紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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容子

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 泰臣は、床一面に散乱した破片や、夕飯と思われる、踏み散らかされた残骸に言葉を失った。すでに女中が片付けを始めていたので、幾分かはマシなのだろうが、それでも水や味噌汁の飛沫が、書棚や壁に飛び散り、散々な有り様だった。

「何があった?」

 周りを見渡すと、背後に控える志賀に声をかけた。

「わかりません。人払いがされていて、お食事もこちらへと……。配膳の者によりますと部屋を出て、比較的すぐに大きな音がしたそうです。慌てて知らせに参ったのですが、私が駆けつけた時には、羽倉崎様がお怪我をされていて、晃子様のお姿はありませんでした」

 顔色を失ってはいるが、ハッキリとした口調で報告をする。
 泰臣は、駒子の父である大宮伯爵から呼ばれ、外出していた。用件は、屋敷の修繕についての無心であり、単刀直入に物を言わない公家の習性ゆえか、屋敷の内玄関に帰り着いたのは、日も暮れる頃。
 堅苦しい対面からの解放に、足取り軽く 俥から降りようとした瞬間、身体に強い衝撃をうけたのは、つい先程だ。
「うわッ!!」と、声を上げたようにも思うが、正直 突然のことで記憶にない。ただ、蹴込みから突き飛ばされる形で、身体が地面に向かって倒れ込んだという事実だけは、ハッキリとしている。
 身内が使用する内玄関であったのが、幸いだった。これが表玄関だったら石畳で強打していたかもしれない。ただ、真綿ではないのだから突いた膝小僧は ジンジンと痺れ、身体を守り、支えた手のひらは、地面を滑ったせいで ヒリヒリとした痛みを覚えた。
 苦痛に眉を寄せた泰臣の耳を、甲高い女の叫び声が つんざいたのは、そんな時だ。

「早く!早く出してちょうだい!」

 何事かと振り仰ぐと梶棒かじぼうを持ち、突っ立っている車夫と、すでに乗り込んだ晃子が 目に飛び込んできた。

「ど、どちらまで……」

 行き先を尋ねるものの、目が泳いでいるのは、状況が呑み込めない為だろう。
 それでも、一度ひとたび血相を変えた客が「急ぎなさい!!」と命じれば、とりあえず走るしかない。車夫は 梶棒をくぐり、俥は大きく傾いた。

「待て!」

 制止する声を上げたが、俥は 地面の石を弾き、ガラガラガラと 徐々に遠ざかる。小さく消え行く俥に、何処へ行くのか――と思いはするが 追う気にもならず、膝を払うと屋敷へ足を踏み入れた。
 俄に騒がしい邸内、散乱した部屋、成り行きを聞いたのは、つい今し方。

「羽倉崎さんの怪我の様子は?」
「お医者は呼ぶなと。今、手当てを致しましたが、深くはありませんでした」

 2人は喧嘩したのだろうが、散乱した室内は異常だ。そして薄暗い中、行くあてもない晃子が、何処に行ったと云うのか。
 考えられるのは子爵家だが、これ以上ない醜聞ネタになり得る者に、敷居を跨がせるとは思えない。泰臣は 首を捻りつつ、羽倉崎が待つ応接室へ向かった。

 羽倉崎の話は 要領を得、手短で分かりやすい。貧乏華族とは、違う話術たるものに関心するが、内容はいただけない。

「それで、殴られたと……」
「ええ、振り向いた所。ただ眼鏡に当たりまして、額への直撃は避けられました。しかし、眼鏡が割れては、追いかけても捕まえることは出来ないでしょう?そういう訳です」

「成る程……しかし、その話の流れでは行き先は……」
「おそらく、そうでしょうね」

 羽倉崎は、額にあてられたガーゼを指で撫でると、クスリと笑った。

「明日は、中止です。このような状態で鬼怒川へは行けません。それより晃子さんをお迎えに上がらねば……おや?どうされました?」

 意外な人物が 現れたものだと言いたげに、羽倉崎は 泰臣に目配せをし、ドアへ視線を向ける「どうもこうも……はぁ」
 深い溜め息をつき、歩み寄って来るのは、男爵夫人である容子ようこだった。
 束髪に珊瑚の簪を差す容子は、成る程、晃子の母親だと納得する姿形だ。
 元武家の娘だと、尾井坂家では言われているが、詳しい出自が話題に上がることもない。武家であったとしても、落ちぶれ士族だろう。
 若い頃は、評判の美人だったというが、美しい花も開き、散るように人間の美醜も似たようなもの。若かりし頃は、涼しげな目元と褒めそやされても、時が経てば 切れ長の瞳が冷たく感じられ、白雪のような肌も 濁りが浮かび上がる。
 隠す白粉は 厚くなり、口角が下がった唇を隠そうと真紅を差せば、品のなさを露呈する有り様だった。

「今し方、本駒込の田中子爵家からお電話がありました」

 3つ目のソファーに腰を下ろし、そう言った。田中家から電話と言うことは、晃子に敷居を跨がせたということだ。

「晃子が、ご婚約者と喧嘩して あてもなくさ迷っていた所に、津多子様が偶然通りかかられたとか……」

 2人して嘘だ――と思う。もしかしたら、容子も そう考えているのかもしれないが、津多子の話では……と前置きして語る。
 辺りは、すっかり暗くなったというのに、門前に寄せられた俥があった。車夫に事情を尋ねると、客が降りないという。
「何か、お困りなことでも?」と、声をかけた。見ると、尾井坂家の晃子であり、顔色も悪く、草履も履いていない。事情がありそうだと、屋敷へ招き入れたという。

「本日は、お預かりしますと」
「まさか、お母様……了承された?」

「ええ、ご厚意に甘えさせて頂きました。もう夜分ですし、子爵家へ伺うのも憚られます」
「確かに、もっともです……それで、他には?」

「ええ。大変、酷い有り様ですので ご婚約者に成り行きを確認するようにと……一体、何があったというのです?羽倉崎さん」
「……うっ!」

 話を向けられた羽倉崎は、苦痛に顔を歪め、額を押さえ込むと 背を丸めた。指の隙間から見える眉根は、痛みを堪えるように寄せられている。

「「羽倉崎さん!?」」

 泰臣と容子の声が、慌てたものに変化した。やはり、医者を呼んだ方が――と立ち上がった時、羽倉崎が震える声を絞り出した。

「大丈夫です……に殴られた傷が痛み……ああ、ダメだ。申し訳ありませんが、横にならせていただいても?」
「ええ、お部屋の準備を……!」

 容子は、慌てふためき廊下へ駆け出した。「誰か……!」と、呼び掛ける声が 遠くなったことで、羽倉崎は 顔を上げた。
「行ったようですね?」と告げた唇は、ニッと引き上がる。
 晃子との結婚前に、妾を囲っていたことが露見し、喧嘩になった――。
 これだけなら、まだ良いが その相手が容子も嫌悪する対象の女となると、分が悪い。
 
「面倒な案件は、一つずつ片付けるのが鉄則」

 笑う羽倉崎は、懐をまさぐる。

「しまった。煙草は、晃子さんに預けていたんだった。泰臣君、お持ちでは?」
「僕は、吸いません」

「残念……そうだ、田中様はお吸いに?」
「嗜み程度と言っているので、吸うと思いますよ」

「そうですか。交渉の場にお持ちしましょうかね」

 羽倉崎は、煙草を咥える仕草をすると、ふぅ――っ、目には見えない煙を、天井に向かって吐き出した。
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