紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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疑惑

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 尾井坂男爵邸は、焦げ茶を基調とした本館と奥にある別館に分かれていた。客人を迎え入れる本館が、贅を凝らした造りになっており、居住となる別館は、使い慣れた和建築だ。
 光留は、普段本館の表玄関から招き入れられ、応接室で泰臣や晃子と会っていたのだが、今は別館の一室に通されていた。
 
「泰臣君から、部屋で待つように言われたのでお伺いしました」

 窓辺に寄り、夫人らに挨拶をすると晃子にそう伝える。峯一郎が同席していると云うことは、込み入った話かもしれない。そこへ部外者が立ち入ることは、さすがに無作法だと でまかせを口にしたのだが、通されたのは泰臣の部屋ではなく、別館の居間だった。
 さすがに、本人不在では通してくれないようだ。しかし、そんなことよりも今、光留が悩ましげに見つめているのは、向かい合う晃子の白い顔。

「あの……滝沢夫人の方は、よろしいので?」
「ええ」

 先に通された光留は、暫くは1人待たされることを想定していたのだが、お茶が出されるのと同時に晃子が部屋へ入ってきた。おそらく応接室から、すぐに追ってきたのだろうが、嬉しくて光留を追いかけてきたとは、到底思えない顔つきだ。

「あまり浮かない顔つきに見えますが、何かありましたか?」
「ええ、思いもよらないお話を聞きました」

 やはり、縁談だったのか? と 疑念を抱き、同時に、峯一郎の情報を脳内で手繰り寄せる。年は、22歳。滝沢家は、旗本の出になるが現在は大名華族だ。
 1万石以上が大名で、それ以下が旗本と分かれていた為、江戸の頃は旗本だったのだが御一新後、実は石高が1万石あったと言い出した。
 嘘か実か、ギリギリの一万石大名になると参勤交代やら、大名の威厳を保つ為に金が掛かり、検地をやっても9000石と申請してみたりする輩もいたと云う。滝沢家も貧しい大名家よりも、大身旗本の方が良かったのだろう。検地を誤魔化していたのか分からないが、明治政府へ申請したのは検地をやったら1万石あったという内容で、大名華族として男爵となった経緯があった。
 峯一郎本人と、光留は年が違う為、接点がないのだが、学習院に在籍していた頃、からかわれる所に現れては、苛めてくる学友を嗜めてくれることが多々あり、顔と名前が一致する程度だ。
 近衛の話によると、男気溢れる人物で暇を見つけては、下町の年寄りの相手をしたり、物の修繕などを手伝ったりするような人だという。

「手先が器用で、縫い物などもチョチョイとやりますよ。あと土いじりが好きで農商務省のうしょうむしょうに出仕しているはずです」

 欧州視察の頃、近衛が教えてくれた。

 ―― 農商務省……商売に関係あるといえば、あるな。

「ああ、僕は優秀な蚊遣り火かやりびを自負しておりますが、貴女の魅力に虫の数が多過ぎて難儀しております。虫の生態から頭に入れる必要があるのですから」

 晃子の手を取ってみるが、いつもの困ったような笑みが浮かばない。引き結ばれた花弁は、そのままに物言いたげに向けられる星を散りばめた双眸が、ジッと褐色の瞳を見つめていた。何やら雲行きが怪しそうだと思いつつも、微笑んでみせるが、結果は同じだ。

「どんなお話を?」
「蚊遣り火にもなれない私自身が、情けない思いをしています」

「ん?どういうことです? 僕にそのような物、必要ありません。ずっと一匹の蝶を追い求めているのですから」
「男爵夫人が仰っていました」

「何をです?」

 意味がわからないと言う光留に、躊躇いがちな晃子の声が、ポツリポツリと成り行きを語った。

 光留が夫人らに挨拶をし、別館へ向かった後だという。
「まあ、まあ、欧州からお帰りになられたと聞いておりましたが、ご立派で」と。
 一通り、官一行の話だったのだが、フッと滝沢夫人が声を落とした。
「そういえば、先日瀬戸物町でお見かけしましたわ」
 夫人の知り合いが、瀬戸物町に住んでいるというのだが、そこで光留を見かけたと。
「新聞にも帰国とありましたので、お声をお掛けしようと思いましたのよ。そしたら、知人が慌てて止めるのです」


 晃子は、夫人の語りを止めると眼差し強く、光留を見つめた。

「あそこは、お妾奉公のお宅だから、むやみに旦那様にお声をかけてはならないと……」
「馬鹿なッ!! 」

 とんでもない言いがかりに、脳天から叩きつけられたような衝撃に目眩がしてくるが、焦る光留とは真逆に、晃子の白い面は感情を表さない。

「瀬戸物町、お心当たりは?」
「いやいや、お待ち下さい。確かに瀬戸物町へは参りましたが、あれは難儀していた所を助けて頂いた日と、その御礼に伺った2度だけです!」

「ええ、滝沢様……夫人のご子息も、何かの間違いでは?と仰いました」
「そうですか……」

 さすが、峯一郎だと内心、ホッとしたが当然ながら、夫人は引かなかったらしい。しかし、本人不在では、真相など分かりようがないことから「まあ、まあ、これでは私が嘘を申したようで」と、ご機嫌を損ねてしまった。
 場に居合わせた者達は、苦笑いを浮かべるしかなく、仕方がないと峯一郎が 助け船を出し、その場は収まったという。
「母上様が、嘘を申したとかではなく、お知り合いの勘違いかもしれないということですよ。どうしてもと仰るなら、私がそのお宅へ出向いて、それとなく旦那様のお話を伺ってきてもよろしい」と。


「こうして、その場は収まったのです」
「良かったです。変な濡れ衣を着せられるところでした。それでは、もうよろしいでしょう?笑ってください」

 光留は微笑んでみせるが、まだ気になることがあるのか? 晃子は、首を振る。

「まだ何か? 憂い事なら吐き出してください。すべて僕が消して差し上げます」
「ええ、光留様。私は、本当に嫌なのです。母の苦悩も知っておりますし、同じ目に合いたくないのです」

「存じております」
「しつこいと、嫌な疑り深い女と思われるかもしれません」

「まさか! そのようなことありません」
「光留様、瀬戸物町のお宅に私をお連れください」

「……え??」

 秋つ方、澄み渡る天に流れる雲の波が、ピタリと止まった錯覚を覚えた。
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