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飾り櫛
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普段から家に籠りがちの咲は、着飾った芸者や遊郭の女を見たことがない。
当然ながら、華族の令嬢も。
瀬戸物小町と呼ばれる御棚のお嬢さんが、1番の器量よしだと認識していたが
「咲様に、旦那様がいらっしゃらなかったら、きっと小町と呼ばれるのは貴女様です」
里が、言い募り 羽倉崎までもが
「確かに花柳辺りでも、咲さん程の人は 滅多にいませんよ」
などと言うものだから、お世辞としても嬉しかったことを覚えている。
恐ろしい小夜嵐から、想像していたものとは違う、何不自由ない生活に 初めて不安を覚えたのは、尾井坂晃子と羽倉崎の婚約成立であり、とても美しい人だと話した羽倉崎に、瀬戸物小町よりも、器量よしなのか?と、聞いてみたかったが 溢れた声は「そうですか」と、返すことが精一杯だった。
泰臣の姉、育ての親といっても良い泰臣の母を病ませた家の娘――
自分の存在が露見した時に、いや、その前に捨てられるのではないか?
泰臣とは 絶縁状態の中、どうやって生きていくのかと、考えれば考えるほど気鬱となったのは、丁度 1年程前だ。
そんな中の懐妊に、ホッと胸を撫で下ろした、浅ましい考えを思い出し、大きく膨らんだ腹を撫でる。
「いつぞやは、失礼いたしました」
「……お怪我は?」
「爪が かかっただけです。なんとも」
手の甲を優しく撫でた。
あの日は、注文していた斎肌帯が出来たついでに、好きな物を求めようと羽倉崎が、日本橋に連れ出してくれた。
婚約が決まっても、変化することのない優しさに、仕事を円滑に進める為の縁談で羽倉崎は、婚約者より自分を愛していると内心、勝ちを意識した日でもある。
それが、勘違いも甚だしいと思い知らされたのは、輝く黄蘗色の鼈甲櫛。
羽倉崎は、譲れと言った。
貴女の女主人と紹介されたのは、我慢できた。本来、側室や妾は 本妻の配下になるという。女主人というのは、嘘ではないと。
しかし、自分が手にした櫛を取り上げられ我慢を強いられたのは、未だに腑に落ちず、モヤモヤと事あるごとに気持ちを沈めるのだ。
詫びのつもりか、いくつもの代わりの品を身繕い、選べと差し出されても意地でも受けとりたくなかったのは、女としての矜持。
咲は、クスリ――と口許を綻ばすと
「あの鼈甲櫛は、御髪に飾られていないのですね?」と、尋ねた。
「鼈甲……ああ、あれは 貴女の物になったのではなくって?」
相変わらず晃子の視線は、逸らされているが、それよりも言葉の意味に、咲は反応した。
「あれは、貴女様にと羽倉崎が」
「ま、あんな物、受けとる訳がありません」
「あんな物とは?」
「あんな物とは、あんな物です」
笑みを浮かべ答える表情は、端からは機嫌良く談笑しているように見えるだろう。
「では、あれは 何処に……」
「さあ? お聞きになったら? 引き出しにしまってあるのか? それとも別の女に渡したのか。貴女の為に言っているのですよ、折角 男爵家の娘という肩書きを与えられたのです。大いに活用なさいな」
咲は、未だに視線を合わせない姉を見つめた。立場に泣き、諦めた物が 晃子にとってはあんな物とは。
「ふ、ふふふ……申し訳ありません。笑いが込み上げて……お姉様の申される通りですわね。私は、男爵令嬢として羽倉崎の妻になるのですもの。言いたいことはいう……そういたします。ただ、鼈甲櫛は 私も不要なのです。今は、気に入った物を持っておりますので」
「そう」
「何と仰ったかしら? 光沢のある黒が、上品で深みがあり、螺鈿細工が見事だと。私に、よく似合うと選んで下さいました」
「ま、羽倉崎さんったら 初めから鼈甲をお渡しになればいいのに」
「いいえ、これを選んで下さったのは光留様です」
伏せられた瞼が、ゆっくりと持ち上がった。長い睫毛に縁取られた瞳が、映しているのは咲というより、黒髪を飾る品だろう。
「あら、本当に良い品ですこと」
「……と、言っても光留様が私に下さった物ではありません。羽倉崎が見繕った幾つかの品から、選んで下さったのです」
咲は、そっと結綿に挿す、飾り櫛に触れると、染々とした声音を放つ。
「とても素敵な方ですね」と。
「そうね」
真っ直ぐに見つめてくる双眸は、毅然とした強い眼差しを咲に向ける。
初めて会った日本橋よりも、顔合わせで見せた美しい微笑みよりも、今が1番 綺麗だと感じるのは、鍍金が剝げたのか、微かな憤りのような感情の欠片を、綺麗な顔に覗かせたからだろう。
それが、妾と嫌悪する女が 夫君の名を軽々しく呼んだからか、意志に反して視線を合わせたからか? もしかしたら、光留が選んだという部分が、気に入らなかったのかもしれない。
気分を害してしまった可能性もあるが、咲はおあいこだと思う。これまでは、お互い気分を害していた筈だが、立場上、引くしかなかった。
でも、今は違う。
「あんなケチがついた物、欲しくはありません。今度は、違うものをねだってみます」
儚げに呟く声に、黒髪を撫でる指先。
その髪には螺鈿見事な呂色の飾り櫛が、幸先の良い 咲の人生を感じさせるように、キラキラと輝いていた。
当然ながら、華族の令嬢も。
瀬戸物小町と呼ばれる御棚のお嬢さんが、1番の器量よしだと認識していたが
「咲様に、旦那様がいらっしゃらなかったら、きっと小町と呼ばれるのは貴女様です」
里が、言い募り 羽倉崎までもが
「確かに花柳辺りでも、咲さん程の人は 滅多にいませんよ」
などと言うものだから、お世辞としても嬉しかったことを覚えている。
恐ろしい小夜嵐から、想像していたものとは違う、何不自由ない生活に 初めて不安を覚えたのは、尾井坂晃子と羽倉崎の婚約成立であり、とても美しい人だと話した羽倉崎に、瀬戸物小町よりも、器量よしなのか?と、聞いてみたかったが 溢れた声は「そうですか」と、返すことが精一杯だった。
泰臣の姉、育ての親といっても良い泰臣の母を病ませた家の娘――
自分の存在が露見した時に、いや、その前に捨てられるのではないか?
泰臣とは 絶縁状態の中、どうやって生きていくのかと、考えれば考えるほど気鬱となったのは、丁度 1年程前だ。
そんな中の懐妊に、ホッと胸を撫で下ろした、浅ましい考えを思い出し、大きく膨らんだ腹を撫でる。
「いつぞやは、失礼いたしました」
「……お怪我は?」
「爪が かかっただけです。なんとも」
手の甲を優しく撫でた。
あの日は、注文していた斎肌帯が出来たついでに、好きな物を求めようと羽倉崎が、日本橋に連れ出してくれた。
婚約が決まっても、変化することのない優しさに、仕事を円滑に進める為の縁談で羽倉崎は、婚約者より自分を愛していると内心、勝ちを意識した日でもある。
それが、勘違いも甚だしいと思い知らされたのは、輝く黄蘗色の鼈甲櫛。
羽倉崎は、譲れと言った。
貴女の女主人と紹介されたのは、我慢できた。本来、側室や妾は 本妻の配下になるという。女主人というのは、嘘ではないと。
しかし、自分が手にした櫛を取り上げられ我慢を強いられたのは、未だに腑に落ちず、モヤモヤと事あるごとに気持ちを沈めるのだ。
詫びのつもりか、いくつもの代わりの品を身繕い、選べと差し出されても意地でも受けとりたくなかったのは、女としての矜持。
咲は、クスリ――と口許を綻ばすと
「あの鼈甲櫛は、御髪に飾られていないのですね?」と、尋ねた。
「鼈甲……ああ、あれは 貴女の物になったのではなくって?」
相変わらず晃子の視線は、逸らされているが、それよりも言葉の意味に、咲は反応した。
「あれは、貴女様にと羽倉崎が」
「ま、あんな物、受けとる訳がありません」
「あんな物とは?」
「あんな物とは、あんな物です」
笑みを浮かべ答える表情は、端からは機嫌良く談笑しているように見えるだろう。
「では、あれは 何処に……」
「さあ? お聞きになったら? 引き出しにしまってあるのか? それとも別の女に渡したのか。貴女の為に言っているのですよ、折角 男爵家の娘という肩書きを与えられたのです。大いに活用なさいな」
咲は、未だに視線を合わせない姉を見つめた。立場に泣き、諦めた物が 晃子にとってはあんな物とは。
「ふ、ふふふ……申し訳ありません。笑いが込み上げて……お姉様の申される通りですわね。私は、男爵令嬢として羽倉崎の妻になるのですもの。言いたいことはいう……そういたします。ただ、鼈甲櫛は 私も不要なのです。今は、気に入った物を持っておりますので」
「そう」
「何と仰ったかしら? 光沢のある黒が、上品で深みがあり、螺鈿細工が見事だと。私に、よく似合うと選んで下さいました」
「ま、羽倉崎さんったら 初めから鼈甲をお渡しになればいいのに」
「いいえ、これを選んで下さったのは光留様です」
伏せられた瞼が、ゆっくりと持ち上がった。長い睫毛に縁取られた瞳が、映しているのは咲というより、黒髪を飾る品だろう。
「あら、本当に良い品ですこと」
「……と、言っても光留様が私に下さった物ではありません。羽倉崎が見繕った幾つかの品から、選んで下さったのです」
咲は、そっと結綿に挿す、飾り櫛に触れると、染々とした声音を放つ。
「とても素敵な方ですね」と。
「そうね」
真っ直ぐに見つめてくる双眸は、毅然とした強い眼差しを咲に向ける。
初めて会った日本橋よりも、顔合わせで見せた美しい微笑みよりも、今が1番 綺麗だと感じるのは、鍍金が剝げたのか、微かな憤りのような感情の欠片を、綺麗な顔に覗かせたからだろう。
それが、妾と嫌悪する女が 夫君の名を軽々しく呼んだからか、意志に反して視線を合わせたからか? もしかしたら、光留が選んだという部分が、気に入らなかったのかもしれない。
気分を害してしまった可能性もあるが、咲はおあいこだと思う。これまでは、お互い気分を害していた筈だが、立場上、引くしかなかった。
でも、今は違う。
「あんなケチがついた物、欲しくはありません。今度は、違うものをねだってみます」
儚げに呟く声に、黒髪を撫でる指先。
その髪には螺鈿見事な呂色の飾り櫛が、幸先の良い 咲の人生を感じさせるように、キラキラと輝いていた。
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