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奏任官の名
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◆◆◆◆◆
「あれは、いつでしたか……そうそう!瀬戸物市が開かれていた時分でございますよ、旦那様」
江戸切子の涼しげな徳利を傾ける里は、主人にそう答え、以前 俥が泥濘に はまり難儀していた客だと告げるのだが、聞いた本人は、ぼんやりと煽り飲んだお猪口を眺めていた。
底に残る一滴は、切子の色に染まり、まるでツユクサにのる朝露のようだ。
羽倉崎は「それで?」と、先を促した。
里が語っているのは、光留と名乗った若者の話であり、羽倉崎の知る奏任官の田中だった。
光留とバッタリ出くわした日に一通り、咲から話は聞いていたのだが、より詳しく知るには同席していた里にも、聞く必要があると考えるのは、何事にも細かい性分故だ。
「それで……と申されても、それだけでございますよ?30分程で車夫が、別の俥を呼んで参りましたので」
「家のことなど話していなかったか?どこの省に勤めているとか」
里は勢いよく首を振ると、チラリと後方を見渡した。咲は風呂を使っている為、叫ばない限り、聞こえようがないのだが。
「俥を待たれていた日は、名乗られませんでした」
「世話になったのに?」
そういえば、清浦に同行していた時も、山寺に尋ねられるまで一切、口を開かなかったことを思い出した。偶然を装った席だったが、普通ならば山寺が名乗った時に、紹介があっても良さそうなものだ。
「はい。先日参られた時に名乗られましたが、あれはコチラの名を尋ねたからでしょう。それがなければ、名乗られなかったと思います」
「成る程、で?あの人は、どんな話をしていた?」
「えぇ……っと、そうですねぇ。特に変わったことはありませんが、瀬戸物市に行ってみたかったとか」
「あの人が、瀬戸物市に?」
「ええ、壺でもと仰られて。そうそう!白磁の一輪挿しをお気に召したのか、ジッと眺めておられました」
「……陶芸にでも興味があるのだろうか? それなら、その線で誘いをかけてみようか……」
「いえいえ、おそらく咲様がお目当てと思われますので、もう見えられないかと」
「馬鹿なことを……」
吐き捨てる羽倉崎に、里は微かに鼻を鳴らし笑った。
「旦那様。光留様は、咲様にこう仰いました。貴女は、朝顔のようだと」
「それがどうしたと?」
「女を花に例えるなど、それは他の感情を伴っていると思われませんか?里は、間近で見ておりましたが、そう思いましたし……又、可愛らしいとも仰いました」
「……」
「しかし、咲様が 身重と知られましたので次は、ないでしょう」
里は、尾井坂男爵家との繋がりなどを話したことは、口にしなかった。下手に話して叱責されては堪ったものではない。しかし、光留が、咲に恋慕の情を抱いていそうだということは、耳に入れておかねば後々、何故言わなかったとコレ又、叱責の対象になりうる。
「俄には信じられないが……、まあいい。あの人の名が、分かっただけでも」
時間は、かかるかも知れないが調べれば、何処の省か分かるだろう。夕陽に透かし切子を覗く、ツユクサの青と茜が合わさり、浮かび上がる紫がかった魚子紋は、キラキラと目映い影を、羽倉崎の静かな面に落とした。
「子孫繁栄……山寺さんも、粋な贈り物を下さったものだ」
「そうでございますね。咲様は、お身内が居られないから、本当に嬉しそうで」
魚の卵を連想するような魚子紋は、古来より子孫繁栄の目出度い模様とされている。山寺も里も、咲に宿る子を思ったのだろうが、ツユクサ色の切子を眺める男は、別のことを考えていた。
「今宵の夜会は、どういうつもりでご参加されたのか……」
宮内省からの要請だと言っていたが、断れない訳がないことは羽倉崎でも分かる。
普段の晃子ならば、泰臣と同席することになる夜会など、けんもほろろ――の筈が2つ返事で引き受けたらしい。こうなれば、行かなくても良いのでは?と、正当な理由を述べない羽倉崎の言い分など、晃子が聞き入れる訳もない。
だからと「行かないで欲しい」など、女々しい言葉で引き留めたくもないと、結局「好きになさい」と送り出してしまった。
大宮伯爵家へ、願い出た形の泰臣の婚約であるのだから、男爵家で揃い出席するのは当然であると無理矢理、理解しようとはするが、やはり華族の令息が揃う夜会に出向くことは、いい気がしない。
「変な虫が、ブンブンたかりそうだ」
羽倉崎の不機嫌な呟きに、里は何を勘違いしたのか「あらあら、大変」などと言い、大急ぎで戸棚に走った。
「あれは、いつでしたか……そうそう!瀬戸物市が開かれていた時分でございますよ、旦那様」
江戸切子の涼しげな徳利を傾ける里は、主人にそう答え、以前 俥が泥濘に はまり難儀していた客だと告げるのだが、聞いた本人は、ぼんやりと煽り飲んだお猪口を眺めていた。
底に残る一滴は、切子の色に染まり、まるでツユクサにのる朝露のようだ。
羽倉崎は「それで?」と、先を促した。
里が語っているのは、光留と名乗った若者の話であり、羽倉崎の知る奏任官の田中だった。
光留とバッタリ出くわした日に一通り、咲から話は聞いていたのだが、より詳しく知るには同席していた里にも、聞く必要があると考えるのは、何事にも細かい性分故だ。
「それで……と申されても、それだけでございますよ?30分程で車夫が、別の俥を呼んで参りましたので」
「家のことなど話していなかったか?どこの省に勤めているとか」
里は勢いよく首を振ると、チラリと後方を見渡した。咲は風呂を使っている為、叫ばない限り、聞こえようがないのだが。
「俥を待たれていた日は、名乗られませんでした」
「世話になったのに?」
そういえば、清浦に同行していた時も、山寺に尋ねられるまで一切、口を開かなかったことを思い出した。偶然を装った席だったが、普通ならば山寺が名乗った時に、紹介があっても良さそうなものだ。
「はい。先日参られた時に名乗られましたが、あれはコチラの名を尋ねたからでしょう。それがなければ、名乗られなかったと思います」
「成る程、で?あの人は、どんな話をしていた?」
「えぇ……っと、そうですねぇ。特に変わったことはありませんが、瀬戸物市に行ってみたかったとか」
「あの人が、瀬戸物市に?」
「ええ、壺でもと仰られて。そうそう!白磁の一輪挿しをお気に召したのか、ジッと眺めておられました」
「……陶芸にでも興味があるのだろうか? それなら、その線で誘いをかけてみようか……」
「いえいえ、おそらく咲様がお目当てと思われますので、もう見えられないかと」
「馬鹿なことを……」
吐き捨てる羽倉崎に、里は微かに鼻を鳴らし笑った。
「旦那様。光留様は、咲様にこう仰いました。貴女は、朝顔のようだと」
「それがどうしたと?」
「女を花に例えるなど、それは他の感情を伴っていると思われませんか?里は、間近で見ておりましたが、そう思いましたし……又、可愛らしいとも仰いました」
「……」
「しかし、咲様が 身重と知られましたので次は、ないでしょう」
里は、尾井坂男爵家との繋がりなどを話したことは、口にしなかった。下手に話して叱責されては堪ったものではない。しかし、光留が、咲に恋慕の情を抱いていそうだということは、耳に入れておかねば後々、何故言わなかったとコレ又、叱責の対象になりうる。
「俄には信じられないが……、まあいい。あの人の名が、分かっただけでも」
時間は、かかるかも知れないが調べれば、何処の省か分かるだろう。夕陽に透かし切子を覗く、ツユクサの青と茜が合わさり、浮かび上がる紫がかった魚子紋は、キラキラと目映い影を、羽倉崎の静かな面に落とした。
「子孫繁栄……山寺さんも、粋な贈り物を下さったものだ」
「そうでございますね。咲様は、お身内が居られないから、本当に嬉しそうで」
魚の卵を連想するような魚子紋は、古来より子孫繁栄の目出度い模様とされている。山寺も里も、咲に宿る子を思ったのだろうが、ツユクサ色の切子を眺める男は、別のことを考えていた。
「今宵の夜会は、どういうつもりでご参加されたのか……」
宮内省からの要請だと言っていたが、断れない訳がないことは羽倉崎でも分かる。
普段の晃子ならば、泰臣と同席することになる夜会など、けんもほろろ――の筈が2つ返事で引き受けたらしい。こうなれば、行かなくても良いのでは?と、正当な理由を述べない羽倉崎の言い分など、晃子が聞き入れる訳もない。
だからと「行かないで欲しい」など、女々しい言葉で引き留めたくもないと、結局「好きになさい」と送り出してしまった。
大宮伯爵家へ、願い出た形の泰臣の婚約であるのだから、男爵家で揃い出席するのは当然であると無理矢理、理解しようとはするが、やはり華族の令息が揃う夜会に出向くことは、いい気がしない。
「変な虫が、ブンブンたかりそうだ」
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