男は『誰か』に囁いた。
伊角の隣で虎八が一歩前に出る。ここに至るまでの全てが間延びた動作の男は、一度も刀を持つ手を緩めていない。
少しの距離に目を細め、伊角は男を探る。
歳の頃は伊角よりは若そうである。煤色の着流しを朱の帯で適当に締めており、胸元まで存分に開けていた。肉づきの薄っぺらい身体で、そのだらしない佇まいもあってまず武士ではないだろう。よくて武家を放逐された無頼の者といったところか。
それにしては、あの適当に羽織っただけの着物が、何よりも抱えた刀が遠目にも――上等に過ぎる。
「あ?」
「――ッ」
目が合った。
目元を擦る指の隙間から垣間見えたのは、どこか浮き世から離れた、金色の目であった。
伊角の視線は刀に注いでいたはずだったが、その持ち主と目が合ったのだ。まるで遮るように、だらしのない姿からは想像もつかない俊敏さで。
にわかに身構える伊角からは興味が失せたとばかりに男がぶるぶると頭を振る。切りっぱなしたざんばらな髪が散る様は雨に濡れた犬のようで、刹那漂った剣呑さはもうない。最後にもう一度大きく伸びをして、それから男は金の目を細めた。ぎゅうと眉間に縦皺を刻み、睨むように目元を力ませている。
「……ゾロゾロゾロゾロ、こんなトコで何の行列だアンタら?」
「……っ東国は伊角様の戦行列だと言うたであろう! いいから道を開けよ!」
「いすみィ?」
虎八は苛立たしく告げるが、男は暢気に首を傾げた。何かを探し当てるように中空を見つめている。
周囲から閉じた七宝において、天下の覇を争う武家の名など遠い世界のものであろう。まして伊角の家は、恥じ入るばかりではあるが然程大きい家でも、古くから続く名門でもない。ここに至るまでの道中でも伊角の名を知らぬ市井の民など多くいたし、武家を相手にする旅籠の下男下女でも覚えのない様子だった。
領地の外に一歩出れば伊角を知らぬ者がいるなど、いくら憤ろうと周知の事実だ。伊角は身の程をよく弁えている。であるなら側仕えたる虎八も理解しているはずだ。
にも関わらずここまで虎八が憤るとは。上洛を目前にした妨害や主たる伊角に対する不遜が気にくわないのもあろうが、何よりも対する男の空気が悪い。武士の命たる刀を抱えながら、武士にはあまりにも似つかわしくない姿格好に立ち居振る舞い。武士たるとは何かを重んじる虎八には許し難いに違いない。
そもそも、まず話が噛み合っていない。否、会話をというものをしようという気がない。虎八もだが、男もだ。
「……ア~……いすみ。いすみ? いすみィ……ナニ?」
顔見知りに挨拶でも投げるような軽佻浮薄。何度も伊角の名を口の中で転がした末、敵意を剥き出した虎八相手にこれだ。
伊角の名に聞き覚えがないにしろ戦行列を見慣れないにしろ、武器を携えた集団を前に男は少しも気にした様子がない。
「伊角家が御当主、耀灌様だ! 貴様、不敬であるぞ!」
「あァ、やっぱりな、それそれ」
ついには不敬を吼える虎八を前に、まるで聞こえていないかのように男は身体を傾けた。
目が合う。怒れる側仕えを追い越して、男は今度こそ、明確に、その浮き世から離れた金の目で伊角を見ていた。川底の砂金粒を探すような眼差しから一転、へらりと目元を緩めている。
「『いすみようかん』だ。美味そうな名前だと思ってたんだよなァ」
「貴様ァ!」
耐えかねた虎八が前に出るが、男はひょいと避けて一歩踏み出し伊角に問いかける。
「なあ、アンタがよーかんさんで間違いねェな?」
気安い仕草で見上げてくる瞳は底が見えない。じっとりと妙な心地が伊角の背中を這い回る。虎八の声も水を通したように不鮮明に聞こえる。
――何だ、この男は?
腰の重みを確かめる。愛刀は確かにそこにあった。いつでも抜く準備はある。いつでも、抜ける。
伊角はゆっくりと、重々しく頷いた。唾を呑む仕草を隠すように。
「如何にも。私が伊角が当主、耀灌だ」
「あっは、何だ、思ってたより若いじゃねェか」
男は破顔した。そうかそうかと頷いて、目元に落ちる前髪を片手で掻き上げる。
露わになった金の目が中天の陽光を受けて光る。その輪郭が細められたのは、陽が眩しかったから、ではあるまい。
「いやァ、よかったよかった。オレぁアンタを待ってたんだよ」
「……何だと?」
背後でちゃがちゃと、刃鳴りの音が重なった。
列を成す兵たちのみならず、笑う男の向こうの虎八も既に柄に手をかけていた。
伊角は視線で虎八を制する。対する男は向けられたいくつもの敵意によもや気づいていないのか、あるいはどうでもよいのか。一切気にした風もなく続けた。
「アンタを七宝に入れるな、テーチョーに追い返せ、ってさ」
光刃が奔った。
空が真っ二つに切れる。鋼がひゅうと啼いて上段から。男のざんばら髪を散らして脳天へ一直線。確実に叩き斬る一撃。その向こうに虎八の鬼気迫る顔があった。
獲った、と。ちいさく上がる口角が見えた。刃鳴りと敵意を前に身構えもしない男の真後ろからだ。避けられたとしても痛烈な一撃を与えることは疑いようもない。
伊角もそう思っていた――男がひょいと首を傾け、ここまで後生大事に抱えていた刀を無造作に肩口に押し上げるまでは。
「がッ――!」
虎八の顔面に柄頭がめり込む。そのまま勢い込んで後ろに倒れ、どうと音が上がった。
男は虎八を振り向きもしない。肩に掛けた刀を下ろし、ゆっくりと、しかし無造作に振り抜く。からんと涼やかな音と共に鞘は悶絶する虎八の足下に転がった。その間も男は伊角を見ていた。
伊角は男を、そして抜き身の刀身を見る。黄金の瞳は何らの気負いもなく、その様がまた剣呑だった。構えるでもなく握られた刀はだらんと切っ先を下げ、仄かに赤みを帯びた鋼を晒している。
砲声が上がった。伊角の背後で耐えかねた武者たちが動き出す。男への罵声、伊角への喚起、虎八を案じるもの。混じり合ったそれらに押されるように伊角も抜刀する。男が何なのかを図りかねるまま。
「さあ、」
若い衆が当主を守護せんと伊角の隣に、前に出る。背後では各々得物を構える硬質な音が重なる。
人波に隔てられてゆく向こうで、男の舌舐めずりが見えた。
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