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御側室、所以
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膝を取り上げられた光留は、自分の腕を枕にすると、乾いた笑い声を上げた。
「それじゃ、僕が思わせ振りな態度を取っているようじゃないですか。そんなこと1度もありません。膝だって、誰にでも貸せと言いますよ」
「……」
「候補となったのは、アレでしょ。僕が欧州へ行く前の」
「ご存知なら、デマだと笑い飛ばすなりして、晃子様に話して聞かせれば良いではないですか。知られたことが、マズイみたいに言われても困ります」
「それをやったら、必ず聞かれます。奈緒さんは、光留様をどう思われているのでしょう?と」
「どうも思っておりません!そもそも、あれは津多子様から言い付けられたのです。ご存知でしょう?」
「ええ、知っていますよ? 人を種馬みたいに」
忌々しいとばかりに舌打ちする。
当時、宮家との縁談を回避する案に絶望したが、晃子を諦めることが出来ず呑んだ条件は、子爵家にとっても苦々しいものだった。
欧州視察同行は、端から見れば立派なことであるが、田中家には子がない。
海を越えた場所で、不慮の事故なども考えられるのだから、心配で堪らないのは当然だった。さらに独身の光留に、跡継ぎがいないと云うのも拍車をかける。ならば側室を――と考えが、及ぶのは仕方がない。
若く、気が利く奈緒は、子爵夫妻の眼鏡に適ったというわけだ。
しかし、当の本人は 何をやっているのか、何処其処、駆けずり回り、夫妻が言い含めようが知らぬ顔をする始末。
結局、そのまま旅立ってしまったという経緯があったのだが、ここで終わらなかった。夫妻は、欧州へ行けば見聞を広め、初恋の熱など冷めるだろうと考えた。これは、真っ当な考えで誰が、晃子と婚約に至ると想像しただろう。奈緒は、津多子付きの女中として留め置かれた。
「津多子夫人の振る舞いを見て、いろいろ覚えさせられていたのでしょう?僕の帰国後を考えて」
「存じません」
「まあ、いいですよ。水に流しましょう、貴女も、僕も。いい迷惑を被ったと。ただ、大事なのはこの先です」
光留は、跳ねるように飛び起きると、肩から滑り落ちた綿入れを、奈緒に投げつけた。
「風邪引きますよ」
「そこまで、ご存知なのに随分と酷い扱いです」
奈緒は、投げつけられた綿入れに袖を通す。腹が立ったのだろう、腕を突っ込む様子は乱暴で、顔つきは不機嫌極まりない。
「酷い……?ああ、僕は元々酷い男ですよ。晃子さん以外にはね。それに、側室と噂される女に、優しくして誤解をされたらどうするのです」
「存じません」
「帰国後、奈緒が夫人付きであることに、状況を察しました。初めは親を安堵させる為、強い拒絶をするつもりもなかった……けど、知ってしまったのです。晃子さんが妾を嫌悪していると。それを知った時は、心底震えました。ええ、自分の判断がこれ程、正しかったと思えるのは、生涯ないかもしれないと思うほどに」
ここまで話すと、はぁ――と大きく息をついた。うなだれているように見えるが、神妙な心持ちなどではないだろうと奈緒は、続きを待つ。
スラスラと、心情を吐露する光留の言い分は、妾を嫌うことを知らずに、親孝行という恩に流され、奈緒を側に置いていたら今は、なかったと。
「あと、ひとつ……僕の仕打ちを酷いと言うけど、ハッキリとさせといた方がいいんですよ」
「穏便に出来ないのですか。晃子様の前で、私を、必要以上に見下しておられるよう」
「それが、奈緒の為なのですよ」
「私の?まさか、ご自分の為でしょう?晃子様の手前」
「馬鹿をおっしゃい。晃子さんが誤解をされたら、心を砕いて納得いくまで話せば済むことです。ただ、納得するまでの間、気落ちされるでしょう。僕は、晃子さんに悲しい思いなどさせたくないのです。ほんの一瞬でも」
「ご馳走さまでした。それでは、私は勤めがありますので」
「話は、まだです」
光留は、畳をパシン!と叩いた。上げかけた腰をおろせと。
渋々、座り直す奈緒を尻目に光留は、チラリと柱時計に目をやった。他の者達が、朝食の準備に起き出す頃合いだ。
「2人で話す機会などないから、これが最後になるかもしれない。よくお聞きなさい、晃子さんに子が出来なければ、当家は養子を貰い受けるでしょう。しかし、奈緒、夫人は未だに側室の件も、選択肢に入れているのではないかと、僕は考えています」
「存じません」
「存じなくてもいい。ただ、覚えておきなさい。側室は使用人です。正室の配下です。子を産んでも夫人の手元へ渡り、名を呼ぶことも躊躇し、抱き上げることも出来ません。わが子を、坊っちゃまなどと、呼ぶことが幸せですか?」
「光留様……」
「酔った若様の戯言と思っても、構いません。ただ、覚えておきなさい。僕が、その気にならなければ、子爵も夫人もお前に無理強いは出来ないということです。何が気に入らないのか、事あるごとに当たり散らされるような女中ならば、お手がつくこともないと諦めるでしょう」
その時、柱時計が、音を鳴らした。ボ――ン、ボ――ン……と、響く数は5つ。
光留は、立ち上がった。
「晃子さんには、今度お会いした時にでも話しておこうと思います。もし、何か聞かれたら僕のことなど、何とも思っていないと言いなさい」
「勿論です。本当に何とも思っておりません」
「それで結構。幸せになりなさい」
「光留様、申し訳ありません……」
奈緒は、両手を突き 深々と頭を垂れた。黒髪に挿された玉簪を見下ろし、光留は笑う。今まで理不尽だと、腹を立てていたことを謝罪しているのだろう。
「水に流そうと言ったでしょう」
「はい。流しましょう。約束です」
「それでは、しばらく居間で寝ます」
「いえ、1度お部屋へお戻りください」
「だから、起きれなくなるって……」
「晃子様が、昨晩戻られております」
「……何ですって?」
「それじゃ、僕が思わせ振りな態度を取っているようじゃないですか。そんなこと1度もありません。膝だって、誰にでも貸せと言いますよ」
「……」
「候補となったのは、アレでしょ。僕が欧州へ行く前の」
「ご存知なら、デマだと笑い飛ばすなりして、晃子様に話して聞かせれば良いではないですか。知られたことが、マズイみたいに言われても困ります」
「それをやったら、必ず聞かれます。奈緒さんは、光留様をどう思われているのでしょう?と」
「どうも思っておりません!そもそも、あれは津多子様から言い付けられたのです。ご存知でしょう?」
「ええ、知っていますよ? 人を種馬みたいに」
忌々しいとばかりに舌打ちする。
当時、宮家との縁談を回避する案に絶望したが、晃子を諦めることが出来ず呑んだ条件は、子爵家にとっても苦々しいものだった。
欧州視察同行は、端から見れば立派なことであるが、田中家には子がない。
海を越えた場所で、不慮の事故なども考えられるのだから、心配で堪らないのは当然だった。さらに独身の光留に、跡継ぎがいないと云うのも拍車をかける。ならば側室を――と考えが、及ぶのは仕方がない。
若く、気が利く奈緒は、子爵夫妻の眼鏡に適ったというわけだ。
しかし、当の本人は 何をやっているのか、何処其処、駆けずり回り、夫妻が言い含めようが知らぬ顔をする始末。
結局、そのまま旅立ってしまったという経緯があったのだが、ここで終わらなかった。夫妻は、欧州へ行けば見聞を広め、初恋の熱など冷めるだろうと考えた。これは、真っ当な考えで誰が、晃子と婚約に至ると想像しただろう。奈緒は、津多子付きの女中として留め置かれた。
「津多子夫人の振る舞いを見て、いろいろ覚えさせられていたのでしょう?僕の帰国後を考えて」
「存じません」
「まあ、いいですよ。水に流しましょう、貴女も、僕も。いい迷惑を被ったと。ただ、大事なのはこの先です」
光留は、跳ねるように飛び起きると、肩から滑り落ちた綿入れを、奈緒に投げつけた。
「風邪引きますよ」
「そこまで、ご存知なのに随分と酷い扱いです」
奈緒は、投げつけられた綿入れに袖を通す。腹が立ったのだろう、腕を突っ込む様子は乱暴で、顔つきは不機嫌極まりない。
「酷い……?ああ、僕は元々酷い男ですよ。晃子さん以外にはね。それに、側室と噂される女に、優しくして誤解をされたらどうするのです」
「存じません」
「帰国後、奈緒が夫人付きであることに、状況を察しました。初めは親を安堵させる為、強い拒絶をするつもりもなかった……けど、知ってしまったのです。晃子さんが妾を嫌悪していると。それを知った時は、心底震えました。ええ、自分の判断がこれ程、正しかったと思えるのは、生涯ないかもしれないと思うほどに」
ここまで話すと、はぁ――と大きく息をついた。うなだれているように見えるが、神妙な心持ちなどではないだろうと奈緒は、続きを待つ。
スラスラと、心情を吐露する光留の言い分は、妾を嫌うことを知らずに、親孝行という恩に流され、奈緒を側に置いていたら今は、なかったと。
「あと、ひとつ……僕の仕打ちを酷いと言うけど、ハッキリとさせといた方がいいんですよ」
「穏便に出来ないのですか。晃子様の前で、私を、必要以上に見下しておられるよう」
「それが、奈緒の為なのですよ」
「私の?まさか、ご自分の為でしょう?晃子様の手前」
「馬鹿をおっしゃい。晃子さんが誤解をされたら、心を砕いて納得いくまで話せば済むことです。ただ、納得するまでの間、気落ちされるでしょう。僕は、晃子さんに悲しい思いなどさせたくないのです。ほんの一瞬でも」
「ご馳走さまでした。それでは、私は勤めがありますので」
「話は、まだです」
光留は、畳をパシン!と叩いた。上げかけた腰をおろせと。
渋々、座り直す奈緒を尻目に光留は、チラリと柱時計に目をやった。他の者達が、朝食の準備に起き出す頃合いだ。
「2人で話す機会などないから、これが最後になるかもしれない。よくお聞きなさい、晃子さんに子が出来なければ、当家は養子を貰い受けるでしょう。しかし、奈緒、夫人は未だに側室の件も、選択肢に入れているのではないかと、僕は考えています」
「存じません」
「存じなくてもいい。ただ、覚えておきなさい。側室は使用人です。正室の配下です。子を産んでも夫人の手元へ渡り、名を呼ぶことも躊躇し、抱き上げることも出来ません。わが子を、坊っちゃまなどと、呼ぶことが幸せですか?」
「光留様……」
「酔った若様の戯言と思っても、構いません。ただ、覚えておきなさい。僕が、その気にならなければ、子爵も夫人もお前に無理強いは出来ないということです。何が気に入らないのか、事あるごとに当たり散らされるような女中ならば、お手がつくこともないと諦めるでしょう」
その時、柱時計が、音を鳴らした。ボ――ン、ボ――ン……と、響く数は5つ。
光留は、立ち上がった。
「晃子さんには、今度お会いした時にでも話しておこうと思います。もし、何か聞かれたら僕のことなど、何とも思っていないと言いなさい」
「勿論です。本当に何とも思っておりません」
「それで結構。幸せになりなさい」
「光留様、申し訳ありません……」
奈緒は、両手を突き 深々と頭を垂れた。黒髪に挿された玉簪を見下ろし、光留は笑う。今まで理不尽だと、腹を立てていたことを謝罪しているのだろう。
「水に流そうと言ったでしょう」
「はい。流しましょう。約束です」
「それでは、しばらく居間で寝ます」
「いえ、1度お部屋へお戻りください」
「だから、起きれなくなるって……」
「晃子様が、昨晩戻られております」
「……何ですって?」
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