紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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清浦の任務

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 ◆◆◆◆◆

「ええ!?」
「それで署名されたのですか!? 」

 叫び声を上げたのは、尾井坂男爵家の泰臣であり、合わせるように驚愕の言葉を放ったのは、晃子の婚約者である羽倉崎だった。
 何をしてくれたんだと、言いたげな2人に男爵は、あらましを語る――

「お待ち下さい。光留のデマカセの可能性はありませんか? 適当なことを言っているとか」
「それが あの男、こう言ったんだ」

 光留は、官吏に命じて硯と筆を持ち込ませたが、筆をとる男爵に
『ご署名を頂いても提出致しません。羽倉崎さんにも、ご納得いただいて――と考えておりますので。後日僕から、会談を申し込みます』

「ここまで言う男が、変な小細工をして出し抜くとも思えなかった」
「……確かに。田中様は、約束ごとを守られるような気がします」

「羽倉崎さんまで……まあ、確かに。アイツが1番恐れているのは、お姉様から嫌われることですから、軽蔑される行動は慎むでしょうが……」
「なので、私は言ったよ。後日、羽倉崎君を納得させることが出来なかったら、君の力不足ということで書面は、破り捨てるようにと」

 納得させることが出来なかったら、なりふり構わず提出しそうな気もしないでもない――。泰臣は、そう思った。
 羽倉崎も、何かしら過ったようで考え込む素振りをみせたが、直ぐに「よろしいでしょう」と承諾した。

「私を納得させるとなれば同等、もしくは破談に何か上乗せしたような好条件があるのかもしれません。ところで男爵、会談の詳しい話を聞かせて貰えませんか? 言われるままに署名をしたのです。納得するお話があったのでしょう?」
「ああ……そうだね。2人には話しておこう。あの男は、署名がすんだ後 こう言った――」

 鹿鳴館の談話室で、差し出された書面の1枚に名を書いた。
 思った通り、子爵家と男爵家の婚姻願いであり、願い出ているはずの尾井坂家当主の名前が空欄なのに対し、早々と大臣の花押が記された不思議なものだった。
 思えば、会談を願い出る手紙を持ってきたのは宮内省官吏だった。この人物が 奏任官なのか判任官なのか分からないが、私用の為に官吏を使うとは、なかなか出来るものではない。
 順番が逆の大臣花押もしかり。
 余程、大臣の信頼を得ているのか、無理を言ってどうにかしたのか、どちらにしても可愛がられているのだろう。
 そんなことを考えながら、筆を滑らせ 置く。待ち構えていたのだろう、文鎮から紙を抜き取ると「ああ!素晴らしい!」それは、それは嬉しそうな声をあげ、頭上に掲げると深々と頭を下げる。

「そんなに嬉しいのかね?」

 心底呆れた。
 噂通りなら、宮家との縁談もあった男だ。何故、尾井坂家の娘なのだろうと。
 しかし、呆れられていることは、どうでも良いようで。

「ええ、これが夢でした。額に入れて飾りたいくらいです!」

 恍惚こうこつの境地と、文字を見つめる横顔は今にも、書面に接吻するのではないかと思うほど、酔いしれているようにも見える。
 あきらかに、変わり者だ。関わりたくはないが噂では、すこぶる評判が良いのだから顔を合わせる時は、一生の男であって欲しいと願う。

「さあ、時間がありません!早く帰宅して、貴女の夫ですよ、と 僕の顔をよくよくお見せしなくては」

 宮内省へ届ける書面を元の封筒へ仕舞うと、些か乱暴に飛び座る。毛氈に擦れる椅子の脚が、くぐもる音を鳴らした。

「もう1枚は、この話が終わってからで結構です。お義父様……と呼びたいのは、山々ですが、まだ羽倉崎さんと話をつけておりませんので、男爵とお呼びします」
「ああ、構わないよ。光留君」

 初めて男の名を口にした。光留は、ふふっと口元を綻ばせ「僕は、欧州視察に同行しておりまして……」と、思い出を語る。おそらく、その中で貴族院に関係する話があるのだろう。
 男爵は、長丁場になりそうだ――と 静かに腕を組んだ。
 明治24年4月、予てより予定されていた欧州視察で官僚が出国した。
 男爵も小耳に挟んだ程度である為、詳しくは知らなかったのだが、光留曰く 全員が同じものを学ぶというより、各々の役割があったと言う。

「帰国が、今年の3月ですので約10ヶ月でしょうか。僕は、その頃 人生に絶望しておりまして、行きの汽船のことは よく覚えておりません。皆様のお役に立つように学べと叱咤されましたが、何を学ぶべきかもわかりません。とりあえず、僕を船に乗せた清浦さんに面倒をみさせようと思い、付きまといました」

 思い出したのか、クスリと笑う顔は、懐かしさが滲み出るものだった。

「その清浦さんですが、この人 可笑しいと思いません?」
「何がだい?」

「だって、無役ですよ?欧州視察の代表のような人が、官僚でもないって……。そこで聞いたんです、変ですね?と。すると……こう」

 光留は、大きく脚を振り上げて組むと、人差し指と中指を、形の良い唇へ寄せる。
 煙草だ。空いた手で髭を撫でる仕草も忘れない。

「前々から、行ってみたかったんだ。ただ、内務省警保局長っていうのは、多忙でね。不眠不休、とてもじゃないけどお許しがでない……で、辞めてここにいるんだ。ふぅ――って」

 飄々と言い放ち、唇を尖らせる。
 目に見えない煙が漂う錯覚を覚え、男爵は無意識に笑った。
 清浦に会ったことがないが、おそらく こういう男なのだろう。
 当時の清浦は、ただの貴族院議員である。
 爵位を持たない清浦は、国家に勲労 又は、学識ある者が勅任される勅選議員枠だ。
 司法に詳しいともなれば、選ばれるのは当然ともいえる。推したのは 山縣だと思われるが、任命は内閣となる為、総理大臣である黒田、外相の大隈、枢密院すうみついん議長の伊藤という、錚々そうそうたる人物の命を受ける形だ。

「で、そんな怪しい清浦さんの任務は、ドイツにありました……」
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