紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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藤袴

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 ◆◆◆◆◆

 別れ際 尋ねた羽倉崎の予定は、夕刻から伊勢町での会合。時間もそこまでないことから瀬戸物町で時間を潰すと思われた。もしかしたら、今宵は妾宅で過ごすのかもしれない――と、なると光留の行き先は決まった。

「そこの正門前で止めて」
「へぇ!」

 人様の敷地に、車夫といえども招き入れるきっかけを与えることは、よろしくないと男爵邸の前で俥を止めさせ、ブラブラと歩く。手入れの行き届いた木々は、白秋迫る季節を思わせることもなく、まだまだ緑豊かな色彩を放っていた。
 昨年の今頃は、英国で日々が過ぎるのを指折り数えていたことを思うと、今、男爵邸に足を踏み入れていることが夢のようだ。
 そんなことを考える光留の耳に、甲高い笑い声が響き、幸せの余韻が割かれる。
 男爵夫人のものでも、晃子のものでもない。誰だ?と、興味が向くのは当然だ。巡らせた視線に、見慣れない一頭立て。微かに眉を寄せた。視線は探るものに変わり、そのまま玄関に1番近い応接室へ吸い寄せられたのは、成り行きだ。
 過ごしやすい季節であり、昼間であることから応接室の窓は、両手を広げるように目一杯に開け放たれ、絹地のレースはヒラヒラと はためく。窓辺にある円卓に座り、機嫌良く 指先を頬にあてがっているのは、鹿鳴館で駒子の介添人として、顔を会わせた滝沢男爵夫人。
 あの時は、降り注ぐシャンデリアの灯りに見慣れない洋装ということもあり、華やかな印象であったが、今、焦げ茶の壁に絵画のように見えるのは、黒の羽織を身につけ、キリッと髪を巻き上げた姿。

 ―― ああ、丁度いい。鹿鳴館のお礼を申し上げよう。

 ついでとばかりに あの輪に入り、晃子の生母に挨拶しておくのも悪くないと、一歩踏み出した――その時、室内に他の人物がチラリと見え、慌てて庭のアーチに身を屈める。暇をもて余した夫人達が、茶会でも開いていると思いきゃ、見えたのは 黒のフロックコートに短髪の男。
 泰臣のわけはない。尾井坂男爵は、白髪混じりの為、窓枠の向こうの男と合致しない。滝沢男爵は、髪の毛がないから話にならない。

 ―― 誰だ? 

 中腰になり覗くが、よく見えない。腰から上 しかも、後ろ姿となると情報は限られている。黒のフロックコートと短髪、何処にでもいる。背は低いように見える。何故なら向かい合う、もう1人の人物と変わらないからだ。

「あ~あ、何故、貴女は笑っているのです?」

 淡い紫紅色の小さな花弁が、パッと散るように開く藤袴の根元に身を屈め、覗く褐色の瞳には、男に微笑む 晃子の白い顔が映った。こそ泥のように地面に手を突き、室内を覗く。

「まるで若紫を垣間見る、光源氏みたいですね、光留様」
「光栄です……って!ヨネさん!! いつから!?」

「ずっとおりましたよ」
「教えてくださいよ……」

 光留は、立ち上がり膝を払った。
 ヨネは、古くから男爵家に仕える女中頭のような者だが、最近は 寄る年波もあり、もっぱら泰臣の身の回りの世話をやいているらしいが、今は庭の手入れか? 側には、雑草が山と積まれていた。

「あれは誰です?」
「滝沢男爵夫人とご子息と聞いております」

峯一郎みねいちろう君? 」

 物陰からもう一度、視線を向けた。互いの母親が揃い、適齢期を迎えた男女が笑い合う――。見ようによっては、見合いのようだが羽倉崎の存在があるので、それは考えられない。峯一郎は、光留より3つ程 年上になる。つまり、晃子より2つ上。

「 学習院以来だけど、ずいぶん色黒になられて……」

 遠目でも分かるのは、真っ黒に日焼けした顔。笑うと対照的な歯の白さが、さらに肌の黒さを際立たせた。
 ヨネは、雑草を刈る手をピタリと止めると、無遠慮な視線を光留の全身に這わせる。物言いたげな目だ。

「何です? ご婦人に見つめられると勘違いしてしまいますよ?」

 わざとすがめ、見下ろしてみるが艶めいた言葉は、初老の女には 通用しないようだ。笑うでもなく、返答を返すわけでもない。ヨネは 鎌を軽く振り上げ、勢いをつけると掘り返した地面へ突き刺した。

「光留様は、何故あの方をご存知なのです?ご学友でもありませんのに……」

 声音に含まれるのは、疑い。
 何でも知っている風の光留が、男爵家の内情を嗅ぎ回ってる――などと、泰臣に吹き込まれたのだろう。多少違うかもしれないが、泰臣の留守中、晃子を訪ねかねない光留を牽制する為に、愚痴を漏らしている可能性は高い。やっかいな小舅だ。光留は 溜め息をつき、ヨネの目の前にストン!と しゃがみ込んだ。

「峯一郎君は、僕に良くしてくれたのです。あの時分は、髪の色をからかわれていた頃でしたので、印象に残っています。あの人の学友が、近衛さんでしてね。ふと思い出して経緯を話したことがあるのですが、面倒見の良い人らしくて……僕を、不憫に思われたのかもしれませんね」

 光留は、ニッと唇を引き上げると立ち上がり、焦げ茶の額縁の中にある絵画を眺めた。それは動く、美しい令嬢の肖像ともいえる。薄く笑みを浮かべる表情は、貼り付いた面のようで退屈そうな瞳が、窮屈な空間を破る切っ掛けを探すように漂い、額縁からこちらを射ぬいた。

「肖像画は、不機嫌にはなりません。微笑む人と ずっと見つめ合える、とても幸せな気分になるでしょう。しかし、10に1つでも あのような莞爾の微笑みを溢されたら、途方もない快楽を味わった気になれます。どうです?ヨネさん、あの顔、僕に向けられているんですよ?」
「あれは……、退屈な席から抜け出せるという安堵からきたものでは?」

「もう! 少しくらい、自惚れさせてください」

 言葉では肯定してみせるが、ほころぶ微笑は ヨネの意見を全否定する。晃子が笑うことが珍しいというのは、誰よりも男爵家の人間が知っているはずだ。

「光留様……ヨネは、泰臣様も、光留様も好きでございますよ。あまり波風をおたてになられないように。晃子様は、羽倉崎さんの奥様になられるのです」
「……聞こえません」

「良いご令嬢は、他にもおられましょうに」
「ヨネさん。先程、源氏の話をされましたが、知っています?若紫を覗き見た源氏は、手に摘み――と、詠みますが これは若紫を手にしたいという意味ではないのです。少女の面影に初恋の人を見たのです。初恋の人に若紫を手にしたいと。僕の想い人は、人妻ではありません。摘みたいと願っても良いではないですか」

「ダメです」
「……石頭!」

 光留は 間髪いれず返したヨネに、プッ!と吹き出すと、足元に咲く藤袴を手折り白髪混じりの髪に差した。

「同じ野の露にやつるる藤袴あはれはかけよかことばかりも……。僕は、恋やつれで とても苦しい思いをしています。どうか哀れと思ってください」
「……」

「……ヨネさん、お顔が赤いですよ」
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