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8話 動揺に次ぐ動揺 1/2

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ハサミが襲ってくるなんていう、姿が変わること以上に恐ろしい現象。

無機物に襲われるっていうポルターガイストどころじゃないハプニングだ、ホラーもスリルものも大の苦手な僕はたまらずにばばっと身支度を済ませてさっさと家を出た。

普段みたいに気をつけるなんてムリだからとにかく急いで逃げた。
だってあのままだとなんか怖いし。

ああ言うのって追い打ちがあるって……創作上の世界では相場が決まっているから、無いって分かっていても不安でしょうがなかったんだ。

僕以外のなにかが勝手に動くなんて状態の家の中に留まっていられる神経は存在しない。
家の中に何かがいるって時点でムリなんだ。

「………………………………………………」

荒い息を抑えながら不自然じゃないようにって周りをきょろきょろ。

とっさだったから家を出るときよく見ていなかったんだけど……運がよかったみたいで周りには誰もいなかった。

……今のはしょうがないんだけど気をつけないと危なかったな、今の。
こういうのでばれたりするもんだから気をつけよう。

反省はあとでするって決めて目立たないようにすみっこを歩きながら、できるだけ家を離れることにした。

考えごとがあると周りが見えなくなるのは僕の悪いクセ。
普段以上に気をつけながら歩く。

全裸っていう完全に無防備な状態の僕に刃物が……自分の意思かなにかで牙を剥いたっていう異常事態からほんの少し。

世界はあいかわらずに静かで変わりがないみたい。
むしっとしてて真っ青な空を眺めながら、僕っていう物理的にちっぽけな存在が実感される。

……いちおう僕としてはがんばったんだ。

僕はあの後すぐに逃げ出したりはしないで「どうせタイルもハサミもダメになったから」っていうのと「あれは1回限りのものなのか」って確認するために、とっても怖かったけどもう1回……今度は梳きばさみで試してみようってしたんだ。

怖かったからもちろん服を着たり首元にタオルって最低限過ぎる防備くらいはして。

けど、やっぱりおんなじだった。

梳きばさみも……偶然なのか指を痛めないようにって配慮があったのかは分からないけど明らかに普通じゃない力がかかって、まるで生き物みたいなうねうねって動きをしながら器用に指をすり抜けて僕から離れるように飛んで行って、後はおんなじ。

別のタイルを破壊して壁に刺さって落ちてはさみ自体も壊れていた。
そりゃそうだよな、お風呂場のタイルなんて相当硬いはずだし。

……ハサミを入れたところとかいろいろ変えたのに刺さった場所はほとんどおんなじだった。

どうせ刺さるなら同じところだったらよかったとかいうどうしようもない感想。

刺さっているのを間近で見てからなんでわざわざこれが僕に刺さる可能性があるのにやったのかとかいうわりと真剣な反省。

せめてちゃんと厚着をしてからにすればよかったのにとか。

こういうときって案外に冷静で意識はちゃんと別のことを考えてるんだよなとか、そういうことを数秒で考えてからやっぱりするんじゃなかったってダメージを受けつつ、この現象が髪の毛を切ろうとするだけで起きることを再確認したんだ。

……これはどういうことなんだろう。

まず、こんな危ないのはこの体になってから初めてってことと、その前にももちろんなかったってこと。

前、つまりは元の体で刃物が飛ぶなんていうこの不思議な力を体験したらすぐに神社でもお寺でも教会でもどこでも良いから駆け込んで良さそうな人にお祓いを頼むはずで、そうすれば気が楽になったはずなんだ。

だから逆にこんなことが起きたのは……封筒を開けるときのハサミとかカッターとかじゃならなかったってことで、つまりは髪の毛を自分で切る、それも今の体のをって言うのが推測できる。

ただの状況からの推測だけどなんにもしないでただ怯えるよりは良いだろう。
人はよく分からないものでも理由があればわりと平気になる生きものらしいし。

で、日常生活で行う範囲の飲食だったり入浴だったり髪を纏めるとかそういったものはトリガーにはなりえない。
じゃないととっくにこんな目に遭っているはずだから。

だってもう1ヶ月なんだし。

でも髪の毛を切るってことが日常の範囲から外れるかどうかっていうと疑問がある。

いくら僕がだめなニートだって人間である以上新陳代謝はする。
事実今までだってトイレにも行ったし涙や鼻水も出たし爪も伸びた。

その爪を切ったり紙で指を切ったりしてケガをしたりしたからただ体を傷つける行為とか傷つける刃物が原因だとは考えにくい……はず。

料理だってして包丁も使ったしな。

……料理で反応されたらそれはそれでこんなもんじゃなかっただろうな。
空飛ぶ包丁とか怖すぎるもん。

「………………………………………………」

それなら髪を短くするっていう、この見た目を大きく変えるってことに反応したのかな。
そんなんでハサミをすっ飛ばすなんてバカじゃないのって思うけど、それ以外の深い理由が無ければこの思いつきくらいの原因しかない。

だってそもそも僕を女の子にして小さくしてそっくり変えちゃったって言う「変身」っていう最初にかかった力は、他ならぬ「僕の見た目を変える」ものなんだ。

不思議な力が2回ってあったらまずは関連性を疑う。
そうすると僕の見た目のことしか思い浮かばないんだ。

なんでこうなるのかとかそもそもどうしてこの幼女になってるのかとかいう理由にはまったく見当がつかないけど、この力は僕の見た目をこの少女にすることが目的で、爪とおんなじように要らないはずなんだけど見た目をはっきり変える役割がある髪の毛を……短くするのに反応したとしたら。

ぐるぐるって回ってた僕の意識がぴったり止まる。

――――時間が経ってもこの見た目を変えないようにするんだったら。
こんな子供の姿から成長するっていう当たり前のことも……………………?

「………………………………」

通りを走る車の音とか遠くのサイレンの音とかが聞こえる。

汗がぶわっとにじんでくる。
今日だけで2度目の感覚。

気がついたら立ち止まっていたからそろそろと歩き始める。
なんだかすぐ後ろから追いかけられてる気がしてちょっとだけ早歩きで。

……とってもイヤなことを思いついちゃった。

なんで僕はこう悪い方向へだけは思いつきがいいっていうか勘が働くんだろう。
生来がネガティブだからか。
あるいは推理小説を推理しながら読む派だから、なんだろうか。

……この幼い姿。

身長体重は小学校低学年の全国平均で薄い色の髪の毛は腰まであって、おんなじ色の目は夏が近づいて来た日光で痛くなって、肌がとっても薄くて白くって……知らない顔の「幼女」って呼ばれる存在の姿。

手のひらはスマホの操作もキーボードもちょっと困る程度にはちっちゃくて丸っこくて。

成長して大人になるという前提で考えて動いているわけだけど、もしこれがまちがっていて「そもそもこの姿から変われない」んだとしたら。

そこまで思い至る。
思い至ってお腹と胸が痛くなる。

ストレスに弱いのは相変わらず。

それが救いになる程度に「前の僕」と「今の僕」はかけ離れていて。

「………………………………」

保留しておこう。
今すぐに結論を出しても意味がないしまちがってるかもしれない。

また何かが起きるかもしれない。
さっきのことでまだ動揺しているんだ。

こんな状態で考えても悪い方ばかりに考えが向くだろうし、現に今もイヤな考えを振り払うのだけで精いっぱい。
真後ろから怖い何かがひたひた着いてくるって言うホラー映画みたいな感覚が離れてくれないんだ。

適当に人の多くて忙しいところをぶらぶらして気を紛らわせよう。
心細いときは目も合わせなくて良いから人が多いところが良いんだ。

僕はむりやりに頭の中に湧いてくる考えを押しとどめながら、まだお昼になっていないのに真夏日な炎天下を……この前揃えた春の服装にパーカーという服装で日光にじりじりと焼かれながら繁華街へと向かった。


◆◆◆


ぱんつ。

僕が怖い目に遭うなんて想像もしてなかったあるときの僕の手には真っ白いぱんつがある。

ぱんつでもパンツでもいいけどニュアンスが違いそうな1枚の布きれ。
男の僕が現物を現実で目にしたことがないそれは、よりにもよって僕が男じゃなくなってから初めて目の前に広がっている。

お風呂上がりで全身の肌が火照っていてしっとりしていてうっすらと水分が光っていて、タオルで拭いただけの重い髪の毛が体に巻きついている状態。
すっかり慣れた女性用というよりは女の子用の……キャラクターがプリントされてる女児用じゃないやつだ……パンツを手に取って、ふと思うところがあって掲げてみるている。

母さんが生きていたころは洗濯なんて畳むのすら手伝ったことなんてなかったし、母さんたちが居なくなるその前にも後にも女の人と交際したことも……この布きれを見て触るって言う機会も、当然ながらなかった。

だから先月苦労して手に入れたささやかなリボンが前についているだけの真っ白で小さいこれが、僕が初めて見て手にする女性用の下着。

悲しいけど実物を目の前にするだけでちょっと嬉しくなるのが悲しい。

男なんて所詮はそんな生きものだ。
プログラムされた本能には抗えないんだ。

つまり僕の脳みそ、意識は男……少なくとも女の子を気にする作りのままってことでちょっと安心できる。

これで嬉しいって思えてる内は。

女の人でも女の子が好きな人は居るし男でも女の人が好きじゃない人も居るけど、僕はごくごく一般的な感性しか持ってないからこれでいいんだ。

パンツ。
ぱんつ。

男物のブリーフともトランクスとも違ってボクサーなんかともまた違うすっきりとした三角形の布。

下着属性はもともとなかったしそもそもが子供は対象外だったんだけど、それにしてもあいかわらず視覚的なインパクトはすごい。

ただの布なのにな。

いかにあふれかえってる娯楽コンテンツで刷り込まれてきたかっていうものだ。
見たこともないのに好きでたまらないっていうよく考えたらなんか恐ろしい現象。

その純白を手に取ってよく観察してから脚を通していく。
まだ新しいから洗えば綺麗になるけど、きっとそのうち男物とおんなじでだんだん汚くなるだろうから買い替え続けるもの。

人間だから当たり前のこと。

それは穿く前に内側か外側を確かめてからじゃないと前と後ろを間違えやすいもの。
左右が分かれてる靴下とかシャツの表裏とかと似た感じに。

物理的に飛び出しているのをしまうための膨らみとか穿いたまま出すっていうすっごく便利な機能のための切れ込みがないんだから、とにかく間違えやすい。

男がぶらぶらさせずに隠すためだけに穿くただのパンツと女性が穿くぱんつとの1番の違いだろう。

イメージ的にも機能的にも。

まぁきちんと見れば広げなくても前後は分かるしタグみたいに目印がついているんだけど、ぼーっとしていると今でもときどき間違える。

これなら手に取っただけではっきり見えるリボンとか刺繍がついているものを選べばよかったか。
いやいや、あのままだとどう考えてもピンク系かキャラクター系になっていたからこれでよかったんだろう。

さすがにそういうのは勘弁だ。
僕の成人男性としての自尊心が穿くたびにごりっと削れていくだろう。

ぱんつの前と後ろを間違えるとお股がゴワゴワしておしりが柔らかくなるし、なにより穿いたときの感覚が違うから1発で分かる。
違和感はそれほどないんだけどそれでもなんか違うっていう感じになるんだ。

こんなものでもちゃんと細かく考えて作ってあるんだなって感激だ。

あとパンツってすごくぴっちりしている。
それはもうぴっちりとお股全体を包むようにフィットしているんだ。

感覚的には水泳教室に通っていたときの水着くらい?
昔過ぎてよく覚えてないけど多分そんな感じ。

なんていうかお股全体を締め付けられるっていうか守られているっていうか、なんていうか……慣れるまではきつくてイヤだったけど慣れると温かみがあるっていうか安心するっていうか?

不思議な感覚。

念のために調べてみたし店員さんが合ってないって言わなかった通りにサイズは合っているみたいだけど、まだこの感覚に違和感がある。

特にいちばん大切なぶぶんと太もものつけ根が。
幼児とは言っても構造上は立派に女の子らしい。


◆◆◆


「はぁ――――………………………………」

そんなどうでもいいことを思い出しながら僕はわざとらしくため息をつく。

クーラーが効いて涼しい屋内、人がたくさんいる場所で――顔も髪の毛も出して。

何十回めかの拒絶をこれ以上わかりやすい形はないくらいに。
僕の全力を尽くして。
言葉にできないこの気持ちを届かせたくって。

だけど僕の大切なこの気持ちは伝わらないっていうよりは無視されている。

なんてことだ。

やっぱり世界は幼女に厳しい。

「ですから是非一度スタジオの方まで来てみてください! きっと気が変わりますからっ! 響さんと同じくらいの年の子もいますしお友だちにも自慢できますし! 今でもテレビや雑誌って言うのは全国の女の子たちの憧れなんですよ! もちろんネットでもっ」

僕は女の子じゃないし憧れなんかしない。
そうは思うけど口が動かないんだからじっとするしかない。

高い声の女の人が今みたいなセリフを微妙に変えるだけでリピートしながらまくし立てる。

「ですから今井さん、落ちついてください……断られましたけど名刺は受け取っていただけたじゃないですか。 今はそれで満足しましょう。 ご興味があまりないようですし、しつこいと悪い印象しか持ってもらえません。 いつも言っているでしょう、強引な勧誘は逆効果だって」

もうひとりの男の人は僕の味方をしてくれる。

いや、この人がそもそもの発端なんだけどな。

さらに言えば僕は知っている。
こういう飴と鞭って言うペアの組み合わせはうさんくさい人たちの常套手段なんだ。

「………………………………………………」

だから僕はシャツを両手で掴んだままじっとこらえる。

「いいえ萩村さん! 私の勘がささやいているんです! ここで最低でもスタジオ見学のOKをもらわないとこの子が……響さんが私たちの元に来ることはもう無いんだと! そう! そうなんですよ! 萩村さんほどじゃありませんが私にだってわかるんですよ! 直感なんですっ! この前スタジオに来たあの子のときだってそうだったじゃないですか! 今、このタイミングが命なんです! 袖触る縁ですよ!」

僕の右側でそう断罪する女の人。

「まぁそれは分かりますけど……響さんは今のところご興味がないようですし、今井さんの説得を受けてもその気にはなっていませんし。 ……私としてはあくまでご本人がご自身からという意思を尊重したいんです。 学業や部活、親御さんの意向もあるでしょうし……」

僕の左側でそう弁護してくれる男の人。

ヒートアップしていく今井さんというらしい女の人とそれをなだめる萩村っていうらしい男の人。

あとはその真っ正面で耐えている僕。
まるで裁判所にいるみたいな感覚だ。

この組み合わせも会話も人の注目を引くには充分だったみたいで、とにかくまぁ見られる見られる。

やめて見ないで。
僕は目立ちたくないんだ。

……人の多いデパートの1階、それも大型連休中のとあってごみごみしているところに居る僕と来ちゃったふたり。
しかも座って休める中央のスペースで騒いでいるんだからそりゃあ誰だって見るだろう。

僕だって他人事だったら立ち止まってのぞき込むくらいはするかもしれないんだし。

警備員さんはどこだ。

困ってる幼女がいるっていうのに頼れる人たちが来る気配がない。

「………………………………………………」

しかもスマホを向けられて――明らかに撮られている気がしてさらに嫌な気持ちになる。
立ち止まって見なくてもいいだろうし見るのならもっと離れるかしてほしいし、なにより無断撮影も録画も止めてほしい。

肖像権とかどうなってるんだ。

かつてないほどに大量の人から注目されて……まぁ注目されているのは主にこのふたりだけなんだけど。
だって僕はだんまりだし、そもそも背が低いから人垣の最前列の人からしか物理的に見えないし。

けど僕が見える10人くらいの人からは僕が見えるわけで見られるわけで。
すっごく勘弁してほしいけど逃げるに逃げられない状況でふたりの口論は続く。

ついでに、つい教えちゃって後悔してるけど僕の名前を大声で連呼しないでほしい。

やめて。

「そうなんですけど、そうなんですけど……――っ! 今じゃないとダメなんですよ。 萩村さんそこをなんとか! なんとか抑えて一緒に説得を!! なんなら他の子たちを応援に」
「今井さん声、声! 声を抑えてください」
「今はそんなことを言っている場合じゃないんですっ」

そんなこと言ってる場合だよ。

頭の中だけで反論。
そういうのだけが得意。

こっそり男の人……萩村っていう名前を応援するも今井っていう人はへこたれない。

「………………………………」

たぶん大人に叱られた子供みたいに見えるだろう僕はうつむくしかない。
こういうところで大声で堂々と発言する元気があればニートはしていない。

ニートをなめないでほしい。
なめられた結果がこれなんだけども。

――その騒ぎは収まるどころかますますせわしなくなっていく。
いつになったら終わるんだろうな、この茶番。

そう思いながら僕は帽子のつばをギリギリまで下げながら諦めずに逃げる方法を模索していた。

……いざとなって全力で走ってもあっさり捕まえられる前に転びそうな程度には自身の無い体力を思い出して僕はしょげた。





うんざりする目に遭うって知らなかった……ハサミに襲われたって言うのをすっかり忘れるくらいの悲劇に見舞われたのは偶然。
こんな偶然があってたまるかって思うけど実際に偶然なんだ。

そんな僕は日陰を選んで歩いていたらいつの間にか駅前に来てしまっていた。

せめてもっとマイルドなワンクッションがほしかったとか未知の力に対して意味のない要望を頭でぐるぐるさせながらハサミのことばかり考えていた僕。

そのせいで完全に油断していたんだ。

というか少女になるって言う……半ば魔法みたいな力がかかっているなんてすっかり忘れるくらいには慣れていたのもあって、あんなのは予想もしていなかったしそもそもできないものだったからしょうがない面もあるんだけども。

「ふぅ」

暑かった。
暑かったんだ。

それもあったから絶対に僕の髪の毛と顔を見られないようにっていう意識がちょっとだけなら……って気が抜けてたんだ。
家の目の前じゃないしっていう油断もあったかもしれない。

急いで服を着て飛び出して来ちゃったから結局この前来たときと同じような格好で同じ場所に来ることになった僕。
春用の服装だったから歩いてくるだけで日差しと熱気で首筋が蒸れていた。

頭の後ろから肩がむしむししていた。
新鮮な不快感。
知りたくはなかったその感覚。

あまりに多い人で嫌気が差しつつも暑さにはあらがえなくって、人の波に乗って手近なデパートへしぶしぶと入っていくと入り口を通り抜けた瞬間から一気に清涼感で……僕の警戒心はゼロになった。

あぁ……涼しい。

僕はもうなんにも考えてなかった。

涼しくなったことで今度は汗が気持ち悪いって気づいてちょっとだけフード取っちゃってもいいよなって思っちゃって。

ハサミがちらついて落ち着かなかった緊張が解れたのと久しぶりに外に出て満足しているのと涼しさとでぼーっとしていた僕は、なんにも考えずにフードと帽子を外して涼をとる愚策をおかした。

「………………………………ふぁぁ」

変な声が漏れるけどしょうがない。

天国だって思った。
実際には地獄の入り口だった。

首より下の髪の毛は服の下のままだけどそれでもぜんぜん違う感覚が嬉しくて。

これからはもうエアコンなしでは厳しいな。
梅雨まではずっとこんな感じみたいだし家でもクーラーかけよう。

これまでは室外機の音とかを気にしてたけど熱中症とか怖いしとかどうでもいいことを考えながら素顔をさらし続けて。

でも髪の毛が長いと耳周りや首が暑苦しいな、特に夏は。
髪を切れないなら後ろで纏めるしかないか。
この見た目ならどんな纏め方でも行けそうだけどもっと幼く見えたらアレだしな。

「うーん」

そんな、ほんっとうにどうしようもないことをしながら僕は歩いていた。

とりあえずはこのままロビーの空いているソファとかに座って体が充分に冷えてから考えよう。

そうしていつものクセで、ただ人の波に乗ってぶつからないように目的地にオートで行く機能を有効にしていたのがとどめだった。

「……あの、すみません。 ……すみませんそちらの方。 あの、美しい髪の毛の……そう、あなたです。 少しだけおはなしの方よろしいでしょうか?」

そうして僕は目の前の猛獣に気がつかずに頂かれにのこのこ歩いて行っていた。

ここで「よろしくないです」って言って素通りできたら最悪は防げたのに、僕はそれに気がつけなかったんだ。

だから僕は今でも左右からの弁論をじっと耐えているんだ。
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