紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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誘惑

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 ◆◆◆◆◆

「何ですって!? ―― 熱ッ!!」

 光留は、驚愕露という言葉がピタリと、はまるほどの声を上げた。
 手にした湯呑みまでもが、合わせるように動揺で跳ね、内の緑は波打ち、純白のグローブに染みを作る。

「大丈夫でございますか!? 」

 すかさず、無造作に置かれた手拭いをひったくり、腰を上げたのは、瀬戸物町の里だ。慌てたのだろう、膝ですり寄ると云うより、倒れかかるような勢いに「結構!」と、引き留める声が早かった。
 手早くグローブを剥ぎ取る光留は内心、不味い――と眉根を寄せる。
 晃子から向けられた疑惑に、身の潔白を示す為、里と会わせようと考えた光留は、根回しをすることで羽倉崎の妾という、核心部分を隠すことを思い付いた。
 ただでさえ、人様の事情を暴露することはしたくない。
 それが、恋敵の足元を 掬い上げるような事柄ならば、なおのことだ。
 何故なら、それによって自分が優位に立つことは、卑劣な手段だと思うから。
 そこで妙案が浮かんだと、喜び勇み やって来たら、事態は 更に動いていたという。何という悪循環だ……と、頭を抱える。

「よりによって、出くわした……」

 日本橋でバッタリとは、狙ったとしか思えないような偶然だが、修羅場と化すのは目に見えているのだ、狙うわけがない。これは羽倉崎の運のなさだろう――と、光留は チラリと奥の間を窺う。

「それで、あの櫛?」
「ええ! 鼈甲櫛を晃子様へお譲りするようにと……酷いと思われませんか!? 代わりに、あの中から好きなものを選べと!」

 黒盆には、柔らかい朱の引き物に、5つ程の櫛が並べられていた。見るからに良い物だと思うが、そういう問題じゃないだろう。
 足を崩し、ポツンと座る咲は、このまま消えてしまうのではないかと思う程、生気が感じられない。

「失礼」

 光留は、初めて靴を脱いだ。咲に歩みよると、静かに声を掛ける。

「咲さん、今回羽倉崎さんは、晃子さんを優先されました。おわかりですね?」

 黙り見上げてくる瞳は、指摘されたくないと言わんばかりに、フイッ――と 逸らされたが、光留の唇は、継ぐことを止めない。

「これが一生続くのです。貴女が1番になることなどない。泰臣君のお母様を思い出して下さい、どんなに愛されようが、男子を産もうが妾は、妾」
「光留様!それは咲様に対して……」

「無礼とでも言いたいのですか? 片腹痛い。里さん、貴女もしっかり教えて差し上げなさい。それとも、教えて差し上げて尚、この体たらくですか?」
「……ッ!? 」

 2人して息を呑むのが分かった。優美な見た目同様、優しく温和な光留が 辛辣なことを口走ったのだ。咲の目は、うっすらと涙が浮かび、里の前掛けを握りしめる指先は、微かに震えた。

「妾は、所詮使なのですよ。どんなに望んでも、になりません。咲さん、貴女が、子を産んでも正妻に子が出来れば……泰臣君は、運が良かっただけなのです」
「光留様、酷うございます!咲様、お泣きにならないで」

 咲の目から、堪えていた涙が ポロポロと落ちた。薄く開かれた唇に伝い流れ、細い顎先に辿り着いた玉雫は、初めて見る光留の指先に、そっと拭われた。

「光留様の仰る通りです。覚悟はしていたのに、実際に我が身に降りかかると辛く、耐え難い……ですが、私に選ぶ道などないのです」

 両頬を包む、暖かい手のひらに張りつめていた糸が途切れたのか、嗚咽を漏らす咲に、光留は「そうでしょうとも」と、頷いてみせた。

「落ち着いて。僕は羽倉崎さんではなく、咲さんの味方です。ただ、今話したことは事実なのです。正妻よりも愛情を受ける妾はいるでしょう。だが、所詮 それだけなのです。立場を約束された正妻とは違います。それに、いつ羽倉崎さんが、別の妾を持たれるかも分かりません……」

 光留は、側に置かれた黒盆を眺めた。5つの内、鼈甲は1つ。

「鼈甲にされますか?」
「嫌です」

 ハッキリと言いきった咲に、おっ――と目を見張った。儚げな印象の咲が見せた矜持を、ハッキリと感じることができたのは、涙を孕んだ双眸だ。

「咲さん、正妻を蹴落とすことは出来ませんが、それに近い地位を得ることは やり方次第で可能です」
「見当もつきません」

「教えましょうか」
「良いのですか?」

「咲さんが 羽倉崎さんではなく、僕の味方になってくれるなら」
「旦那様に不義理をせよと?」

「貴女の為でもあるのですよ」
「どういうことです?」

 身構えるのがわかったが、興味のある話でもあるようだ。咲も里も固唾を呑み、光留の返答を待っている。

「まずは、目先にあるものを排除しましょう。それが賢いやり方です」
「どういう……」

「羽倉崎さんと晃子さんの縁談を無かったことに」
「まあ!出来るのですか!」

 これには、里が食いついた。縁談が消えれば、とりあえず憂い事は、遠のくのだから当然ではある。

「やってみなければ分かりません……が、やらないよりはマシでしょう? 身重である咲さんや、使用人の里さんでは限りがありますので、僕に任せてください。ただし」
「ただし?」

「これから、3日間の羽倉崎さんの行動を教えて欲しいのです。前もって分かる予定なども含めて」
「3日間というと……鬼怒川?」

 2人が、顔を見合せたのに「そうです」と、頷いてみせた。

「分かりますよね? 出立されては、縁談は引き返せません。僕は、やる気ですが貴女達は? この秘密事を進める度胸はありますか?」

 我ながら、とんでもないことを言っていると思うが、咲達にとって悪い話ではない筈だ。光留は、あと一押しと継いだ。

「ご存知の通り 男爵夫人は、泰臣君の生母を恨んでいます。そこで、娘婿の妾がよりによって……となると、こちらにどのような危害を加えてくるか、分かりませんよ? 正直、羽倉崎さんが 咲さんを愛していても、優先させるのは晃子さんであると、もうご存知ですよね? 」

 咲が返答を返すのに、そんなに時は かからなかった。

「光留様、どの櫛が良いと思われますか?」

 これが答えだろう。他の男に選ばせるなど、旦那が知ったら どう思うか。共通の密か事――、光留は 妙々たる品を一瞥すると、呂色ろいろの飾り櫛を手に取った。

「光沢のある黒とは、上品で深みがある。それでいて螺鈿らでん細工が見事ですね。咲さんは、まだ お若く唐紅でも良いと思いますが、だからこそ逆に落ち着いた物が映える……ほら!里さん、ご覧なさい」
「まあ、まあ!本当に」

 秋陽に照らされる螺鈿の輝きを、渡された手鏡で2度、3度と角度を変え 確認する咲は、日本橋以来、初めて笑みを溢した。

 
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