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御召
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勤めが休みだからと云って、いつまでも離れに引きこもっている訳にはいかない。
こもる温もりから顔を出すと、ひんやりとした空気に頬が刺激され、一気に目が覚めた。
「おはようございます」
すかさず声を掛けてきたのは、宵だ。
「……まだ、居たんですか」
「当然でございます」
面倒臭い――と、言わんばかりの大層な溜め息をつくのは、これから小言を聞く羽目になるという億劫さからだろう。
光留は、皆が揃う朝食を辞退した。
理由を、何としたのかは分からない。ただ一言「今日は 離れで」と告げただけで、布団の中へ 亀のように首を引っ込めた為、宵が当たり障りのない理由を述べたはずだ。
「帰宅が遅くなられても、居間で待たれる晃子様が、愛おしくて堪らないのでは?」
「その通りですが?」
「朝、晃子様がお見送りに出られるのも、可愛くて仕方がないと、思われてますよね?」
「言葉にされると、恥ずかしいから止めて」
「何故、お避けになられているのです?」
「……そう見えますか?」
「あきらかに、不味いと思いますが。お考えください。家を飛び出し、当家へ居座っていると思っている使用人もいるのですよ」
「そんな無礼者がいるのですか、連れて来なさい」
「ここは、不徳の致すところ――と、言うべきでは?晃子様は、肩身の狭い思いをされているのですよ?当家で頼れるのは、坊ちゃましかいないのに、避けるような行動を……」
「わかっております」
「いいえ、わかっておられません」
何時にも増して、追及する口振りに流石に苛立った光留は、すっぽり被った布団から飛び起きると、そのまま小言を漏らす乳母に投げつけた。
突然、眼前を目隠しされた格好にはなったが、背筋を伸ばして対面していたことで、瞬時に払いのけることに成功した宵は、さらに責め立てる。
「晃子様が、離れに滞在されないのも本当は、坊ちゃまに その気がないからと」
「馬鹿を仰い」
「最近では、以前のような噂も 燻り出しました。欧州へ行かれている間に、離れが増築されたのは帰国後、お迎えになられる若奥様と御側室をわける為であると」
「御側室って、誰です? そんなのいませんよ」
「奈緒が、そうなると使用人達は思っているのですよ。夫人の筆頭女中に抜擢されているのは、その為だと」
「冗談じゃない。宵さん、人の噂ってものは 隠れて囁いても、当人の耳に入ったりするものです。不敬なことを口走る者は、追い出しなさい。晃子さんの耳にでも入ったら大変でしょう」
光留は、縁側に出ると水が張られた盥で顔を洗う。外に置かれた水は、指先を痺れさせ、肌を刺す。
一体、いつから置いていた水なのか――。
あまりの冷たさに、嫌がらせかとも思えたが、これ以上の小言は、勘弁と黙り、右手を差し出した。が、いつもなら直ぐ様、手に乗せられる手拭いが、一向に差し出されない。
ポタポタと滴るもので、小袖を濡らさぬよう、盥に伏せ「宵さん!早く」と声をかけると、やっと差し出してくる。真冬に濡れた顔を晒すなど、いよいよ以て 嫌がらせだろう。さすがに、これ以上は堪らない――と、口を開いた。
「心配無用です。僕が、晃子さんを見ないで生きていける訳がないでしょう。たまたま寝起きが悪かっただけで、他意はありません」
「それでは、お昼はご一緒できるのでしょうか?」
「え!? 」
宵の声が、やけに若々しい。
慌てて、豆絞りの手拭いを払いのけた光留の目には、赤の縦縞の羽織をスッキリと着こなした晃子が微笑んでいた。
「その御召は?」
「いただきました」
おそらく、いや確実に津多子だろう。御召と呼ばれる格調高い、細縦縞は 子爵家において、津多子しか身に付けない。
「色合いが派手ですが、若い時の物ですかね?」
「ええ、裏に久我公爵の紋が入っております」
「ここは冷えます。中へどうぞ」
晃子を、初めて自室に招き入れた。
本音を言うと、結婚するまで渡り廊下を歩かせる気はなかったのだが、津多子が御召を下げ渡したのだ。
無言の意思表示にしては、強い効力を発揮するだろう。
「いつ、いただいたのです?」
「昨夜、居間でお話をしておりまして、その時に。羽織っている所を是非、見たいから朝 お願いね、と……どうでしょう?」
「はは! 貴女は、何でもお似合いになりますよ」
「また、そのような……」
少し頬を 膨らませたように見えた晃子を、覗き込むと「あれ、皆様にも? とは、仰らないのですね?」と、からかいの混ざる声で囁いてみせた。
「申しません……けど、言われているのでしょう?」
「言っていますが、本心ではありません」
晃子は、細縦縞の袖を口元に寄せた。
朝食には、使用人が揃う子爵家だ。三の間に控えていた者達は、驚いたに違いない。
若様の想い人とされる令嬢が、いつまで経っても客間に止められ、離れにも渡れない状況に首を捻ねり、実は 若様には、その気がないのでは?と囁き、噂する。そこへ、夫人しか身につけない御召を羽織って現れたのだから。
「それより、よく離れに参られましたね? 僕は、晃子さんを渡らせてはならないと言い含めていた筈ですが」
「津多子様が、よく似合うから見せていらっしゃいと」
ああ、よく手の回ること――。
御召と召しを掛けているのだろう。つまり、側に寄せるようにと。
光留は、晃子の指先を救い上げ、唇を寄せた。微かな石鹸の香りに、Opheliaが欲しいと言った日が過り、感情に押されるように唇は、白い甲を食む。
「貴女に大切な話があるのです。僕は、是非とも首を縦に振って欲しいと願っておりますが、貴女が甘受出来ないのならば、無理は申しません。咲さんを、尾井坂男爵家の娘として……貴女の妹として、宗秩寮に届け出たいのです」
こもる温もりから顔を出すと、ひんやりとした空気に頬が刺激され、一気に目が覚めた。
「おはようございます」
すかさず声を掛けてきたのは、宵だ。
「……まだ、居たんですか」
「当然でございます」
面倒臭い――と、言わんばかりの大層な溜め息をつくのは、これから小言を聞く羽目になるという億劫さからだろう。
光留は、皆が揃う朝食を辞退した。
理由を、何としたのかは分からない。ただ一言「今日は 離れで」と告げただけで、布団の中へ 亀のように首を引っ込めた為、宵が当たり障りのない理由を述べたはずだ。
「帰宅が遅くなられても、居間で待たれる晃子様が、愛おしくて堪らないのでは?」
「その通りですが?」
「朝、晃子様がお見送りに出られるのも、可愛くて仕方がないと、思われてますよね?」
「言葉にされると、恥ずかしいから止めて」
「何故、お避けになられているのです?」
「……そう見えますか?」
「あきらかに、不味いと思いますが。お考えください。家を飛び出し、当家へ居座っていると思っている使用人もいるのですよ」
「そんな無礼者がいるのですか、連れて来なさい」
「ここは、不徳の致すところ――と、言うべきでは?晃子様は、肩身の狭い思いをされているのですよ?当家で頼れるのは、坊ちゃましかいないのに、避けるような行動を……」
「わかっております」
「いいえ、わかっておられません」
何時にも増して、追及する口振りに流石に苛立った光留は、すっぽり被った布団から飛び起きると、そのまま小言を漏らす乳母に投げつけた。
突然、眼前を目隠しされた格好にはなったが、背筋を伸ばして対面していたことで、瞬時に払いのけることに成功した宵は、さらに責め立てる。
「晃子様が、離れに滞在されないのも本当は、坊ちゃまに その気がないからと」
「馬鹿を仰い」
「最近では、以前のような噂も 燻り出しました。欧州へ行かれている間に、離れが増築されたのは帰国後、お迎えになられる若奥様と御側室をわける為であると」
「御側室って、誰です? そんなのいませんよ」
「奈緒が、そうなると使用人達は思っているのですよ。夫人の筆頭女中に抜擢されているのは、その為だと」
「冗談じゃない。宵さん、人の噂ってものは 隠れて囁いても、当人の耳に入ったりするものです。不敬なことを口走る者は、追い出しなさい。晃子さんの耳にでも入ったら大変でしょう」
光留は、縁側に出ると水が張られた盥で顔を洗う。外に置かれた水は、指先を痺れさせ、肌を刺す。
一体、いつから置いていた水なのか――。
あまりの冷たさに、嫌がらせかとも思えたが、これ以上の小言は、勘弁と黙り、右手を差し出した。が、いつもなら直ぐ様、手に乗せられる手拭いが、一向に差し出されない。
ポタポタと滴るもので、小袖を濡らさぬよう、盥に伏せ「宵さん!早く」と声をかけると、やっと差し出してくる。真冬に濡れた顔を晒すなど、いよいよ以て 嫌がらせだろう。さすがに、これ以上は堪らない――と、口を開いた。
「心配無用です。僕が、晃子さんを見ないで生きていける訳がないでしょう。たまたま寝起きが悪かっただけで、他意はありません」
「それでは、お昼はご一緒できるのでしょうか?」
「え!? 」
宵の声が、やけに若々しい。
慌てて、豆絞りの手拭いを払いのけた光留の目には、赤の縦縞の羽織をスッキリと着こなした晃子が微笑んでいた。
「その御召は?」
「いただきました」
おそらく、いや確実に津多子だろう。御召と呼ばれる格調高い、細縦縞は 子爵家において、津多子しか身に付けない。
「色合いが派手ですが、若い時の物ですかね?」
「ええ、裏に久我公爵の紋が入っております」
「ここは冷えます。中へどうぞ」
晃子を、初めて自室に招き入れた。
本音を言うと、結婚するまで渡り廊下を歩かせる気はなかったのだが、津多子が御召を下げ渡したのだ。
無言の意思表示にしては、強い効力を発揮するだろう。
「いつ、いただいたのです?」
「昨夜、居間でお話をしておりまして、その時に。羽織っている所を是非、見たいから朝 お願いね、と……どうでしょう?」
「はは! 貴女は、何でもお似合いになりますよ」
「また、そのような……」
少し頬を 膨らませたように見えた晃子を、覗き込むと「あれ、皆様にも? とは、仰らないのですね?」と、からかいの混ざる声で囁いてみせた。
「申しません……けど、言われているのでしょう?」
「言っていますが、本心ではありません」
晃子は、細縦縞の袖を口元に寄せた。
朝食には、使用人が揃う子爵家だ。三の間に控えていた者達は、驚いたに違いない。
若様の想い人とされる令嬢が、いつまで経っても客間に止められ、離れにも渡れない状況に首を捻ねり、実は 若様には、その気がないのでは?と囁き、噂する。そこへ、夫人しか身につけない御召を羽織って現れたのだから。
「それより、よく離れに参られましたね? 僕は、晃子さんを渡らせてはならないと言い含めていた筈ですが」
「津多子様が、よく似合うから見せていらっしゃいと」
ああ、よく手の回ること――。
御召と召しを掛けているのだろう。つまり、側に寄せるようにと。
光留は、晃子の指先を救い上げ、唇を寄せた。微かな石鹸の香りに、Opheliaが欲しいと言った日が過り、感情に押されるように唇は、白い甲を食む。
「貴女に大切な話があるのです。僕は、是非とも首を縦に振って欲しいと願っておりますが、貴女が甘受出来ないのならば、無理は申しません。咲さんを、尾井坂男爵家の娘として……貴女の妹として、宗秩寮に届け出たいのです」
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