紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

文字の大きさ
上 下
28 / 96

奏任官の名

しおりを挟む
 ◆◆◆◆◆

「あれは、いつでしたか……そうそう!瀬戸物市が開かれていた時分でございますよ、旦那様」

 江戸切子の涼しげな徳利を傾ける里は、主人にそう答え、以前 俥が泥濘に はまり難儀していた客だと告げるのだが、聞いた本人は、ぼんやりと煽り飲んだお猪口を眺めていた。
 底に残る一滴は、切子の色に染まり、まるでツユクサにのる朝露のようだ。
 羽倉崎は「それで?」と、先を促した。
 里が語っているのは、光留と名乗った若者の話であり、羽倉崎の知る奏任官そうにんかんの田中だった。
 光留とバッタリ出くわした日に一通り、咲から話は聞いていたのだが、より詳しく知るには同席していた里にも、聞く必要があると考えるのは、何事にも細かい性分故だ。

「それで……と申されても、それだけでございますよ?30分程で車夫が、別の俥を呼んで参りましたので」
「家のことなど話していなかったか?どこの省に勤めているとか」

 里は勢いよく首を振ると、チラリと後方を見渡した。咲は風呂を使っている為、叫ばない限り、聞こえようがないのだが。

「俥を待たれていた日は、名乗られませんでした」
「世話になったのに?」

 そういえば、清浦に同行していた時も、山寺に尋ねられるまで一切、口を開かなかったことを思い出した。偶然を装った席だったが、普通ならば山寺が名乗った時に、紹介があっても良さそうなものだ。

「はい。先日参られた時に名乗られましたが、あれはコチラの名を尋ねたからでしょう。それがなければ、名乗られなかったと思います」
「成る程、で?あの人は、どんな話をしていた?」

「えぇ……っと、そうですねぇ。特に変わったことはありませんが、瀬戸物市に行ってみたかったとか」
「あの人が、瀬戸物市に?」

「ええ、壺でもと仰られて。そうそう!白磁の一輪挿しをお気に召したのか、ジッと眺めておられました」
「……陶芸にでも興味があるのだろうか? それなら、その線で誘いをかけてみようか……」

「いえいえ、おそらく咲様がお目当てと思われますので、もう見えられないかと」
「馬鹿なことを……」

 吐き捨てる羽倉崎に、里は微かに鼻を鳴らし笑った。

「旦那様。光留様は、咲様にこう仰いました。貴女は、朝顔のようだと」
「それがどうしたと?」

「女を花に例えるなど、それは他の感情を伴っていると思われませんか?里は、間近で見ておりましたが、そう思いましたし……又、可愛らしいとも仰いました」
「……」

「しかし、咲様が 身重と知られましたので次は、ないでしょう」

 里は、尾井坂男爵家との繋がりなどを話したことは、口にしなかった。下手に話して叱責されては堪ったものではない。しかし、光留が、咲に恋慕の情を抱いていそうだということは、耳に入れておかねば後々、何故言わなかったとコレ又、叱責の対象になりうる。

「俄には信じられないが……、まあいい。あの人の名が、分かっただけでも」

 時間は、かかるかも知れないが調べれば、何処の省か分かるだろう。夕陽に透かし切子を覗く、ツユクサの青と茜が合わさり、浮かび上がる紫がかった魚子ななこ紋は、キラキラと目映い影を、羽倉崎の静かな面に落とした。

「子孫繁栄……山寺さんも、粋な贈り物を下さったものだ」
「そうでございますね。咲様は、お身内が居られないから、本当に嬉しそうで」

 魚の卵を連想するような魚子紋は、古来より子孫繁栄の目出度い模様とされている。山寺も里も、咲に宿る子を思ったのだろうが、ツユクサ色の切子を眺める男は、別のことを考えていた。

「今宵の夜会は、どういうつもりでご参加されたのか……」

 宮内省からの要請だと言っていたが、断れない訳がないことは羽倉崎でも分かる。
 普段の晃子ならば、泰臣と同席することになる夜会など、けんもほろろ――の筈が2つ返事で引き受けたらしい。こうなれば、行かなくても良いのでは?と、正当な理由を述べない羽倉崎の言い分など、晃子が聞き入れる訳もない。
 だからと「行かないで欲しい」など、女々しい言葉で引き留めたくもないと、結局「好きになさい」と送り出してしまった。
 大宮伯爵家へ、願い出た形の泰臣の婚約であるのだから、男爵家で揃い出席するのは当然であると無理矢理、理解しようとはするが、やはり華族の令息が揃う夜会に出向くことは、いい気がしない。

「変な虫が、ブンブンたかりそうだ」

 羽倉崎の不機嫌な呟きに、里は何を勘違いしたのか「あらあら、大変」などと言い、大急ぎで戸棚に走った。

 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

神楽坂gimmick

涼寺みすゞ
恋愛
明治26年、欧州視察を終え帰国した司法官僚 近衛惟前の耳に飛び込んできたのは、学友でもあり親戚にあたる久我侯爵家の跡取り 久我光雅負傷の連絡。 侯爵家のスキャンダルを収めるべく、奔走する羽目になり…… 若者が広げた夢の大風呂敷と、初恋の行方は?

【完結】帝都一の色男と純朴シンデレラ ~悲しき公爵様は愛しき花を探して~

朝永ゆうり
恋愛
時は大正、自由恋愛の許されぬ時代。 社交界に渦巻くのは、それぞれの思惑。 田舎育ちの主人公・ハナは帝都に憧れを抱き上京するも、就いたのは遊女という望まない仕事だった。 そこから救い出してくれた王子様は、帝都一の遊び人で色男と言われる中条公爵家の嫡男、鷹保。 彼の家で侍女として働くことになったハナ。 しかしそのしばらくの後、ハナは彼のとある噂を聞いてしまう。 「帝都一の色男には、誰も知らない秘密があるんだってよ」 彼は、憎しみと諦めに満ちた闇を持つ、悲しき男だった。 「逃げ出さないでおくれよ、灰被りのおひいさん」 ***** 帝都の淑女と記者の注目の的 世間を賑わせる公爵家の遊び人 中條 鷹保 ✕ 人を疑うことを知らない 田舎育ちの純朴少女 ハナ ***** 孤独なヒロイン・ハナは嘘と裏切り蔓延る激動の時代で 一体何を信じる? ※大正時代のはじめ頃の日本を想定しておりますが本作はフィクションです。

愛人をつくればと夫に言われたので。

まめまめ
恋愛
 "氷の宝石”と呼ばれる美しい侯爵家嫡男シルヴェスターに嫁いだメルヴィーナは3年間夫と寝室が別なことに悩んでいる。  初夜で彼女の背中の傷跡に触れた夫は、それ以降別室で寝ているのだ。  仮面夫婦として過ごす中、ついには夫の愛人が選んだ宝石を誕生日プレゼントに渡される始末。  傷つきながらも何とか気丈に振る舞う彼女に、シルヴェスターはとどめの一言を突き刺す。 「君も愛人をつくればいい。」  …ええ!もう分かりました!私だって愛人の一人や二人!  あなたのことなんてちっとも愛しておりません!  横暴で冷たい夫と結婚して以降散々な目に遭うメルヴィーナは素敵な愛人をゲットできるのか!?それとも…?なすれ違い恋愛小説です。 ※感想欄では読者様がせっかく気を遣ってネタバレ抑えてくれているのに、作者がネタバレ返信しているので閲覧注意でお願いします…

明治ハイカラ恋愛事情 ~伯爵令嬢の恋~

泉南佳那
恋愛
伯爵令嬢の桜子と伯爵家の使用人、天音(あまね) 身分という垣根を超え、愛を貫ぬく二人の物語。 ****************** 時は明治の末。 その十年前、吉田伯爵は倫敦から10歳の少年を連れ帰ってきた。 彼の名は天音。 美しい容姿の英日混血の孤児であった。 伯爵を迎えに行った、次女の桜子は王子のような外見の天音に恋をした。 それから10年、月夜の晩、桜子は密に天音を呼びだす。 そして、お互いの思いを知った二人は、周囲の目を盗んで交際するようになる。 だが、その桜子に縁談が持ち上がり、窮地に立たされたふたりは…… ****************** 身分違いの、切ない禁断の恋。 和風&ハッピーエンド版ロミジュリです! ロマンティックな世界に浸っていただければ嬉しく思います(^▽^) *著者初の明治を舞台にしたフィクション作品となります。 実在する店名などは使用していますが、人名は架空のものです。 間違いなど多々あると思います。 もし、お気づきのことがありましたら、ご指摘いただけると大変助かりますm(__)m

とまどいの花嫁は、夫から逃げられない

椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ 初夜、夫は愛人の家へと行った。 戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。 「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」 と言い置いて。 やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に 彼女は強い違和感を感じる。 夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り 突然彼女を溺愛し始めたからだ ______________________ ✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定) ✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです ✴︎なろうさんにも投稿しています 私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ

命を狙われたお飾り妃の最後の願い

幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】 重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。 イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。 短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。 『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

【完結】悪役令嬢はゲームに巻き込まれない為に攻略対象者の弟を連れて隣国に逃げます

kana
恋愛
前世の記憶を持って生まれたエリザベートはずっとイヤな予感がしていた。 イヤな予感が確信に変わったのは攻略対象者である王子を見た瞬間だった。 自分が悪役令嬢だと知ったエリザベートは、攻略対象者の弟をゲームに関わらせない為に一緒に隣国に連れて逃げた。 悪役令嬢がいないゲームの事など関係ない! あとは勝手に好きにしてくれ! 設定ゆるゆるでご都合主義です。 毎日一話更新していきます。

処理中です...