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既成事実
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トン、トン
テーブルを叩く音で、ハッと我に返った。目の前には、人差し指で卓上を弾く爪。
指先を辿り、ジッ――と窺う 双眸に「申し訳ありません」と漏らしたのは、薄紅が薔薇の花弁を思い起こさせる晃子の唇だった。
「心ここにあらずとは、晃子さんの方ではないですか?」
「ごめんなさい」
何かを感じ取ったのか怜悧な眼差しは、晃子の心底を探るように、瞬ぎもせず見据えていた。
「羽倉崎さん、場所を変えましょう。ここでは、落ち着きません」
「いえ、ここで結構。話の途中で場所を変えるのは、好きではありません」
「それでは、お茶を……」
「いえ、志賀には構うなと言いつけています。本題に入りましょう」
とりつく島もない。テーブルを叩いた指先を引き、腕を組む羽倉崎に「ご機嫌斜めでしょうか、私、嫌ですわ」と、本題に入るのを拒む。
必ず光留の話になる、そう確信した。
「嫌でも聞くのですよ。明日は早い。聡い貴女のことです、私の言うことを理解してくれると信じています」
こう言うと羽倉崎は、人から聞いた話と称し、一気に語り出す。滑らかに次から次に放たれる言葉の波は、晃子の白い顔を徐々に赤く染めていった。
誰から聞いたというのか、内容は光留との出会いから、欧州視察の成り行きまで。
「その染まる頬は、どういう意味でしょう?」
「嫌だわ、誰でも恥ずかしく思うでしょう?羽倉崎さん、貴方が今仰ったお話は、光留様が学習院で学ばれていた頃から、私を一途に想っているという内容でしたわよ?」
「そうですね、まんまとしてやられました。田中様は、噂に過ぎないと一笑されたというのに」
「それでは噂でしょう。だって羽倉崎さんも人から聞いたお話なんですもの」
「噂でも、出所しだいと思いませんか?私だって貿易仲間や、そのツテで知り得たことなら真に受けませんよ。現に山寺さんに聞いた時は、信じていませんでした。故に田中様に確認した際、サラッと流してしまったのですから」
「今回は、何処から聞いたというのです」
「司法省ですよ。そんなことより、どうなのです?」
「私に聞かれても存じません」
「それでは、聞き方を変えましょう。晃子さんは、どう思われているのですか?」
「とても素敵な方と思います」
「私よりも?」
「まあ!何を仰っているの!」
羽倉崎の言葉に、晃子はプゥ――と吹き出した。指先を唇に寄せ、懸命に堪えるが震える肩を止めるのは、至難の技だった。笑ってはいけないと思うと、尚更 可笑しくて堪らない。晃子は、とうとう両手で顔を覆い隠し、忍び笑う。
「比べる前から答えなど出ていると?」
「当たり前でしょう? 日本橋の件をお忘れなの?あれ程、私が嫌だと申し上げていたのに、貴方には妾がいるではないですか。そんな人が素敵なわけありません」
ピシャリと拒絶するのは、晃子の矜持だ。羽倉崎は、ハッと鼻で笑うと「おやおや、可笑しなこと」と、ゆっくりと否定の意味を込め頭を振ってみせた。
「もしかしたら田中様だって……と思われないのですか?物腰柔らかで、お口のお上手な御令息は、嘘など申さないとでも?馬鹿なことを……はは!」
「お話のすり替えはお止めになって。貴方は私を騙されたのです。そんな方、信用に値しませんし、素敵な方とは申せないと言っているのです」
「なるほど。兎に角、婚約者の私よりも田中様の方が素敵だと……」
ベルベットの背もたれに、委ねられた羽倉崎の身体は、失笑に合わせ小刻みに震えた。上質な絹地は微かな音を鳴らす。肘掛けに立てた腕に顔を伏せる仕草が、小馬鹿にしているようにも見え、晃子の癪に触った。
「まあ、良いですよ。そのようなこと気にもなりません。例え田中様が、噂通りに晃子さんを想っていたとしても、私の知ったことではありませんし。ただ、晃子さんが田中様を想っているとなると話は、違います」
「可笑しなことばかり仰らないで。光留様は泰臣さんの学友、それだけ」
「ですよね、しかし、相手が子爵家の従五位であっても、婚約者をまんまと掠め取られたとなると、私が恥をかくのですよ」
「掠め取る?失礼ですわよ」
聞き捨てならない言葉に、咎める声を上げたが、羽倉崎は口元に薄い微笑を浮かべ、2人をわかつテーブルに身を乗り出した。切れ長の瞳は、思わせ振りに細められる。まるで無礼を口にし、出方を見ているのようだ。晃子は、膝に揃えた両指をギュッと握りしめた。
「ええ、確かに言い過ぎでした。しかし本音です。もし、この縁談が破談になった場合、理由によっては大変な恥をかくのですよ。田中様は宮家の縁談を退けるのに、大層苦労されたとか。穏便な破談は、時がかかる……ということで晃子さん、私は今夜、貴女のお部屋で過ごそうと思います」
「何ですって!?」
ガタッ!――と、床を引く音が響く。勢いで立ち上がった晃子の膝が、思いの外 力強く椅子を押し退けたようだ。
「誰もが、後に引くことがない縁談と認識するでしょう。誰かの横恋慕があったとしても、既成事実がものをいう」
「嫌です!! そのようなこと」
「ご安心下さい、出立前に無体な真似はしませんよ。ただ、田中様には誤解をして頂かないといけません。さすがに、そのような晃子さんを子爵家へ迎えようとは思わないでしょう」
西陽を半面に受ける羽倉崎の顔は、冗談を言っているものではなかった。真剣そのものであり、異を唱えることを決して許さないとハッキリと物申していた。
テーブルを叩く音で、ハッと我に返った。目の前には、人差し指で卓上を弾く爪。
指先を辿り、ジッ――と窺う 双眸に「申し訳ありません」と漏らしたのは、薄紅が薔薇の花弁を思い起こさせる晃子の唇だった。
「心ここにあらずとは、晃子さんの方ではないですか?」
「ごめんなさい」
何かを感じ取ったのか怜悧な眼差しは、晃子の心底を探るように、瞬ぎもせず見据えていた。
「羽倉崎さん、場所を変えましょう。ここでは、落ち着きません」
「いえ、ここで結構。話の途中で場所を変えるのは、好きではありません」
「それでは、お茶を……」
「いえ、志賀には構うなと言いつけています。本題に入りましょう」
とりつく島もない。テーブルを叩いた指先を引き、腕を組む羽倉崎に「ご機嫌斜めでしょうか、私、嫌ですわ」と、本題に入るのを拒む。
必ず光留の話になる、そう確信した。
「嫌でも聞くのですよ。明日は早い。聡い貴女のことです、私の言うことを理解してくれると信じています」
こう言うと羽倉崎は、人から聞いた話と称し、一気に語り出す。滑らかに次から次に放たれる言葉の波は、晃子の白い顔を徐々に赤く染めていった。
誰から聞いたというのか、内容は光留との出会いから、欧州視察の成り行きまで。
「その染まる頬は、どういう意味でしょう?」
「嫌だわ、誰でも恥ずかしく思うでしょう?羽倉崎さん、貴方が今仰ったお話は、光留様が学習院で学ばれていた頃から、私を一途に想っているという内容でしたわよ?」
「そうですね、まんまとしてやられました。田中様は、噂に過ぎないと一笑されたというのに」
「それでは噂でしょう。だって羽倉崎さんも人から聞いたお話なんですもの」
「噂でも、出所しだいと思いませんか?私だって貿易仲間や、そのツテで知り得たことなら真に受けませんよ。現に山寺さんに聞いた時は、信じていませんでした。故に田中様に確認した際、サラッと流してしまったのですから」
「今回は、何処から聞いたというのです」
「司法省ですよ。そんなことより、どうなのです?」
「私に聞かれても存じません」
「それでは、聞き方を変えましょう。晃子さんは、どう思われているのですか?」
「とても素敵な方と思います」
「私よりも?」
「まあ!何を仰っているの!」
羽倉崎の言葉に、晃子はプゥ――と吹き出した。指先を唇に寄せ、懸命に堪えるが震える肩を止めるのは、至難の技だった。笑ってはいけないと思うと、尚更 可笑しくて堪らない。晃子は、とうとう両手で顔を覆い隠し、忍び笑う。
「比べる前から答えなど出ていると?」
「当たり前でしょう? 日本橋の件をお忘れなの?あれ程、私が嫌だと申し上げていたのに、貴方には妾がいるではないですか。そんな人が素敵なわけありません」
ピシャリと拒絶するのは、晃子の矜持だ。羽倉崎は、ハッと鼻で笑うと「おやおや、可笑しなこと」と、ゆっくりと否定の意味を込め頭を振ってみせた。
「もしかしたら田中様だって……と思われないのですか?物腰柔らかで、お口のお上手な御令息は、嘘など申さないとでも?馬鹿なことを……はは!」
「お話のすり替えはお止めになって。貴方は私を騙されたのです。そんな方、信用に値しませんし、素敵な方とは申せないと言っているのです」
「なるほど。兎に角、婚約者の私よりも田中様の方が素敵だと……」
ベルベットの背もたれに、委ねられた羽倉崎の身体は、失笑に合わせ小刻みに震えた。上質な絹地は微かな音を鳴らす。肘掛けに立てた腕に顔を伏せる仕草が、小馬鹿にしているようにも見え、晃子の癪に触った。
「まあ、良いですよ。そのようなこと気にもなりません。例え田中様が、噂通りに晃子さんを想っていたとしても、私の知ったことではありませんし。ただ、晃子さんが田中様を想っているとなると話は、違います」
「可笑しなことばかり仰らないで。光留様は泰臣さんの学友、それだけ」
「ですよね、しかし、相手が子爵家の従五位であっても、婚約者をまんまと掠め取られたとなると、私が恥をかくのですよ」
「掠め取る?失礼ですわよ」
聞き捨てならない言葉に、咎める声を上げたが、羽倉崎は口元に薄い微笑を浮かべ、2人をわかつテーブルに身を乗り出した。切れ長の瞳は、思わせ振りに細められる。まるで無礼を口にし、出方を見ているのようだ。晃子は、膝に揃えた両指をギュッと握りしめた。
「ええ、確かに言い過ぎでした。しかし本音です。もし、この縁談が破談になった場合、理由によっては大変な恥をかくのですよ。田中様は宮家の縁談を退けるのに、大層苦労されたとか。穏便な破談は、時がかかる……ということで晃子さん、私は今夜、貴女のお部屋で過ごそうと思います」
「何ですって!?」
ガタッ!――と、床を引く音が響く。勢いで立ち上がった晃子の膝が、思いの外 力強く椅子を押し退けたようだ。
「誰もが、後に引くことがない縁談と認識するでしょう。誰かの横恋慕があったとしても、既成事実がものをいう」
「嫌です!! そのようなこと」
「ご安心下さい、出立前に無体な真似はしませんよ。ただ、田中様には誤解をして頂かないといけません。さすがに、そのような晃子さんを子爵家へ迎えようとは思わないでしょう」
西陽を半面に受ける羽倉崎の顔は、冗談を言っているものではなかった。真剣そのものであり、異を唱えることを決して許さないとハッキリと物申していた。
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