きつねうどん、たぬきそば

ユカ子

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きつねうどん、たぬきそば

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 体育祭の前日を控え、生徒は準備に追われて、教員も授業もそぞろに体育祭の話で盛り上がっていた。この学校の体育祭は市民ドームを貸しきって行われるので、観客も多い。学生の保護者は勿論、近所の老人ホームの面々が見学し、屋台も出る。
 正之助も体育祭の準備に、勿論狩り出されていた。進也に化けた正之助は進也が市民ドームにいる間は自分は学校にいて、残る雑務をこなしていた。仕事はそう多くない。いくつか仕事を片付けてから、正之助は職員室に赴き、英介がいない事を確認する。
「さて、と」
窓を開けて周囲に誰もいないのを確認すると、頭に葉っぱを乗せてドロンと鳥に変化して、正之助は空へと飛び立った。


 体育委員のメンバーに混じって、純は設営を手伝っていた。設営中も、茂樹と純の話題は体育祭ではなく、正之助の話ばかりだった。あれから純は親と話し合い、まず大学を受験して、大学生活を続けていく中でそれでもパティシエを目指したいなら大学を卒業した後に入るよう、互いに折れあった。少し夢が遅くなるが、反対はしないと親は約束してくれた。その説得に当たったのが、茂樹だった。進也に電話した時、茂樹は進也に言い返された。自分はそこまで純の為には動けない、純の為に何かしたいならお前がしろと、冷たく突っぱねた。茂樹は憤慨していたが、進也が当てにならないと分かったら腹を括ったのか、純の家をすぐに訪ねたようだ。
 以前より距離が近くなった二人は、互いに正之助に暴言を吐いた事を告白し、すぐにでも謝ろうと思っていたのだが、タイミングが合わずに正之助とは会話をしていなかった。純も茂樹も無理に正之助を引き止める事も出来なくて、そこで進也に頼る事になった。
 先生からやっと解放された進也が戻ってきた。調子が悪いのか、頭を押さえている。
「進ちゃん、朝から具合悪そうね」
「二日酔い」
「珍しい。進也が飲むなんて」
「正之助に付き合ったんだよ。あいつの方が参ってた癖に、今朝はケロッとしやがって」
自分からワインを勧めたのに、進也は勝手な悪態をつく。
 純と茂樹は顔を見合わせ頷くと、進也に頭を下げた。
「ねぇ、お願い。正ちゃんと話すチャンス作ってよ」
「俺からも頼む。あれから全然正之助と喋ってねーんだよ」
そう言えば、自分も今朝から正之助と口を利いてないと思い至る。普段は抜けている狸なのに、のらくらと人をかわすのはなかなか長けていると思う。あのひょうひょうとした所が、これまで誰も深い関係の人間を作らずに居られた術なのだろう。だが、それも一度破ってしまえば、もう二度と通用しない。
「分かった。お前ら、ちゃんと謝れよ。正之助はただ阿呆で鈍感なだけで、なぁーんにも悪い事してねーんだからな」
酷い言い様で、純が呆れた。
「進ちゃん、言い方きつくない?正ちゃんには特に」
「俺よりもキツいよな。お前もこれを機会に、正之助にはもっと優しくなろうぜ」
茂樹の気ままな提案に進也は乗らず、フンと鼻で笑って、舌を出す。
「いいんだよ、俺は」
「なんだそりゃ。お前は正之助の恋人か!」
そう言われて、その言葉がストンと胸に落ちた。これまでを振り返ってみるに、秘密を共用し、肌を重ね合わせていた二人はまさしく恋人に相違ない。
「そうかもな」
進也の返事に、茂樹と純は体を強張らせる。固まってしまった二人とは対照的に、進也の表情は晴れ晴れとしていた。
「おいおい・・・・」
「進ちゃん・・・・?」
怪訝そうにこちらを見やる二人に、進也はニッと楽しげに笑うと、歩いていった。

 市民ドームではPTAも大勢参加して、設営を手伝っていた。PTA会長は息子と一緒にスピーチの打ち合わせを校長と行っている。その様子を横目に、進也が進行表を確認していると、後ろから声が掛かった。
「進也」
後ろはもう壁だ。誰も居ない筈なのにと視線を彷徨わせれば、足元に一匹の猫がいた。ニャアと猫は鳴くが、それが狸だとすぐに進也には分かった。
「正之助。仕事、終わったのか?」
「こっちはほぼ片付いた。それでさ、話があるんだけど・・・今大丈夫?」
「?あぁ」
教員に猫が侵入したので連れ出してきますと言い、進也は猫を抱き上げて外に出た。市民ドームの裏口には体育祭に使用する大道具が沢山届いており、未だ整理出来てなくて、その中はちょっとした隠れ場所になってしまっている。大道具の影に隠れて、正之助がドロンと人間の姿に戻った。
「今日、約束の日だよね」
「・・・・・・それはもういいって」
武信と縁を切って欲しいのは山々だが、正之助をあの教師と絡めたくない気持ちが強い。他にも方法はある筈だ。大吾にはっぱをかけて、彼を利用する手段だってある。そんな進也の胸中知らず、正之助は尚も言った。
「よくないよ。俺はもう解放してほしいもん」
「・・・・・っ」
ドクンと大きく胸が鳴る音が間近でした。大きな音だった。動揺の音だ。ショックを受けていると、自覚する。
「お前はさ、稲荷さんとあの教師を別れさせたいんだろ。だったら、回りくどい方法しないで、俺が稲荷さんに変化してあの教師と話つけてくる」
それは進也も考えた。だが、武信に変化するのは進也は躊躇われた。それだけはどうしても嫌だった。
「・・・あの教師は・・手ごわいぞ・・。お前なんかが・・・話まとめれんのか・・よ」
やっと出た声は変に強張っている。
「もし、あの教師が納得しないんならさ、俺が稲荷さんになって代わりに相手してやってもいいよ。毎日じゃないんでしょ?稲荷さんと会うのは」
「馬鹿言うなよ!」
咄嗟に進也は怒鳴っていた。思いのほか大きな声で、慌てて口を押さえる。正之助はきょとんとしていたが、フッとすぐに笑顔に戻った。
「阿呆から馬鹿に昇格?フフフ、そう心配すんなって。今までお前とやってた事を、あの教師とするだけだろ?これで丸く収まるんじゃないの?」
「・・・・お前・・」
どくんどくんと心臓の音が大きく早く鳴っている。嫌な汗が頬を流れた。
どうにかしてこの狸を止めねばと焦るのだが、正之助の言葉が胸に痛くて、言葉がうまく紡げない。正之助は狸だから人間のような繊細な感情の機微など理解しがたく、貞操観念も低い。自分じゃなくても、正之助は誰にでも肌を合わせられるのだと思うと、進也は胸が痛かった。それがうまく言えなかった。
「・・・お前なんかが・・・稲荷さんに・・変化出来んのか・・」
ニコリと笑った正之助は頭に葉っぱを乗せると、ドロンと武信に変化して見せた。お尻から狸の尻尾が生えている。よく知らない人間に変化した時はいつもこうだ。それを指摘する気力は進也には無かった。
 正之助は狼狽している進也の頭にポンと手を乗せた。ビクッと進也は体を震わせる。
「なぁ、進也。俺が全部終わらせてくるから・・・、お前は稲荷さんとちゃんと向き合うんだ」
「・・・・・正之助・・・」
「お前がどれだけ稲荷さんを想ってたって、騙し続けていたらいつまでたっても本当の家族にはなれない」
思いもよらない忠告を受け、進也はカッとなる。なんで、狸如きに説教をされねばならないのか。
「お前には人間の複雑な気持ちなんざ、わからねぇよ!」
純や茂樹があれだけ正之助を傷つけたと知っていたのに、つい進也は声を荒げて言ってしまった。言ってから、すぐに後悔した。だが、すぐに進也は言い繕える狐じゃない。他の人間にならいくらでも嘘をついて、ごまかせる。しかし、正之助にはそれは出来ない。何故なら、正之助が唯一本音を話せる相手だからだ。
正之助は困ったように笑って、進也から手を離した。
「うん。俺には全然分からない。でも、きっと稲荷さんなら受け入れてくれると思うんだ。信じてみろよ、稲荷さんを」
「・・・・・・・・・」
「俺はお前を信じてるから」
もう一度優しく笑ってから、正之助はすっと一歩引いた。尻尾が出ている事に気づいた正之助は、もう一度ドロンと変化する。煙から出てくると、完璧な武信になっていた。
 俯いたままの進也に、武信は優しい声で囁く。
「・・・・それじゃあ俺を本当の稲荷さんだと思って、本心を言ってみろよ。今度は俺が練習台になってやるから」
進也は戸惑った。本当に、正之助は今日で全てを終わらせるつもりなのか。なかなか口を開けずにいる進也に、武信は更に言った。
「後でちゃんと代金として、お菓子を請求するけどな」
ニヤッと意地悪そうに笑った武信に、進也は肩から力が抜けた。この期に及んで、お菓子さえもらえればこの狸はいいのか、と。だったら、お菓子さえ渡せばこの妙な作戦も思い留まってくれるかもしれない。
「・・・阿呆狸」
ぼそりと進也が呟けば、武信はヘラリと笑った。その馬鹿みたいな笑顔に涙腺が緩む。思いの堰が、決壊する。
「いくら稲荷さんが動物好きでも、俺を大事にしてくれてても、現実問題、俺らみたいな化け物を受け入れる人間なんていねぇんだよ!俺だって何度も話そうと思ったよ!話したかったよ!家族になりてぇよ!でも・・・・」
そこで一息ついて、進也は本音を吐露した。
「嫌われたくない。俺はあの教師みてぇに・・自分の主張を稲荷さんに押し付けられない」
あんな人格破綻者なのに、それでも英介を武信は突き放した事は無かった。
「甘えたかったの?」
「・・・・・・うん」
そうだ、英介が羨ましかった。好きなだけ武信に甘えて、受け入れてもらって。
馬鹿みたいな願いだ。これじゃあ、狸を笑えない。でも、これが本音だ。自分もあんな風にべったり武信に甘えたかった。母親と早くに離れた進也は人里に下りてから人に甘えた事は無かった。初めて甘えられたのが、他ならぬ狸の正之助だった。
「稲荷さん」
目の前に立つ武信が本物の武信のような気がしてきて、ぽろりと進也は言葉を零す。
「俺は助けてくれて拾ってくれて、すごく感謝してるんだ。だから稲荷さんの役に立ちたい。役に立てればそれでいいと思ってた。なのに、あの男が現れてからは・・・・・もっと稲荷さんに甘えて傍に居て何でも話せる存在になりたくなった。そんなの無理だって分かってるけど・・・」
それは家族だったら当たり前の感情だ。父親相手に、子供が持つ、素直な願望だ。
 武信はそっと進也の肩に手を置き、首を振った。穏やかで柔らかい笑顔は、よく知っている武信のものだ。
「無理じゃない。・・・・・・怖いのは、人間でも狐でも一緒だ。私だって、いつお前が消えてしまうか・・・いつも怯えてた。知らない振りしていればお前が出ていく事は無いって、私もお前の本音に向き合おうとしなかった。そうやって、お前がずっと嘘をつき続けるように仕向けたのは、私のせいかも知れない。でも、このままじゃあ、お前はいつまでも檻の中にいるのと変わらないんじゃないのか?」
「稲荷さん・・・・」
「私の足の怪我を負い目に思ってるだけで傍にいるなら、今すぐ家を出て行きなさい。お前はもう自由なんだ。でも、そうじゃなくて、ただ私と一緒にいたいなら・・いてくれるなら、もう嘘はつかなくていい。狐でもなんでもいい、お前は私のかけがえのない家族だから」
道路に飛び出た進也を助けて稲荷が足に一生残る傷を負った話は、正之助にはしていない。どうしてそれを知っているのか。
ごくりと進也は唾を飲み込んだ。
目の前には完全な武信に化けた正之助がいる、そう思い込んでいたが、狸の気配がしない。もっと言えば、目前の男は正之助じゃないと今更気づいた。
「・・・稲荷・・さん?」
「進也」
その声で確信を得る。正之助じゃなく、彼は本物の武信だ。何もかもを話してしまったと、進也は青くなる。いつ、どうやって入れ替わったのか。そもそも、最初から正之助じゃなかったのかもしれない。騙されたショックよりなにより、全部話してしまった事の方が進也は怖かった。
 咄嗟に背を向けて逃げ出した進也に、声が追ってきた。
「進也!!逃げるんじゃない!!」
厳しい口調で命令され、進也は立ち止まった。
「騙した事は謝る。すまない。だが、お前もずっと私を騙してきたろう。お前にとって私は、正体がバレたら縁が切れるぐらいの存在だったのか?」
「違います!!!!」
進也は振り返って、怒鳴った。
「だったら、ちゃんと面と向かって話しなさい。私はそんな根性のない子供に育てた覚えは無いぞ」
グッと一度奥歯を噛み締めてから、真っ直ぐ武信に向き直った。離れた距離をゆっくり縮め、武信の前に立つ。そして、頭を下げた。
「ずっと騙していて・・・すみませんでした!」
ひょこっと進也のお尻から尻尾が出る。怯えている時つい出てしまうと、武信は既に知っていた。
「構わないよ。これからも一緒にいてくれるなら」
「・・・・・稲荷さん」
恐る恐る顔を上げた進也に、武信は安心させるように、優しく囁いた。
「お父さんと呼んでくれるなら、もっと甘やかせてやろう」
「・・・・・・うっ・・・」
思わず嗚咽し、進也はたまらず武信に抱きついた。がっしりしがみつく進也を受け止め、武信はその頭を撫でる。その頭にも耳が出ていて、武信は苦笑する。
「あの時・・・たすけてくれて・・・有難う・・・・・」
「うん・・・・・・・」
「ずっと・・・・そう・・言いたかった・・・・・・」
「私も・・・会いに来てくれて・・嬉しかった」
武信の胸の中は心地よかった。この心地よさを、進也は知っている。ずっと昔、怪我をして弱っている自分を、あの時もこんな風に抱き締めて、守ってくれた。
 じんわりと互いに互いの温かさに浸っていたが、ドームの中からぞろぞろ大勢の人間が出てきて、二人は慌てて離れた。出てきた人間の中に正之助の姿は見当たらない。
ぽつり、武信は言った。
「・・・正之助くんにもお礼を言わないとな」
「そうだ!忘れてた!!!お父さん、正之助は?」
「いや、私は知らないんだ。途中で交代して、それっきりだ」
「途中で交代・・・・」
と言う事は、最初に化けてみせたのは正之助だったわけだ。ならば、話していた内容はそのまま真実だった可能性が高い。正之助はそう嘘はうまい方じゃないのだ。
「・・・あいつ、本当にあの教師に会いにいったんだ」
「英介の事か?」
進也が嫌悪に満ちた呼び方をする教師は英介以外、いない。進也はコクリと頷く。自分と武信がうまくいったなら、もう英介を騙す必要は無いのに。何故。
 ドームから出てきた役員や生徒は、外に放り出したままだった大道具を整理し始めた。そこに混じって、大吾の姿が見えた。横に正平がいる。正平は何か大吾に詰め寄っている風だった。進也は嫌な予感がした。正平は大吾から離れると、進也に気づいた。
「正平、正之助は?」
「気安く呼ぶな・・・揚げ野郎」
進也はハッとなった。正之助が彼に話したのか。仲がいい兄弟だが、まさかあの正之助が自分の事を喋るとは思わなかった。途端、進也は警戒する。その雰囲気を察したのか、正平は言った。
「あんたとの事を兄ちゃんが話したのは・・・関係を終わらせる為だよ。それは分かるよな?」
「・・・・・・何が言いたいんだよ」
進也の声が低くなる。正之助にも腹が立ったが、この敵意丸出しの正平にも苛立つ。二人だけの秘密だと思っていたから、裏切られたと知ると胸がじくじく痛む。
「なに怒ってんだよ。兄ちゃんを振り回してたあんたが悪いんだろ。俺はあんたの事をバラしたりしない・・・あんたに興味もない。それより、兄ちゃんはどうしたんだよ?」
苛々しながら進也も答えた。
「それは俺が聞きたい」
「しらばっくれんな。俺だってあんたに聞きたかねー。でも、あんたしか分からないから、顔も見たくないあんたに聞いてやってんだよ。教えろ」
一々腹の立つ言い方をするのは正之助と似ている。もっとも、正之助は無意識だが、正平は分かって言っている。
「なんで俺が知ってんだよ」
「兄ちゃんは、俺とお前が人間に混じって暮らせるよう手を打つって言ってた・・・・。さっき、宇佐木を問い詰めたら、あの英語教師に呼び出されたって言ってて・・・・」
正之助が何を企んでいるのか、進也にはピンと来た。
「あいつは無視したらしいけど・・・でも、兄ちゃんはあの先生と宇佐木とどっちも決着をつけるつもりなんだ。弟の俺が言うのも変だけど・・・兄ちゃんはドジで間抜けで運が悪くて・・・」
「その上、馬鹿正直で、丸め込まれやすい」
進也が正平の言葉の後を続けた。正平は眉を顰めながらも、反論はしなかった。二人の言葉を聞いて、武信が顔を顰めた。
「もし、英介をどうにかしようとしてるなら・・・正之助くんが危ない。あいつは、そう容易い相手じゃない。きっと、逆に罠にはめられる」
武信の言葉に、正平と進也がハッとなって顔を上げた。二匹とも、顔面蒼白だ。
「なんで・・・・」
「どういう事だよ、狐のおっさん!」
正平の暴言を聞き流し、武信はこれまで英介に掛かっていた疑いの答えをくれた。
「英介は、正之助くんが狸だって知ってる」
そう聞くや否や、進也は周囲の人の目も気にせず、ドロンと鷹に変化すると、上空に舞い上がった。これまで何度か進也が化ける瞬間を見た武信だったが、目前でこうも見事に変化するのは初めてで、目を見張る。正平は慌てて近くにあった大道具を薙ぎ倒し、周囲の注意をそらさせる。
「あの狐っ・・・!こんな大勢の前で変化する奴があるか!?」
「私たちも急ごう」
武信が走り出したのを見て、正平は怪訝な顔をする。
「変化しねぇの?」
「出来ない。私は人間だから」
正平はギョッとして体を強張らせるが、意に介せず、武信は言った。
「急ごう。正之助くんが心配だ」
「・・・・・・・うん」
直感的に、正平はこの人間は信用にたると判断する。合意すれば、武信は正平に厳しく注意した。
「うんじゃなくて、はいだ!」
「あんた、面倒臭い!!!!」




+




 用具室にそろりと入ると、奥に続く扉が半分開いていた。半開きの扉の隙間から、奥のベッドで一人の男が寝そべっているのが見えた。過去、いつも自分が寝ていたように、この男もサボタージュしてるのだろう。この部屋は物置で、狭いが、古臭いものに囲まれていて居心地がいい。行き場所のない自分にふさわしい場所だった。
 正之助はドロンと変化して、そっと扉を開ける。人の気配に気づくと、男はのそりと体を起こした。正之助を見ると、ニヤリと笑った。
「どうしたんスか、先生?」
そう言ったのは、大吾だった。そう言われたのは正之助で、正之助は英介に変化していた。大吾を呼び出して、来たら英介に。来なかったら、大吾に変化して英介に会いに行こうと思っていた。進也の最初の作戦だと、うまくいったとしても、おそらく武信を傷つける事になる。
 自分が英介に変化して大吾にちょっかいを出せば、すぐにPTAの耳に入り、周囲に知れる事になるだろう。そうなれば、いくら身に覚えがないと喚いた所で噂は消えず、失脚は免れないだろう。武信もさすがに嫌気がさす筈だ。そして、大吾もこの事件が噂になれば学校にいられないだろう。
 この二人をぶつければ、進也にも正平にも平和が訪れる。そう、正之助は確信していた。
「・・・こんな所でサボりか。あの地下室はもう使わないのか?」
「汚い犬がいるからね」
英介に扮した正之助は眉を寄せた。動物愛護心の欠片も無い男だ、こいつは。
「先生こそ、今日は出張って聞いたけど。出張って言って、ただ体育祭の準備が面倒臭いだけだったんスね」
「まぁね」
英介の口調を真似して、正之助は言う。大吾は楽しそうに笑った。
「お互いサボり同士なら、イイ事して遊びませんか?」
「・・・・お前、何を言い出すんだ?」
「とぼけなくてもいいスよ。先生が男子生徒にちょっかいかけてるのは知ってる。俺もその対象になんないスか?」
まさか大吾の方から誘ってくるとは思わなかった。人間は誰しも男色の素質があるのだろうか。
 細かい事はどうでもいい。せっかく大吾からその気になってくれたのだから、うまく現場を校長先生に押さえてもらえたら、後はいくらでも処分してもらえるだろう。
 古いベッドに寝そべっている大吾に英介(正之助)は近づいた。その手をとられ、口付けられる。ぞわり。背筋が寒くなった。何度も進也と戯れてきて、性的な接触には慣れたつもりだったのに、嫌悪感が募る。
「どっちが上?」
上とか下とか、英介(正之助)は分からない。しまったなと思いつつ、適当に答える。
「お前が選べ」
「じゃあ、上っと」
ぐいっと引っ張られ、ベッドの上に押さえつけられる。今は自分の方が体格がいい筈なのに、あっさりと押さえ込まれて、英介(正之助)は慌てる。ただ体を擦りつけている間に校長を呼び出せばいいと思っていただけに、身動きが出来ない状態にされて戸惑う。上で、大吾が不敵に笑んだ。
「・・・携帯電話は没収させてもらいますよ。校長先生、呼び出されちゃたまんない」
「なに・・・・・?」
大吾は英介(正之助)の服に手をかける。すると、服はするりと一枚の紙になって飛んでいった。どういう芸当だと、英介(正之助)は顔を顰める。
「しっかし・・・まさか俺に変化してくるとは思わなかったなぁ。これでそのまま校長室でも行って辞表出しゃいいものを・・・いや、それじゃあ後で俺が現れて撤回すりゃいい話だもんな。とにかく、俺に男絡みで不名誉な過失を作りたかったわけだ、進也は。つくづく嫌われてんのな」
何の話をしているのか、正之助は段々分かってきた。
「・・・・お前、宇佐木じゃないのか」
「その通り」
歯茎を見せて笑った大吾は、次の瞬間にはドロンと英介になった。英介(正之助)は小さく息を呑んだが、大した驚きは見せなかった。
「やっぱり・・・・あんたも同じ化け動物だったんだ」
「薄々感じてた?」
「あんたからは俺らと同じ胡散臭い匂いがぷんぷんしてたからね・・・もしかしてって思ったんだよ」
そう言って、英介(正之助)は後ろを見上げた。同じ方向に、英介も視線をやる。小さなビデオカメラが見えた。いつ仕込んだのか、それは分からないが、変化の瞬間をばっちり撮られたのだと分かった。
「あれはWEBカメラだ。あんたの変化の様子は進也のパソコンに送信されて保存されてる!言い逃れは出来ないぜ、これを公開されたらあんたはもう人間の社会で生きていけない!」
これは脅しだ。本当に公開する気はない。自分の為じゃなく、正平や進也の為に、他の狸や狐の為だ。だが、英介は楽しそうに言い捨てた。
「いいぜ、公開しよう。動画サイトに投稿して、こんな化け物がいるって世界中に教えてやろうじゃねぇか」
思わぬ返しに、英介(正之助)は驚愕する。とんでもない発案だ。驚いている英介(正之助)に、英介はケラケラおかしそうに笑った。
「何、ビビッてんだ?俺は何にも怖くねぇぜ。この姿がダメになりゃ、また別の誰かに変化するだけだ。俺は今までそうやって生きてきた」
この男は自分達よりも長く古く人間に化けていたのだと、今の発言で知る。
「武信と俺を引き離そうったって無駄だとあの狐に教えてやれ。あいつは俺がどんな姿になろうと、一発で見抜ける男だ。今まで色んな人間に変化して・・・あいつを犯してきた」
英介(正之助)の顔が歪んだ。この男は人間以上に屈折している、そう思った。
 英介が露になっている英介(正之助)の肌に触れる。こんな男には触れられるだけで寒気が走る。
「そうだ!公開されるのが嫌なら、今度は俺の命令を聞いてもらおうかな。今までは進也の言うなりだったんだろう?頭の悪い狸だが、お前は親戚みたいなもんだ・・・進也より楽しませてやるよ」
英介(正之助)は恐怖で動けなくなった。進也に脅された時は、気分は悪かったがこれほど恐怖に思わなかった。
 それはきっとあの場面で進也が自分を助けてくれたからだ。そこから知り合った進也という狐が思ったより好ましい狐で、だから怖いと思った事は無かった。でも、この男は怖い。
 僅かに震える英介(正之助)の肌をぺろりと舐め、英介はうっすら笑んだ。
「自分を抱くってのはなかなか無い経験だな。面白ぇ」
「や・・・やだ!!」
正之助は慌てて鼠に変化していつぞやのように逃げようとしたが、その小さな鼠の体を細長い蛇がぐるりと巻きついて引き締めた。苦しさに、正之助は人間の姿に変化する。振り返れば、9つの首を持つ大蛇がとぐろを巻いてこちらを眺めていた。幻覚だ、そう正之助は思った。だが、自分の体に巻きついてきた蛇の首は確かな感触があって、幻とは思えない。
「や・・・めろっ・・・!!!!」
蛇の頭が正之助の足や肌に絡みつき、ちろちろと舐めてくる。股間に入り込んできて、正之助は狸に戻ろうとした。だが、戻れない。人間の姿のまま、他の何にも変化出来ない。正之助はパニックに陥った。
 うろたえる正之助をいつの間にか英介が組み敷いていた。体の一部が蛇なのか、その蛇の頭が正之助の足に絡みついて自由を奪っている。幻覚だ、と必死で言い聞かすのだが、混乱している正之助はやはり狸に戻れずにいた。
英介がそっと正之助の顔に触れると、自分の体が変化した感覚があった。なじみのある感覚に、自分が進也に変化したのだと分かった。無意識か、それとも英介の力か。
「・・もともと、こうしようと思ってたんだろ。お前ら」
「・・・・せんせい・・・」
「俺が進也を犯したと知ったら、武信はどうするかな。さすがに傷つくだろうな。楽しみだな」
ぺろりと舌を舐めた英介に、正之助は唇を噛み締めた。
「先生は・・・稲荷さんに嫌われるのが、そんなに怖いの?」
窮地に立たされ、それでも浮かんだ疑問を口にせずにはいられなかった。人間の心理をよく知っているだろうこの男が、どうしてここまで嫌われる人間を演じるのか。彼の人間嫌いはひしひしと伝わってくる。その反面、武信に執拗に拘っている辺り、怯えているようにしか思えなかった。進也と逆だ。
「誰がそんな事言った?あいつが俺から離れないだけだ。マゾなんだよ」
「マゾ?・・・知らない単語で誤魔化そうとしても無駄だよ。・・あんたは進也と一緒で信じきれないだけだ。勇気がないんだよ。弱いんだよ」
「馬鹿馬鹿しい!」
段々、正之助は腹が立ってきた。純も、茂樹も、武信も、進也も、この英介も同じだ。どいつもこいつも勇気の足りない連中ばかりだ。なんでそう真っ直ぐに歩けないんだと、憤る。
 そう単純に出来てないと言い返されそうな考え方だが、事態がこんがらがった時はシンプルな答えに勝るものはない。
「馬鹿なのはあんたでしょう!だから人間は面倒臭いって言うんだよ!!!!」
「俺は人間じゃない!」
「俺からすれば、十分人間臭いよ!!!!!こんな回りくどい方法ばかり選んで悪循環ばかり・・・・あんたは人間と同じ穴のナンチャラさっっ!!」
肝心な単語が出てこなくて、正之助は頭を押さえた。すると、すぐ傍から声がした。
「同じ穴の狢な」
「!!!!!」
そう声がしたら、己の拘束が外れた。辺りをのたうっていた大蛇は姿を消し、辺りは変哲のないいつもの用具室に戻っていた。
 きょとんとしている正之助を後ろから誰かが抱き寄せた。
「進也!?」
いつの間に来ていたのか、全く進也も英介も気づいていなかった。二人のやり取りを、何処から見ていたのか。
「お前、稲荷さんは?」
「大丈夫。ちゃんと話し合った。お父さんにも謝って、礼も言った。にしても・・・お前に化かされるとは思わなかったけど」
「ごめん」
親愛の篭った言葉で、お父さんとは武信の事だろうと、正之助にもそれは分かった。
「それはいいよ。それより・・・」
進也が顔を上げる。つられて、正之助も前を見た。
さっきまで英介のいた場所には、一匹の狢がいた。英介だ。
「・・・狸?」
「違う、狢だ」
狢が答えた。
狸に似ているが種類が違うアナグマだ。
「へぇ。初めて見た」
「だろうな。もう日本じゃ狢は俺ぐらいしか残ってないだろう・・・」
ここにいるのも今日限りだろうと英介は思った。
「稲荷さんは知ってるの?」
「あいつは狐だと思ってんじゃねぇのか。けっこう、馬鹿だし」
「なんだと・・・」
進也が言い返そうとしたのを、正之助が止めた。英介からはもう気味の悪い殺気は感じられない。戦意はないのだと進也も分かる。
英介は小さく息を吐いて、くるりと背を向けた。すごすごと歩いていく後姿に正之助が声をかける。
「ねぇ。もしかして・・・・俺らの勝ち?」
「化けくらべじゃ負けたつもりはねぇけどな。でも・・・・俺の正体を言い当てたのはお前らだけだ。お前らの勝ちにしてもいいよ」
「勝った♪」
正之助は無邪気に茶釜に変化して、顔を出して扇子を振り回す。このお調子者の狸に呆れつつ、進也は歩いていく英介の背後を見やる。何処か寂しく見えるのは、彼が別れを決意しているからだ。この結末を期待していたのに、どうしてか、進也の胸が痛い。
正之助が無邪気に問う。
「何処行くの」
「正体がバレたら、同じ場所にはいられないのはお前らも一緒だろう」
「同じ化け動物同士なら、問題無いでしょ」
正之助は進也と互いに正体を知っているが、そのまま友達になれた。狢も狸と変わらない容姿をしているし、悪戯さえやめれば協力して人間社会で生活出来ると思ったのだが、英介はそうではないようだった。
「いや、俺は群れて生きるのは好きじゃねぇ。これまで、正体がバレたら二度と同じ人間に化けたりしなかった」
 今まで顔無しのように、色んな人間に化けてきて、生き延びてきた。誰に変化しても、決まって自分を見つけてくれたのは武信だった。のっぺらぼうの自分に名前をつけてくれたのも武信だ。この名前も容姿も気に入っていたが、ここらが潮時だ。
「武信はお前に返す」
フッと笑い、英介はそのままボワンと消えてしまった。
 去ってしまった後を、進也はぼんやり眺めていた。
「よかったね。うまくいったじゃん」
「・・・よくない」
「なんで?」
進也は悔しそうな顔で正之助に向き直り、唸るような声で言った。
「・・・・お父さんは・・・あいつが好きだからだ・・・・」
「あんな嫌な奴なのに?お前も性格歪んでるし・・・稲荷さんって趣味悪いよね。こういうのってなんて言ったっけ?蓼食う虫も好き好き?」
ガンッ!正之助は思いっきり進也に頭を殴られた。思わず痛みで尻尾と耳が飛び出た正之助が、声を上げる。
「いったい!せっかくちゃんと言えたのに!!!!」
「うるせぇ!阿呆狸!阿呆の癖に・・・勝手な事ばっかりしやがって・・・俺がどれだけ心配したと思ってんだよ!お前は阿呆なんだから俺の命令を大人しく聞いてりゃいいんだよ!!!」
「ヤダね!もうお前の命令は聞けない」
ふんと正之助は顔を逸らした。進也はずきりと胸が痛んで、眉の下がった顔を見せる。進也のそんな様子に気づかず、呑気に正之助は言った。
「でさ、ちゃんと出来たご褒美に・・・今度はお前が俺の命令を聞けよ」
「はぁ?」
何を言われるのか、進也は身構える。正之助の望み・・・。お菓子か、或いはお菓子か、はたまたお菓子か、お菓子しか思い浮かばない。
「なんだよ」
「それは明日に話す!明日は体育祭かぁ。去年はサボッたし、一昨年もサボッてたから、俺、参加するのは初めてだ♪楽しみ」
うぅんと伸びをしてそのまま正之助は進也に体を預けた。
「おい」
「あー・・今日は疲れたな」
そうぽそりと呟くと、ドロンと正之助は狸に戻って、寝息を立て始めた。このシチュエーションで寝入る奴がいるかとあっけに取られるが、毒気を抜かれた進也はそのまま正之助を抱き締め直す。その様子を正平が黙って見つめていたのだった。



 正平を追いかけていた武信は、ふと足を止めた。正平はそのまま走っていってしまう。
「英介」
周りには誰もいない。人の気配もしない。ただ風が鳴いて草木が音を立てるだけで、動物の匂いも無い。けれど、もう一度武信は名を呼んだ。
「そこにいるんだろ、英介」
返事はなかった。
「おおかた、天道虫とか蜂に変化してるんだろう。お前の事だから、風に紛れている可能性もあるな」
以前、風に紛れて後ろから襲われた事がある。苦笑交じりに、武信は続けた。
「・・・何に化けても、俺はお前を見つけられるよ」
「・・・・・・・」
「たとえ、郵便ポストに化けてたとしてもな」
「なら、お前の下着に化けて、四六時中一緒に居てやろうか?」
「変態め」
「その変態が好きなくせに」
意地の悪い声が飛んできた。こうやってよく英介は武信をからかう。正之助が悪趣味だと武信を言ったのは当たっている。自覚はあった。
「・・・そうだな」
答えた途端、後ろから強い力で抱き締められた。武信の肩に顔を埋め、畜生と英介は零す。
「お前は絶対イカれてる」
「あぁ」
「人間なんて嫌いだ」
「俺も」
武信の答えにプッと英介は噴き出した。彼もろくでもない人生を歩いてきてるのは、英介も知っている。この関係だって最初は傷を舐めあうようなものだった。いつ、こんな風に変わってしまったのか。
 それは知らなくてもいい。答えなんかなくて、人間と動物の線なんてなくて、この関係も曖昧なままが良かった。正之助なら不満だろうが、互いに納得しているのならそれでいいだろう。いい大人になって、愛だなんだと、今更必要のないものだった。



+



 目が覚めると、狐のふわふわの尻尾に頭を乗せて、正之助はベッドで寝転んでいた。そういえば、色々気が張って疲れてしまったのだと、思い出す。耳と尻尾が出てしまっている進也もまた、まどろんでいる様子だった。しばらくぼんやりしていた正之助だったが、ついさっきまで何があったか思い出すと、ハァと大きな息が漏れた。よくよく考えてみれば、この学校には人間に化けた動物が4匹もいる事になる。二匹は自分達狸の兄弟で、狐の生徒会長に、狢の英語教師なんて、まったくお笑い種だ。探せば他にも化け動物が混じっているかもしれないと、正之助はフフフと密かに笑う。そして、まだすやすや眠っている進也を見下ろし、穏やかに笑った。
 あの場面で、進也が来なければ自分は英介には勝てなかったろう。犯されていたのかと思うと、ぞっとする。そんな事態になったら、きっと武信だって傷ついていたに違いない。
 正之助には、英介の気持ちはさっぱり分からなかった。あれは同じ人間でもなかなか理解し辛い心理だろう。それ以上に、武信の気が知れない。狐と一緒に暮らして、色んな常識が吹き飛んでしまっているのかもしれない。などと、失礼な事を考える正之助だった。
 正之助が進也の尻尾を優しく撫でると、ぽつりと進也が言った。
「・・・よくも俺を化かしてくれたな」
「あれ?起きてたの?」
「半分な・・・」
だからまるまる狐になってなかったのかと、正之助は納得する。進也は尻尾をフリフリ振ってから、自分に触れている正之助の手にそっと触れるキスをした。どきりと正之助の胸が鳴った。どうして音が鳴るのか、正之助はよく分からない。
「・・・怒ってる?」
進也は笑った。笑って、首を振る。
「全部、お前のおかげだ」
「ふ、ふ~~ん・・・」
「ありがとう」
ポンッと音が鳴って、正之助の頭から思わず耳が飛び出す。尻尾もだ。目の周りが真っ黒で、でも顔は真っ赤だった。目の前で見ていた進也は噴き出した。
「なんだよ、それ。まんま狸じゃん」
「だって狸だもん!ビックリさせんなよ。進也が俺にありがとうなんて・・・気持ち悪い」
「失礼な奴だな、お前は」
むくりと進也は起き上がり、正之助の尻尾を引っ張って引っくり返す。そして、その上に乗り上げた。正之助の額に自分の額を乗せると、僅かに互いのひげが引っかかって、くすぐったい。
「・・・お前には感謝してるんだ」
「俺は何もしてないよ?」
正之助は本当に自分が何かしたとは思っていない。それが進也にはおかしかった。本当に鈍い狸だ。
「純も茂樹も、お前のおかげで自分の本心が言えたじゃん」
「そうなの?俺、何したっけ?純を探しに行ったぐらいだけど・・・それだって純はお前が来た方が良かったって、文句言われたぐらいだしなぁ・・・」
少しふてたように正之助は言う。純の気持ちは進也も分かっていた。純との付き合いは長く、彼女が自分に好意を持っているのは知っているし、嬉しいけれど、応える気はない。自分は狐で、この人間世界の中で一番大切なのは武信との生活だけだったから。自分も狭い世界で生きていたのだと、正之助に出会ってから気づいたのだ。
「稲荷さんがお前の事を知ってたのも、大事に思ってたのも、俺のおかげじゃないだろ?お前が稲荷さんを大事にしてて、それが稲荷さんも分かってたからじゃないか。俺は何もしてないよ」
「でも、口に出して言わないと、伝わらない事は沢山あるんだ。特に人間は複雑な生き物だからな」
そう言って、進也は正之助の頬を両手で掴む。きょとんとした間の抜けた顔が可愛くて、進也は微笑んだ。
「改めて言うからよく聞けよ?」
「う、うん。いや、はい」
「ありがとう」
正之助の尻尾がピンと立つ。進也はそのまま正之助の唇に自分の唇を押し当てた。優しげに触れた唇は段々と口を開かせ、舌を差込み、深いものへと変わっていく。ちゅっちゅっと小さなキスを唇に繰り返していると、正之助が進也の肩を押した。
「ちょ・・・ちょっと待って。なんか変だ」
「なにが?」
「・・・わかんない。顔も体も熱い」
「・・・・・・・・」
「心臓が痛い。お前に触れると、ギューッて痛くなる」
「お前・・・・・・・・・・」
進也はハァと大きく息を吐くと、正之助を強く抱き締めた。正之助は声を上げる。
「いっ・・痛いって言ってるじゃん!何すんの!?」
「ホント、お前は阿呆だ!そんな事言われて・・・こっちが恥ずかしいっっ!!」
「はぁ?」
意味を本気で正之助は理解していない。進也も説明するのさえ、恥ずかしかった。進也は正之助の手を取ると、自分の心臓に押し当てた。手のひらから、進也のどくどく早く打つ心音が伝わってくる。
「俺も同じ速さだろ?」
「病気?」
「病気なんだよ」
「えぇっ?!い、医者ぁあ!」
血相変えてベッドから飛び出していこうとする正之助の足を引っつかんで押し戻すと、進也は正之助をもう一度抱き締めた。胸の中に閉じ込めて、目元に唇を押し付ける。
「な、なぁ。早くお前も医者に・・・」
正之助は不安げな顔だ。進也はおかしくてたまらない。
「医者じゃあ治らない病気なんだよ」
「そんなのあるの?」
「でも、こうしてたら治る」
そう言って、進也はまた正之助に口付けた。進也のキスは、初めてされた頃に比べると、甘くなった気がする。自分が色んなお貸しを食べ過ぎた所為で、味覚が変になってしまったのかもしれないと正之助は思いながら、進也のキスに応えた。
 徐々に進也の手が正之助の制服の中に進入し、鎖骨の辺りにふわふわの毛が生えていて、進也は笑う。
「動揺しすぎだろ。ちゃんと後で化け直せよ」
「お前こそ。尻尾でかすぎるんだよ」
言われて、進也は尻尾で正之助の腹を撫でた。ふわふわの毛が腹の上を撫で、正之助はくすくす笑う。
「くすぐったい!ハハハッッ」
身をよじらせる正之助のわき腹や胸元を尻尾で撫でてから、胸の突起を掠めると、正之助の体がびくんと激しく揺れた。小さな突起に進也は唇で触れる。
「・・・・進也。するの?」
「まだ怖いか?」
正之助は首を横に振ってから、もう一度尋ねた。
「稲荷さんとか、他の誰かに化けた方がいい?それとも、もうちょっと大人に化ける?」
今度は進也が首を横に振った。正之助の黒い鼻にチュッと口付け、にまりと笑う。
「俺はお前がいいんだ、正之助」
「・・・・・・・俺のまんまでいいのか」
「お前でなきゃ嫌だな」
「進也・・・・」
それは英介に押し倒された時に、正之助も思った事だった。あれだけ英介相手だと怖かったのに、今、同じような状況だと言うのに、進也は怖くないどころか、この腕の中にいると安心出来る。同じ化け動物で、同じように人間に化けているのに、どうしてこんな変化があるのかと、正之助は不思議に思う。分からない事だらけで不安だ。少なくとも、進也といればそれは解消出来る。だから、この腕の中は安心出来るのかも知れない。
正之助が進也に手を伸ばし、その手を取って、進也は正之助に重なっていく。互いの股間は既に熱くなっていて、もどかしげにズボンを脱がせ合うと、せわしなく二人は腰を動かせた。互いの尻尾が絡んで、それがますます官能を煽る。段々と体が進也に順応していくのを自覚しながら、正之助は溶けていくように熱さに浸っていく。
「ん・・・・イ・・イク」
「もうちょっと我慢しろ・・・はぁっ・・」
慣れているようで、実際は進也も正之助が初めての相手だ。英介と武信の性交をこっそり眺めていて、どうして二人はあれだけ険悪なのにいつまでも離れないのかと、進也は不思議でしょうがなかった。武信が苦しんでいるとばかり思っていたが、こうやって正之助を相手にしていると分かる。悔しいけれど、英介の気持ちも分かる。
 これだけ自分の事を分かってくれて、素直に自分の気持ちを言える、本音を出せる相手は人間同士の中でも滅多に見つからない。その滅多にいない貴重な存在を愛でる、その最大の行為がこれなのだと、そう思った。
ぐっしょりと濡れてくる股座から奥へと指を移動させ、ほぐしていく。ふにゃふにゃと力の抜けている正之助の体は、もとが狸だったせいか普通の人間より柔らかくなりやすく、さほど時間をかけずとも、進也の性器を受け入れた。奥へと入っていく熱い塊に、思わず正之助は射精してしまう。それにかまわず、進也は腰を進めた。
「あっ・・ああっ・・・。で、・・お・・俺の・・もう・・・出てるよ・・・」
「もう一回出せるだろっ・・・んっ・・」
グッと奥を突かれて、正之助はぶるりと震えた。進也の言う通り、また性器が活力を取り戻してくる。進也があまりに激しく動くので、正之助の尻尾が知らず、進也の腰に回っていた。進也はくすぐったくて、笑ってしまう。
「ムードのねぇ奴だな」
「だって・・・はっ・・・激しいんだもん・・・・・」
英介の真似をしていたから、ついつい仕草が乱暴になってしまっていたと進也は気づき、正之助を抱き起こすと、自分の腿の上に座らせた。正之助は進也の首に手を回し、首をもたげている。はぁはぁと息は荒い。
「痛い?」
「・・・しんどい」
「やめるか?」
正之助は首を横に振って、進也に抱きついた。
「・・・気持ちいいから・・・もうちょっとだけ・・」
「じゃあ、ゆっくりな」
フッと笑って、進也は正之助の体を緩慢な動作で揺らし始める。その振動だけで、正之助はたまらなく快感で、目じりに涙が浮かび、切ない声が上がる。前は酒に酔っていたからよく分からなかったが、酒を飲まないセックスは、ますます理解できないものだった。自分が何処にいるのか分からなくて、痛いのに気持ちよくて、早く終わりが来て欲しいのにもっと中にいて欲しい。相反する気持ちが綯い交ぜになって、押しては返すを繰り返し、まるで海を見ている気分だった。山里から離れて、こんなにも遠くに来るとは正之助も思わなかった。
「はっ・・・あっ・・ぁっ・・・」
「しょ・・ぅの・・すけっ・・」
「んっ」
進也が正之助の唇に噛み付く。体を稲妻のような痺れが走り、正之助は怖くて進也に抱きついた。更に突き上げは激しくなって、目の前がチカチカと星が光ったと思ったら、正之助は意識を失ったのだった。


 二人が市民ドームに戻ると、体育祭の準備は終わっていた。見つかった二人は揃って先生にこっぴどく叱られる。進也が「お前のせいだ!」と正之助を怒鳴り、正之助も負けじと言い返していると、英介にクスクス笑われた。彼の横には武信が立っている。ちらりと正之助が進也を窺うと、進也はふてたような表情で英介を見ていたが、どうしてだろう、正之助には進也が笑うのを堪えているように見えた。
 するりと正之助は進也から手を離し、歩いていく。進也も一度正之助を振り返ったきり、武信の下へ歩いていく。正之助は二年の中に正平が混じっているのを見つけて、ホッと息を吐く。正平も兄に気づくと、手を上げて陽気に笑った。準備を終わらせた面々が、それぞれペットボトルや缶ジュース片手に、互いを労っている。
 明日の事を思うと、正之助も楽しみだった。体育祭とはどんなものなのか、わくわくする。わくわくすると同時に、少し寂しくもあった。明日で全部終わってしまうんだ、と。
 ドームの入り口に背を預け、暮れ始める空を見上げる。狸であった頃は一日がとても長くて平凡で、太陽を身近に感じていた。周りの景色が山から町へ変わり、自分の周囲もせわしなく変わっていったけれども、空に太陽が昇るのだけは変わらずに、それだけを見ていれば、一日が無事に過ぎていく。人間の生き方は違う。今は太陽を遠くに感じてしまっているけれど、またもうすぐ、近くにいくのだと、正之助は思ったのだった。


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