紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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可愛い人

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「ご無沙汰しておりました」

 光留は、花台に置かれた白磁の一輪挿しで足を止めると、そう口にする。真っ直ぐ向かう視線は、椿紋様。晃子も、赤い花弁に頷いてみせた。もし、誰かが偶然にも通りかかり2人を目にしたとしても、一輪挿しについて話し込んでいると思われるだろう。

「駒子さんへ お伝えください。あの画風にキンキラの額はいけませんと。悪趣味です」
「申し訳ありません、おそらく派手なものを選んだのでしょう」

 派手な物を良しとする尾井坂家では、誰も不思議と思わなかったのだろうが、大名華族の光留からしてみれば、全くそぐわない物だったのだろう。そして正しい感覚が、光留の方だと分かる晃子は、恥ずかしいと下を向いた――が、当の光留は、全く気にしていないようだ。耳朶じだを撫でる声は、いつもと変わらない。

「しかし、晃子さんと2人になる口実が出来たのだから、僕としては嬉しい限りで」

 本来、晃子へ向けられるべき恋慕あらわな笑みは、一輪挿しに向けられ 伸ばされた指先は、薄桃色の花弁に触れる。

「Ophelia……」
「ええ、育ててみると欲が出まして、光留様にお持ちするものは、もっと美しいものが良いと考えると、あれでもない、これでもないと……」

「僕は、晃子さんが お持ちになられるのならば、道端の雑草でも喜んでお受けするのに」

 折られた棘を眺め、一輪挿しから引き抜くと、丁寧にハンカチーフで包む。水滴を床に落とさない為だろう。

「西洋では、花に合わせた言葉がありましてね、最近流行っているのをご存知ですか?」
「そういえば、駒子さんが仰っていたような……近衛様が教えてくださったと」

「あの人、なかなか頑張りましたね……」

 おそらく、強烈なインパクトの駒子に対し 泰臣は、話題を振ることが出来なかったのだろう。近衛は、女学生が興味を持つような花言葉を話題にしたと思われた。さすが、帝大の法科を出ているだけあって機転を利かせた口先は、お得意のようだ――と、近衛が聞けば 心外だと、不服を漏らすであろう感想を持った。

「桃色の薔薇は、花開かんとする風情ある女……と、訳されたとか」
「これから美しく花開く……という意味でしょうか?」

 光留は、目の高さまでOpheliaを引き上げると、まじまじと見つめ「ご覧下さい」と向かい合う形で、互いの間に花弁を掲げた。

「僕は、よく分かりませんが十分、美しいと思います。どうでしょう?」

 目の前に差し出された桃色の花弁に、頷き返し「私もそのように思います」と答える。柔らかく揺れる褐色の眼差しは、淡い桃色へ向けられているのか、それとも気高い花弁を通りすぎ晃子へ向けられているのか、判別が付かないが、花を介し、微笑む唇が「ええ、とても美しい」と、小さく呟くのを晃子は、聞いた。

「花開かんとする風情ある女……おそらく、乙女というような意味合いではないかと。乙女のような可愛らしい人……このような感じではないでしょうか。ああ、晃子さん、お見送りは、ここまでで」
「しかし……」

「少し時間が経ってしまいました。見送りにしては、何を話し込んでいたのですか?と、ご婚約者が変に思われます」
「光留様は、あのようなことを仰ったのに、羽倉崎さんの顔色を見られるのですか?」

「不服ですか?」
「少々」

「これは、至極当然のことなのです。僕は、確かに鹿鳴館で全てをお伝えしました。しかし、これは世間様で云うなれば、思いの丈を述べたに過ぎません。晃子さんに、ご婚約者がいらっしゃる事実は変わりなく。それなのに長々とお引き留めするのは、如何なものか。ねぇ? 、そう思いませんか?」

 光留の顔には、何処と無く 試すような笑みが浮かび、伸ばされた指先が椿の髪飾りに、淡い桃色の花弁を重ねた。



 ◆◆◆◆◆


 ガラガラと鳴る車輪の音が、遠ざかるのを晃子は、そっと窓辺から見送った。
 鹿鳴館の夜会で語られた、欧州視察の顛末は、驚くべき内容で正直、今でも信じ難いものなのだが、それが事実であるか? など、他の者に尋ねる訳にもいかなかった。
 しかし、光留が 嘘をつく理由もなく、本当なのだろう――と、いうのが晃子の率直な考えだ。
 暗がりで、想いを告げる光留は、鹿と自分を称した。先様に、恥をかかせる訳には いかなかった――とも。
 煌々と浮かぶ、躊躇いがちな瞳に映る姿は 、周りの令嬢と比べ、遜色ないだろうか?と、今まで過ったことがない不安が、ソワソワと身の置き所をなくし、又、そのようなことを考えてしまうことが、余計に恥ずかしく消え入ってしまいたいと思ったのは、記憶に新しい。悟られぬように、懸命に平常を保つ素振りの晃子の心情など、あの時の光留は 知るよしもなかっただろう。ポツポツと、1年前の出来事を語りだした。
 宮家との縁談が持ち上がり、断れるような状況でもなかったと。
 想いが、変化するのが当然としても、それが当てはまらなかった。変わることがなかったと。これ程、愚かな感情はないと言った光留が、どんな思いだったのかは想像に難くない。馬鹿な従五位は、賭けにでたという。
 1年、欧州へ出ること。その上で晃子が結婚していなかったら、心を尽くして想いを告げると。
 おそらく、晃子が「いけません」と言えば、長年の呪縛にも似た恋に、光留は 終止符を打たざるを得ないだろう。しかし「いけません」の、たった一言を口にすることが出来なかった。

 ―― 今、私は どんな顔をしているのかしら?

 晃子は、真っ直ぐに見つめてくる双眸に自分の姿を探したが、闇に散らばる光の中に見つけることが出来なかった。
 暗くて良かったのかもしれない。これが鹿鳴館のシャンデリアの下だったら――、もし、明るく浮かび上がるバルコニーだったらと思うと、火照る頬が さらに熱をもつ。
 しかし、晃子は答えたくても返答をすることが出来なかった。軽々しく了承しても、親が決めた相手がいるのだから、どうなるものでもない。躊躇する晃子へ、光留は告げた。

「話にならないと思われるなら、扇子をお離しください。憐れみなどいりません。ただ、僕をお嫌いでなかったら、一言仰ってください」

 握り合う扇子に、力が籠るのを感じ、切々と訴える声音は、円舞曲に混ざり合い、溶けるように囁かれた。

「すべて、仰せのままに――と」

 
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