紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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妻と妾

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 ◆◆◆◆◆


「お嬢様、こちらの帯締めは どうでしょう?深い緑が鮮やかで、とても品が良いと目利きも申しておりました」
「そうね……」

 晃子は 日本橋の呉服屋で、さほど興味がない品々を流し見ていた。お目当ての草履は、すぐに見つかったが、男爵家となれば 上客になる「あちらは?」「こちらは?」と、客あしらいに余念はない。
 少々、面倒だと嘆息を漏らしかけた――その時、晃子の目が一ヶ所で止まった。
 日も当たらないのに、キラキラと反射する鼈甲べっこうの櫛。乱れもなく並べられた他の櫛とは違い、桐の箱に納められていることから、良い品なのだろう。
 輝く黄蘗きはだ色が、よく見知る人の様にも思え、無意識に手が伸びた。もう少し――と なった時、突然、真横から伸びてきた白い手の甲とぶつかり、晃子の桜貝のような爪が、柔らかい皮膚を引っ掻いたのは、一瞬の出来事だった。同時に求めてしまったのだろう。

「申し訳ありません、お怪我は?」

 血の滲みは ないものの、無作法をしてしまったと、相手方の手を取ろうとしたが、横に立つ女は、慌てた様子で指先を胸に引くと「大丈夫でございます」と、頭を下げる。
 左手で包むように押さえた仕草が、大人しやかな雰囲気を醸しだす。仕立ての良い若草の羽織の下は、伊達締めが少し高めに巻かれていることから、女が身籠っているのが見てとれた。
 
「私が周りを見ておりませんでした。どうぞ」

 晃子は、鼈甲の櫛に指を沿わせ、女の方へ桐箱ごと滑らせた。気に入ったが、こればかりは仕方がない。

「いえ、しかし……」
「ご遠慮なさらず」

「でも……あ!」

 躊躇していた女は、何かを見つけたのか欣然きんぜんとした様子で、声までも跳ねたようだ。
「旦那様」そう漏らすと、握りしめていた右手を、遠慮ぎみに左右へ振った。ヒラヒラと揺れる袖に 織られた草花の図が、秋風に揺れているようで、とても風情がある。
 そう見えるのは、女の姿がほっそりとし、儚げであるからだろう。
 晃子を通り過ぎる女の視線は、おそらく言葉の意味のまま、旦那に向けられているはずだ。
 櫛は譲った。長居は無用――と、無言で横をすり抜ける。本来ならば 名も知らぬまま、二度とまみえることは、無かっただろう。
 通りに面した店先には、比較的求めやすい品々が並んで、冷やかしも兼ねているのか、大変な賑わいなのだが、元々は敷居が高い店の為、良い品々は奥に並べられている。必然的に、奥まった方は客の数もまばらだった。
 当然ながら、男爵家の令嬢である晃子が求める物が、店先にあるわけがない。
 静寂な空間に、旦那のものと思われる声が漂った。

斎肌帯いはだおびとは、紅白揃えるのですね、知りませんでした」
「殿方は、ご存じない方もおられるかもしれません」

 状況的に、女の旦那と店の者だろう。
 斎肌帯とは、着帯の儀式で使う物だ。旦那が、手配していた物を受け取りに来たという様子だが、背越しに聞こえた声は 聞き慣れたものだった。
 低く、落ち着き払う声音に晃子は、ゆっくり振り返った。今しがた通り抜けた女の背に、見え隠れするのは 番頭と男。
 鉄紺てつこんの着流しに、媚茶こびちゃの羽織を身につけた男は、かなりの長身だ。帽子を被り 横を向いている為、顔がよく見えないが、確信はあった。

「……羽倉崎さん?」

 名を呼ばれた男は、正面を向いた。2拍程の間があっただろうか、男はニッコリと微笑む。

「おや、お珍しい。何をお求めで?」
「……貴方は、何を?」

 羽倉崎は歩みを進めると、晃子には 答えず、女に「どうしましたか?」と尋ねる。

「お、お嬢様……」
「待ちましょう」

 供の女中は、良からぬことと察したのか、オロオロと落ち着かないが、事情を察することが出来ないのは、店の者と女だけのようだ。

「先程、お互いに鼈甲の櫛に手を伸ばしてしまいまして、お譲り頂ただいたのです」
「それは、それは……しかし、櫛は こちらの方へ」

「え……?」
「貴女には、他の物を身繕いましょう」

 思わぬことだったのだろう。羽倉崎の返答に女は、目をしばたたかせたが、コクリと小さく頷いてみせると、晃子へ視線を向けた。
 それが疑念を発しているように見え、不愉快極まりない。

「番頭さん、鼈甲櫛を あちらへ」
「結構です、それはお譲り致しました。それでは失礼」

「お待ちください、ご紹介いたします」

 紹介されなくても察する状況に、何を話すというのだろうか? 晃子の足は、踵を返すのを止めた。落ち着き払う声は、普段と変わらない。不味い所を見られたという素振りもなければ、少しの動揺もみられなかった。

「こちら、咲と申します。咲、こちら尾井坂晃子様、貴女の女主人となられる方です」
「「 えッ!! 」」

 店の者まで、一斉に声を揃えた。本妻と妾の構図だ。晃子は、思わぬ恥をかかされたと合わせる指先が震えるのを、必死に押さえつけ、深く呼吸を整えた。

「鼈甲の櫛 同様、そちら様に差し上げます」
「晃子さん――」

 羽倉崎は、何かを言いかけたが背を向けた晃子に、それ以上 言葉を継ぐことはなかった。颯爽と出口へ向かう晃子は、何事も無かったかのようだ。店主と番頭は 顔を見合せるが、残された羽倉崎までもが、何事もなかったかのように静かに言う。

「構わないから、鼈甲櫛もお代に含めて下さい」
「は、はい!」

「咲さん、櫛はどれが良いですか?」
「いえ、櫛はいりません」

「似た物を探させますか?」
「いりません」

「そうですか、それでは帰りましょう」

 羽倉崎の視線は、遠ざかる背を追っており、微かに震えた咲の唇に、気付くことはなかった。
 その頃、晃子の脳裏には、母の姿が過っていた。妾の元へ向かう父の馬車を、能面のような顔で見送る母の毅然とした背が、微かに震えていたのは、長崎から赤子を連れて来たという妾が、東京へ着いた日だった。
 跡取りである男子が欲しいと、神にも仏にも願った母には、子が宿ることはなかった。
 晃子は、グッと唇を噛み締め、顔を上げる。
「お逢いしたい」
「どちら様にでしょうか?」

「宮内省へ行きたいわ」

 秋風に流れる雲の波を眺め、噛み締めた唇から漏れでた言葉は、不覚にも掠れていた。
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