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招かれざる
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◆◆◆◆◆
御一新前の下屋敷を、現在の本宅とすることが多い大名華族だが、田中子爵家も御多分に洩れず。
本駒込は元大名、官の役人の屋敷が立ち並ぶ地域となっていた。
田中家においては、昨年、跡取りである光留が不在のうちに大きな改築を施していた。
それは、成人した光留の住まいを両親と別にするものであり、子爵家において跡取りの結婚を念頭においたものだというのは、誰もが知ることだった。
母屋と庭を挟み、並ぶ形で建てられた離れ様式だが、二間程度の こぢんまりとしたものではなく、母屋同等の物を揃えた立派な離れとなっていた。
しかし、未だ夫人不在の光留なのだから、食事や風呂などは、母屋で済ませる為、自室と使用人部屋以外は、使わない。
子爵家の下女は、放置するとクモの巣が張りかねない部屋を毎日掃除するのに、半日費やす有り様だった。
そんなことだから、乳母の宵は「早く、早く」と花嫁御寮の御出を願う。
しかし、当の光留は まっしぐらに1人の女を追いかけ回すものだから、最近 宵の口癖は「諦めが肝心」という、悟りにも似たものになっていた。
家のことを取り仕切る宵は、光留の跡継ぎを待ち望む代表格であり、生母である子爵夫人よりも熱心に縁組のことを考えていた。夫人に至っては、元々物静かな人であり、口を挟むこともない。
久我侯爵家の令嬢である夫人は、津多子という。鹿鳴館で光留が連れていた宮津子の叔母にあたり、姿形は光留よりも宮津子に似ている。
栗毛の髪を上品に巻き上げ、粋な縦縞をよく着こなす。座っているだけで お姫様といった風情だ。
そんな津多子に、夫人付きの女中である奈緒が声をかけた。
「奥方様、先程、お勝手口で宵さんが騒いでおられたのですが、不思議なことでお相手が外の者のようでした」
「……外の者? 誰です?」
「日暮れに御用聞きでもありませんし、成り行きを見てくるようにと、人をやりましたが……」
「そう……、貴女は若いのに気が利くわね。あら、アキさん、おいでなさい」
奈緒の後をついてきたのだろう、1匹の三毛猫がニャーと、甘えた声で膝にすり寄る。以前、光留が黒田から譲り受けた猫のアキだ。
大切に飼われているらしく、ビロードの紐に小さな鈴を通されたものを首に掛けられ、声と同じく可愛らしく鳴らす。
「奈緒が、よく面倒をみるから随分、懐いているわね……そうだわ、私も何か探してこようかしら」
「奥方様、私が」
「いいのよ、お勝手に行く口実ができたわ」
津多子は、アキを抱き上げると敷居を跨いだ。長い廊下を二折れ、三折れ、滑るように進むと、明らかに普段とは異なることがわかった。突き当たりには 2人の女中が、お勝手を覗き、ヒソヒソと声を潜めているのが見てとれた。耳に入るのは宵の声だ。
覗く手間が省けたと、壁に寄りかかり耳を澄ます。そんな子爵夫人に気付いた女中が、慌てて頭を下げるが津多子は、人差し指を唇に寄せ無言で、知らぬ顔を強要してみせた。
その時「お引き取りください!」と、強く放たれたのは、宵の一際大きな声であり、それだけで招かざる客のようだと、津多子は察した。続く言葉は、宵ではなかった。
「光留様にお取りつぎ下さい」と、切羽詰まる女の声は、必死に追いすがるといった具合に甲高く響く。
「あら……また、あの子ったら」
多津子は、ねぇ?と 猫のアキに小首を傾げてみせる。光留に会わせろと、屋敷にやってくる女は初めてではない。
最近では3月程前にも、何処ぞの半玉がやって来た。面倒をみるなど、軽口を叩いたのかと思ったが、そのような事実はなく、ただ座敷で話し込んだだけだという。
宵が 宥めすかし、置屋の女将に引き渡したのは言うまでもない。
あの時は、迂闊に名乗ってしまったと後悔していたようだったが、今回もその類いだろうと多津子は、お勝手に背を向けた――
「晃子が参ったと一言お伝え下さい!」
「どちらの晃子さんでしょうか!? 草履も履かずにやって来るような方を、当家の若様に会わせる訳には参りません!」
捲し立てる宵の言葉に、多津子の肩がピクリと上がった。「アキ……アキコさん?」と、腕に抱く猫に視線を落とす。
「……ッ!! それは……」
グッと言葉を呑み込んだような女の声は、か細く震え、黙り込んでしまったようだ。これ幸いとばかりに、強い非難を放つのは宵だ。
「ほら!お家を名乗られないのは、訳があられるのでしょう!? そのような成りで、こんな時刻に押し掛けるとは、余程のこととお見受けします。そのような人を若様に会わせる訳にはいきません!お引き取りを!」
無論、宵は 目の前の尋常ではない女が、何処の誰か察しているだろう。明らかに可笑しい状況において、子爵家が巻き込まれることを回避するには関わらないのが得策だ。
鬼のような剣幕の宵に、産まれて此の方、非難などされた経験がないであろう令嬢は、居たたまれないはずだ、目通り叶わず引き返すことになるだろう。
多津子は、ふぅ……と息を漏らすと「騒がしいこと……」と、踵を返した。宵の声は、徐々に小さく遠ざかり――消えた。
―――――
離れは、静かなものだ。
主である光留が、母屋で食事などを済ませる為、詰める使用人はおらず、宵と2人で住んでいるようなものだった。
このような事情で今、忍び寄る人影が誰なのか?正体に疑問を抱くこともない光留は、寝転がったまま、振り向きもしない。
「何です?宵さん。泥棒みたいに足音を忍ばせて、僕を驚かそうとしても そうはいきませんからね」
「別の意味で驚くことになっていますよ」
宵とは 似ても似つかない、おっとりとした声音に、光留は飛び起きた。
「おたあ様!! 」
「猫のアキさんをお返しに……そして、人間のアキさんがお見えのようよ?」
「……まさか、どこのアキさんです?」
「あらあら、宵と同じ事を言うのね」
怪訝な顔で見上げてくる息子に、クスリ……と笑い、続けた。
「何でも、晃子と名乗る女が、お勝手口で貴方に逢わせて欲しいと言っているようですが、宵が鬼の剣幕で追い返そうとしていました」
「どういうことです!? 今も!? 」
「さぁ……」
「御前、失礼!! 」
光留は、転がるように多津子の目の前を横切り、渡り廊下を駆けた。意味がわからないが、離れへ寄り付かない――、否、光留に寄り付かない母が、わざわざ知らせたということはアキさんは、晃子で間違いないだろう。
明日は、上野駅
大きな賭けの前に 何が起きたのか、数人の女中を突飛ばし、光留は お勝手口に飛び出した。
御一新前の下屋敷を、現在の本宅とすることが多い大名華族だが、田中子爵家も御多分に洩れず。
本駒込は元大名、官の役人の屋敷が立ち並ぶ地域となっていた。
田中家においては、昨年、跡取りである光留が不在のうちに大きな改築を施していた。
それは、成人した光留の住まいを両親と別にするものであり、子爵家において跡取りの結婚を念頭においたものだというのは、誰もが知ることだった。
母屋と庭を挟み、並ぶ形で建てられた離れ様式だが、二間程度の こぢんまりとしたものではなく、母屋同等の物を揃えた立派な離れとなっていた。
しかし、未だ夫人不在の光留なのだから、食事や風呂などは、母屋で済ませる為、自室と使用人部屋以外は、使わない。
子爵家の下女は、放置するとクモの巣が張りかねない部屋を毎日掃除するのに、半日費やす有り様だった。
そんなことだから、乳母の宵は「早く、早く」と花嫁御寮の御出を願う。
しかし、当の光留は まっしぐらに1人の女を追いかけ回すものだから、最近 宵の口癖は「諦めが肝心」という、悟りにも似たものになっていた。
家のことを取り仕切る宵は、光留の跡継ぎを待ち望む代表格であり、生母である子爵夫人よりも熱心に縁組のことを考えていた。夫人に至っては、元々物静かな人であり、口を挟むこともない。
久我侯爵家の令嬢である夫人は、津多子という。鹿鳴館で光留が連れていた宮津子の叔母にあたり、姿形は光留よりも宮津子に似ている。
栗毛の髪を上品に巻き上げ、粋な縦縞をよく着こなす。座っているだけで お姫様といった風情だ。
そんな津多子に、夫人付きの女中である奈緒が声をかけた。
「奥方様、先程、お勝手口で宵さんが騒いでおられたのですが、不思議なことでお相手が外の者のようでした」
「……外の者? 誰です?」
「日暮れに御用聞きでもありませんし、成り行きを見てくるようにと、人をやりましたが……」
「そう……、貴女は若いのに気が利くわね。あら、アキさん、おいでなさい」
奈緒の後をついてきたのだろう、1匹の三毛猫がニャーと、甘えた声で膝にすり寄る。以前、光留が黒田から譲り受けた猫のアキだ。
大切に飼われているらしく、ビロードの紐に小さな鈴を通されたものを首に掛けられ、声と同じく可愛らしく鳴らす。
「奈緒が、よく面倒をみるから随分、懐いているわね……そうだわ、私も何か探してこようかしら」
「奥方様、私が」
「いいのよ、お勝手に行く口実ができたわ」
津多子は、アキを抱き上げると敷居を跨いだ。長い廊下を二折れ、三折れ、滑るように進むと、明らかに普段とは異なることがわかった。突き当たりには 2人の女中が、お勝手を覗き、ヒソヒソと声を潜めているのが見てとれた。耳に入るのは宵の声だ。
覗く手間が省けたと、壁に寄りかかり耳を澄ます。そんな子爵夫人に気付いた女中が、慌てて頭を下げるが津多子は、人差し指を唇に寄せ無言で、知らぬ顔を強要してみせた。
その時「お引き取りください!」と、強く放たれたのは、宵の一際大きな声であり、それだけで招かざる客のようだと、津多子は察した。続く言葉は、宵ではなかった。
「光留様にお取りつぎ下さい」と、切羽詰まる女の声は、必死に追いすがるといった具合に甲高く響く。
「あら……また、あの子ったら」
多津子は、ねぇ?と 猫のアキに小首を傾げてみせる。光留に会わせろと、屋敷にやってくる女は初めてではない。
最近では3月程前にも、何処ぞの半玉がやって来た。面倒をみるなど、軽口を叩いたのかと思ったが、そのような事実はなく、ただ座敷で話し込んだだけだという。
宵が 宥めすかし、置屋の女将に引き渡したのは言うまでもない。
あの時は、迂闊に名乗ってしまったと後悔していたようだったが、今回もその類いだろうと多津子は、お勝手に背を向けた――
「晃子が参ったと一言お伝え下さい!」
「どちらの晃子さんでしょうか!? 草履も履かずにやって来るような方を、当家の若様に会わせる訳には参りません!」
捲し立てる宵の言葉に、多津子の肩がピクリと上がった。「アキ……アキコさん?」と、腕に抱く猫に視線を落とす。
「……ッ!! それは……」
グッと言葉を呑み込んだような女の声は、か細く震え、黙り込んでしまったようだ。これ幸いとばかりに、強い非難を放つのは宵だ。
「ほら!お家を名乗られないのは、訳があられるのでしょう!? そのような成りで、こんな時刻に押し掛けるとは、余程のこととお見受けします。そのような人を若様に会わせる訳にはいきません!お引き取りを!」
無論、宵は 目の前の尋常ではない女が、何処の誰か察しているだろう。明らかに可笑しい状況において、子爵家が巻き込まれることを回避するには関わらないのが得策だ。
鬼のような剣幕の宵に、産まれて此の方、非難などされた経験がないであろう令嬢は、居たたまれないはずだ、目通り叶わず引き返すことになるだろう。
多津子は、ふぅ……と息を漏らすと「騒がしいこと……」と、踵を返した。宵の声は、徐々に小さく遠ざかり――消えた。
―――――
離れは、静かなものだ。
主である光留が、母屋で食事などを済ませる為、詰める使用人はおらず、宵と2人で住んでいるようなものだった。
このような事情で今、忍び寄る人影が誰なのか?正体に疑問を抱くこともない光留は、寝転がったまま、振り向きもしない。
「何です?宵さん。泥棒みたいに足音を忍ばせて、僕を驚かそうとしても そうはいきませんからね」
「別の意味で驚くことになっていますよ」
宵とは 似ても似つかない、おっとりとした声音に、光留は飛び起きた。
「おたあ様!! 」
「猫のアキさんをお返しに……そして、人間のアキさんがお見えのようよ?」
「……まさか、どこのアキさんです?」
「あらあら、宵と同じ事を言うのね」
怪訝な顔で見上げてくる息子に、クスリ……と笑い、続けた。
「何でも、晃子と名乗る女が、お勝手口で貴方に逢わせて欲しいと言っているようですが、宵が鬼の剣幕で追い返そうとしていました」
「どういうことです!? 今も!? 」
「さぁ……」
「御前、失礼!! 」
光留は、転がるように多津子の目の前を横切り、渡り廊下を駆けた。意味がわからないが、離れへ寄り付かない――、否、光留に寄り付かない母が、わざわざ知らせたということはアキさんは、晃子で間違いないだろう。
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