紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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反転

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 ◆◆◆◆◆

 良案が浮かばない。いくら寝ても、不味いことには変わりない。虫の音に耳を傾けながら、膝に抱く愛猫の背を優しく撫で、光留は如何ともし難い溜め息をつく。あの日から 3日――。
 幼い頃から、家に居着かない男爵は、あちらこちらに妾を囲っていたという。只でさえ、心穏やかではない夫人の様子は、晃子の幼心に不安を植え付けたのだろう。
 疑っている訳ではない。安心したいだけだと晃子は言った。本来なら天にも昇る気持ちだろう、愛の告白にも似たものだ。
 否、告白だと思う――が、光留には 御安い御用と安請け合いできない理由があった。
 問題は、瀬戸物町の妾だ。十中八九、羽倉崎の所のさきのことであろう。つまり、そこに晃子を伴えば、羽倉崎の耳に入るのは時間の問題だ。
 元々、咲と 身の回りの世話役であるさとは、泰臣の生母に仕えていた。当人である里が言ったのだから、間違いはない。
 咲は、泰臣の従妹にあたり、泰臣の母が亡くなった後は、2人して暮らしていたが尾井坂男爵夫人によって追い出されたと。
 手を差しのべた羽倉崎が、初めから咲に目をつけていたのかまでは分からないが、結果的に咲は、羽倉崎の妾であり、孕んでいるのは間違いない。
 そんな関係の者達が、お互いの正体を知ったらどうなるか? もしかしたら、2人は晃子を見知っている可能性もあるのだ。
 光留が、身分を偽って同行させても見破られ、下手したら羽倉崎に言いつけることさえ、あり得る上に、考えようによっては正妻に収まる晃子を苦しめる為に、妾奉公をしている可能性だって否定できない。
 正直、羽倉崎に言いつけられ、晃子を想っていることが露見するだけなら、まだいい。少々、動きにくくなるだけだ。厄介なのは、それによって羽倉崎が、強硬な手段に出てきた場合だ。晃子を手込めにでもされたらと思うと、ゾッとする。既成事実で押しきられては、宮内省も許可を出すしかないだろう。そんなことになっては、死んでも死にきれない。

 ―― 晃子さんに、咲さんのことを話すか?

 フッと過った 1つの案を、ダメだ――と直ぐ様、振り払った。晃子の性格からして羽倉崎を問い詰めるだろう。悋気などではなく、今まで散々、譲れないと言っていた妾をすでに囲っていたことへの怒りから、相当強く非難するはずだ。そうなると、出所もすぐに勘づかれるだろうし、暴露された理由をどう受けとるかも未知数だ。

「さて、どうしたものか……アキさん、ちょっとあちらへ」

 指貫袴さしぬきはかまの裾緒にジャレ始めた愛猫をかわし、立ち上がると、文机に無造作に置かれた紙を指で掬い上げた。留め、ハネを意識した堂々とした筆だ。少々、元気がありすぎる感があるが。
 以前、好きな文字を書いて提出するようにと、駒子にお題を出していたものだが、何度見ても光留は目をすがめてしまう。贅沢は言わない、泰臣の『や』でも入っていれば、まだ良かったが。

「米……って、いくらなんでも……」

 ただ、そんな駒子が魅力的だと光留は思う。気取ることもなく、好き放題に見えるのが何とも羨ましいと。

 ―― 悩ましいことを抱えている時に、あの人に会えば気晴らしになりそうだなぁ。

 何の気なしに思い付いた考えが、再度 事の重大さを思い起こさせ、秋の夜長が身に染みると うなだれた。



 ◆◆◆◆◆


 瀬戸物町の大通りから、辻を入った所に羽倉崎の妾宅はあった。奥まっているからと云って、人気のない寂れた場所でもなく、道幅も俥がすれ違う位の広さはあった。
 名の通り、焼き物を始め、水菓子や線香など多彩な品物を取り扱う、云わば商人の町であり、家屋の佇まいから路肩に並べられた玄蕃桶げんばおけひとつとって見ても、こざっぱりとした生活の良さが伺えた。
 光留は、そのうちの一軒を覗く。切り揃えられた垣根から庭先を一望すると、たすき掛けをした女が、斧を振り下ろしていた。
 ガコン――、
 間をおいて又、ガコン――
 と、鈍い音が鳴る。

「里さん!」

 光留は、薪を割る女に声をかけた。姉さん被りの女は、拳で額の汗を拭うと

「光留様ではありませんか!」

 意外だったのだろう。慌てて被りを掴み下ろし、後れ毛も気にせずに頭を下げた。

「女で薪割りなど、大変でしょう? 下男はいないのですか?」

 光留は、足元に転がる薪を一瞥すると、明るい声をハキと響かせ、颯爽と足を踏み入れる。それとなく見渡す先には、里以外の人の気配はない。咲は、いないようだ。

「ええ、力仕事の時だけ、頼むようにしているのですよ」
「薪割りは、力仕事ではないのですか?」

「薪は、普段買っておりますので」
「成る程、では何故、今日は買わないのです?」

「いつもは、旦那様が手配をされるのですが、昨日からお忙しくて。とりあえず今日だけは、私が」

 そうは言っても、くたびれたようで、ハァハァと、肩で息をする始末。
「貸してください」光留は、斧に手を伸ばす。慌てたのは、里だ。

「旦那様に叱られてしまいます!」
「黙っていればバレません」

「なりません!」
「頑固ですね。僕を、女性に薪を割らせて自分は、横で眺めてるような情けない男にする気ですか? 僕のことを思うのならば、お貸しなさい」

 返事なんて聞く気もない光留は、斧を掴み取ると、薪割り台に薪を置く。振り上げた斧は、一刀両断で真っ二つに割いた。

「薪割りをされるのですか?」

 心地よい響きに里は、感心する。

「まさか!……それより羽倉崎さんは、お忙しいのですか?先日、お会いしましたが何も仰られてなかった」
「あら、光留様は旦那様と?」

「ええ、お食事をともに……」

 ガコンッ――と、鳴る音に紛らせ、里の表情を盗み見ると、ある種の安堵のような緩みが見て取れた。主と面識がある、ないとでは、心許す度合いも違うだろう。

「旦那様は、5日後 鬼怒川温泉へお出掛けになられます。それのご準備で、咲様と日本橋の方へ」
「鬼怒川へ?咲さんを連れては、無理がありませんか?」

 可笑しな計画に、薪割り台に刺さった斧は、そのままに振り返った。当然の疑問だと思ったのだろう、たすきを解きながら、クスリと笑う里は、何処か自嘲気味に見えた。

「お茶をお入れしましょう。こちらへどうぞ。……お連れになるのは、咲様ではございません。許嫁様でございます」

 縁側へ招く、里の猫背気味の背を凝視した。漏れ聞こえた言葉は、耳を凪ぐ、風の音かと疑う程、微かなものであったが言葉の意味は、恐ろしいものであった。
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