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従五位の出自
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子爵邸に、晃子の存在がある今日この頃。
きっちり17時に帰宅する光留が、遅くなると言ったのは、今朝方が初めて。
勿論、刻限である18時を過ぎることは数度あったが、それでも粗方の時間は告げており、今日の様に「見当がつかないので僕は、離れで頂きます」という、常套句を口にしたのは、久方ぶりだった。
ゆえに食後、津多子と2人になった晃子が、以前から気にしていたことを尋ねようと思い付いたのは、閃きにも似た思いつき。
「宵さんの姿をあまり、お見かけしませんが普段、何をなさっているのでしょう……」
子爵夫人に、使用人の様子を尋ねるなど 言語道断であるのだから言葉は、独り言として小さく放たれた。無視されれば、それまでであり、言葉を拾い上げられたら話が続くだけの話。ぼんやりと、暖炉周りのマントルピースに視線を這わせる。
宵は、離れに住む光留の乳母だ。
朝になると共に現れ、光留を見送り又、離れに戻る。すると、次に母屋に現れるのは、出迎える夕刻になる。その様子を
「まるで、離れに引きこもっているかのよう」と、志賀は 評した。
そんなことを思いながら待てど、津多子からの返答がない。仕方がない――と、唐木の彫刻を額とするマントルピースの鏡に話題をすり替える為、唇を開きかけた晃子の耳に「ええ……」と、漏らしたのは 白磁の湯呑みを寄せた薄紅の唇だった。
「あの子が帰宅しなければ、宵も食事をしないのですよ……あら、美味しい」
おっとりとした声が、話題をすり替えたように思えたのは、気のせいか。同じように茶を含む。
「宵とお話があるのなら、呼んだらどうかしら?すぐに参るでしょう。あの子が言い含めているはずですからね。あ、でも今日は無理だわ」
「何かあるのですか?」
津多子は、細い指で耳にかかる後れ毛を摘まんだ。少し明るい栗毛色は、久我家のものだろう。それを左右に揺らしてみせると「髪」と一言。
「そういえば、以前鉄漿を使われるので、大変と仰られていましたわ」
「ええ、染める必要などないと言っているのに、気になるようで……あら、帰って来たのかしら?」
津多子は、蝶が蜜を求めてさ迷うように、視線を泳がすと「晃子さん」と、呼んだ。あの子や、貴女と呼ぶ、津多子からの名指しは、何かを秘めているようで晃子は、妙に畏まり背筋を伸ばした。
「宵から聞いたのですが、貴女、光留さんの御髪を綺麗と言ったそうね?本当?」
「まあ、そのようなことを光留様は、お話になったのですね。お恥ずかしいですが、本当です」
「私も、初めてあの子を見た時、そう思いました。産まれた乳飲み子を貰い受ける約束をしておりまして、御産もこちらで手配したのですよ。髪を見て難色を示した、亡きご隠居様を言い含めるのに難儀しましたが、今思えば間違いではなかったと。東の空が白む中、あの子の御髪は、キラキラと光っていて……お日さまのようだと思ったのです」
「あ……まさか、それで光留と?」
津多子は、コロコロと鈴を転がした。楽しげな笑い声に「ええ」と頷くと
「丁度良いことに、当家の通り字は 光。ご隠居は、せめてみつると言い張りましたが、押し切りました」
その時、パタパタと駆ける足音と共に「失礼します」と、襖が開かれた。顔を覗かせたのは、津多子の女中 奈緒。
「光留様は、離れへ向かわれました」
「あら、あら、珍しいこと。晃子さんが、こちらへお出でと伝えたの?」
「はい、申し上げたのですが……」
ゴニョゴニョと歯切れが悪く、晃子の顔色を窺うように、チラチラと視線を向ける。きっと言い難かったのだろう。
「お疲れなのでしょう。構いません」
何処と無く安堵の表情を浮かべた奈緒は、そのまま下がった。
「まあ、お勤めの後ですもの。色々とあるでしょう」
と、言う津多子は、素通りされた晃子を気遣っているのかもしれない。
「貰い子ですが、官への届けは実子となっているのですよ。産まれながらの当家の従五位」
「立ち入ったことをお聞きしますが……」
「どうぞ」
「光留様のお父上は……」
津多子は、人差し指を唇にあて 密か事――と、示す。
「廃嫡されたご隠居の嫡男……つまり、子爵の兄上です」
暖炉の火種が爆ぜ、静かな声音と混ざりあった。廃嫡の兄と子爵の関係は分からない。甥を実子として届けた子爵夫妻の考えも。御一新直後のゴタゴタなど、どの家にもあっただろう。
しかし、それを知りつつ育った光留の本音は、どんなものなのか――。
磨り硝子に広がる夜の帳を、払い除け、無性に光留に逢いたくなった。
寒空は、やけに闇を深く感じさせると見上げる光留は、配膳を済ませた宵を振り返った。
「毛染めを急ぐ必要は、なかったんじゃないですか? 宵さんの髪、別に染める程ではないでしょう?」
「少々、明るいのが気になるのです」
「些細なことで1日棒に振るとは……ご苦労なことであらしゃいますなぁ」
「奥様の真似は、およしなさいませ!」
「おたあ様は、そのままで良いと言っているのですよ」
「存じております。これは、宵が決めたことです」
光留は、隣の部屋に用意された膳を箸で指し示し「一緒に食べましょう」と、誘うが宵は、首を振る。
答えは、分かっていたのだろう。声なく肩を揺らすと「いただきます」と、手を合わせた。
「宵さん、覚えてますか? 僕が、帰国して間もなく、晃子さんのご結婚の記事が新聞に載ったこと」
「ええ、覚えております。坊っちゃまが余計な手を回しているのではないかと 宵は、気が気ではありませんでした」
光留は、笑い声を上げた「当たりでしたね」と。
「その時、こう言いました。僕の跡継ぎを抱いてほしいと」
「まさか!離れに 晃子様を!? 」
「いや、ちょっと……気が早いですよ。ただ、計画通りに進んでいるでしょう? だから……僕は、頑張ろうと思って」
「そうです!きっと心待ちにされているはずです!」
興奮気味の宵は、捲し立てるが光留は、気が重かった。いちいち言葉にし、奮い立たせようと思うが、難しいことに変わりはなかった。
きっちり17時に帰宅する光留が、遅くなると言ったのは、今朝方が初めて。
勿論、刻限である18時を過ぎることは数度あったが、それでも粗方の時間は告げており、今日の様に「見当がつかないので僕は、離れで頂きます」という、常套句を口にしたのは、久方ぶりだった。
ゆえに食後、津多子と2人になった晃子が、以前から気にしていたことを尋ねようと思い付いたのは、閃きにも似た思いつき。
「宵さんの姿をあまり、お見かけしませんが普段、何をなさっているのでしょう……」
子爵夫人に、使用人の様子を尋ねるなど 言語道断であるのだから言葉は、独り言として小さく放たれた。無視されれば、それまでであり、言葉を拾い上げられたら話が続くだけの話。ぼんやりと、暖炉周りのマントルピースに視線を這わせる。
宵は、離れに住む光留の乳母だ。
朝になると共に現れ、光留を見送り又、離れに戻る。すると、次に母屋に現れるのは、出迎える夕刻になる。その様子を
「まるで、離れに引きこもっているかのよう」と、志賀は 評した。
そんなことを思いながら待てど、津多子からの返答がない。仕方がない――と、唐木の彫刻を額とするマントルピースの鏡に話題をすり替える為、唇を開きかけた晃子の耳に「ええ……」と、漏らしたのは 白磁の湯呑みを寄せた薄紅の唇だった。
「あの子が帰宅しなければ、宵も食事をしないのですよ……あら、美味しい」
おっとりとした声が、話題をすり替えたように思えたのは、気のせいか。同じように茶を含む。
「宵とお話があるのなら、呼んだらどうかしら?すぐに参るでしょう。あの子が言い含めているはずですからね。あ、でも今日は無理だわ」
「何かあるのですか?」
津多子は、細い指で耳にかかる後れ毛を摘まんだ。少し明るい栗毛色は、久我家のものだろう。それを左右に揺らしてみせると「髪」と一言。
「そういえば、以前鉄漿を使われるので、大変と仰られていましたわ」
「ええ、染める必要などないと言っているのに、気になるようで……あら、帰って来たのかしら?」
津多子は、蝶が蜜を求めてさ迷うように、視線を泳がすと「晃子さん」と、呼んだ。あの子や、貴女と呼ぶ、津多子からの名指しは、何かを秘めているようで晃子は、妙に畏まり背筋を伸ばした。
「宵から聞いたのですが、貴女、光留さんの御髪を綺麗と言ったそうね?本当?」
「まあ、そのようなことを光留様は、お話になったのですね。お恥ずかしいですが、本当です」
「私も、初めてあの子を見た時、そう思いました。産まれた乳飲み子を貰い受ける約束をしておりまして、御産もこちらで手配したのですよ。髪を見て難色を示した、亡きご隠居様を言い含めるのに難儀しましたが、今思えば間違いではなかったと。東の空が白む中、あの子の御髪は、キラキラと光っていて……お日さまのようだと思ったのです」
「あ……まさか、それで光留と?」
津多子は、コロコロと鈴を転がした。楽しげな笑い声に「ええ」と頷くと
「丁度良いことに、当家の通り字は 光。ご隠居は、せめてみつると言い張りましたが、押し切りました」
その時、パタパタと駆ける足音と共に「失礼します」と、襖が開かれた。顔を覗かせたのは、津多子の女中 奈緒。
「光留様は、離れへ向かわれました」
「あら、あら、珍しいこと。晃子さんが、こちらへお出でと伝えたの?」
「はい、申し上げたのですが……」
ゴニョゴニョと歯切れが悪く、晃子の顔色を窺うように、チラチラと視線を向ける。きっと言い難かったのだろう。
「お疲れなのでしょう。構いません」
何処と無く安堵の表情を浮かべた奈緒は、そのまま下がった。
「まあ、お勤めの後ですもの。色々とあるでしょう」
と、言う津多子は、素通りされた晃子を気遣っているのかもしれない。
「貰い子ですが、官への届けは実子となっているのですよ。産まれながらの当家の従五位」
「立ち入ったことをお聞きしますが……」
「どうぞ」
「光留様のお父上は……」
津多子は、人差し指を唇にあて 密か事――と、示す。
「廃嫡されたご隠居の嫡男……つまり、子爵の兄上です」
暖炉の火種が爆ぜ、静かな声音と混ざりあった。廃嫡の兄と子爵の関係は分からない。甥を実子として届けた子爵夫妻の考えも。御一新直後のゴタゴタなど、どの家にもあっただろう。
しかし、それを知りつつ育った光留の本音は、どんなものなのか――。
磨り硝子に広がる夜の帳を、払い除け、無性に光留に逢いたくなった。
寒空は、やけに闇を深く感じさせると見上げる光留は、配膳を済ませた宵を振り返った。
「毛染めを急ぐ必要は、なかったんじゃないですか? 宵さんの髪、別に染める程ではないでしょう?」
「少々、明るいのが気になるのです」
「些細なことで1日棒に振るとは……ご苦労なことであらしゃいますなぁ」
「奥様の真似は、およしなさいませ!」
「おたあ様は、そのままで良いと言っているのですよ」
「存じております。これは、宵が決めたことです」
光留は、隣の部屋に用意された膳を箸で指し示し「一緒に食べましょう」と、誘うが宵は、首を振る。
答えは、分かっていたのだろう。声なく肩を揺らすと「いただきます」と、手を合わせた。
「宵さん、覚えてますか? 僕が、帰国して間もなく、晃子さんのご結婚の記事が新聞に載ったこと」
「ええ、覚えております。坊っちゃまが余計な手を回しているのではないかと 宵は、気が気ではありませんでした」
光留は、笑い声を上げた「当たりでしたね」と。
「その時、こう言いました。僕の跡継ぎを抱いてほしいと」
「まさか!離れに 晃子様を!? 」
「いや、ちょっと……気が早いですよ。ただ、計画通りに進んでいるでしょう? だから……僕は、頑張ろうと思って」
「そうです!きっと心待ちにされているはずです!」
興奮気味の宵は、捲し立てるが光留は、気が重かった。いちいち言葉にし、奮い立たせようと思うが、難しいことに変わりはなかった。
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