紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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食い扶持

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 「滝沢夫人、この度の介添え役お世話になりました。ご子息に、良いお相手が見つかることを願っております」
「え、あ、ありがとうございます」

 あまりのことに放心していた男爵夫人は、ハッ!と、目を瞬かせると 心の籠らない礼を口にした。

「あ、そうそう。ご存知と思いますが、この度の介添えで知り得た令嬢や、令息のお人柄などは他言無用にて。省も縁談の組み合わせには、神経を尖らせておりましてね? 下手にお話になると、ご令息の縁談に影響を及ぼしますので……」

 光留は、駒子のことを他言するなと釘を差す。勿論、宮内省――特に宗秩寮そうちつりょうの役人に悪印象を与えると、華族には良いことはない。滝沢夫人は「まあ、まあ、」と人の良い笑顔を作ると「心得ておりますよ」と、長い裾を引き、立ち去った。

「それでは駒子さん、1階に参りましょう」
「あら?ここに泰臣様が参られるとお聞きしておりますのに」

「ダンスは、苦手と聞き及んでおりますが」
「ええ、全く踊れませんのよ」

「それでは、大広間に用はないですね。下でお話した方が、お互いを知るのに1番の近道です」
「私が、ダンスが苦手とご存知なんですか?」

 不思議に思うのは当然のことだと、泰臣から聞いていることを告げる。
「泰臣君は、貴女を大切に想われているのでしょうね。ご不快な思いをさせてはならないと、介添え人である僕に前もって知らせてきたのです」
 と、付け加えることにも余念がない。
 婚約者が、そこまで気を回しているのを嬉しく思わない令嬢は、いないだろうと。しかし、駒子は「そうですか」と、意外にもあっさりしていた。

 ―― これは、縁談に乗り気でないのは、お互い様か?

 泰臣は、話が合わないと困惑していたが、割りきっていた。しかし、駒子からしてみたら突然、下町から呼び戻され、売られたような縁談だ。もしかしたら――の可能性もある。

「お召し物は、泰臣君が?」
「はい。私、よくわからないので全部任せっきりで」

「それが、1番よろしいんですよ。貴女の良さを理解するのは、これから先、泰臣君であるのだから、すべてお任せすると良いのです」
「ええ、でも気になって、気になって……コレ」

 駒子は、幾段にも重ねられたレースの裾を引き上げ、スッと小さな足を差し出した。チラリと覗くのは絹靴だ。

「いくらするのでしょう?」
「……さあ?金額など、考えたこともありませんでした」

 光留は、物を求める時に値など気にしない。屋敷や、身請けではない限り、目玉が飛び出るような買い物にはならないからだ。
 靴を求めるのに、いちいち算盤を弾くことなど、尾井坂家もやらないだろう。
 しかし、駒子は下駄屋で育てられたので、履き物の値に興味があるのかもしれない。
 光留は周りを窺う。招待者の殆どが、2階の大広間に上がっている為、周囲は まばらではあるのだが、チラチラと視線を向けてくる者達がいるのは、駒子と会話をしてみたいと願っている者かもしれない。
 何故なら、予め見合いとされている家の者には、それぞれシャペロンが付き添っているのに大宮家からは誰も付いてきておらず、滝沢夫人が席を外してしまった今では、光留が横に立つだけだ。これでは、端から見れば光留が介添えなのか、駒子とお近づきになっているのか判断できないだろう。
 泰臣が現れたら、すぐに分かるように1階におりてきたというのに、人が少ないが故に目立つことになってしまった。

「駒子さん、不思議に思うのならば泰臣君にお聞きなさい。直球でお尋ねしてはダメですよ?贈り物を下さったお相手に「おいくら?」などと尋ねるのは無作法です」
「まあ、その方が早いのに……」

「合理的ですね……悪くありません、が! ダメです。本当に値が知りたいのならば、後々調べることは可能です」
「しかし、田中様……」

「光留さんで結構」
「でも、馴れ馴れしくしては失礼と……」

 駒子は、モゴモゴと口ごもった。おそらく伯爵家が、一夜漬けで教え込んだのかもしれない。それならば、人様に首振り人形と言う方が失礼なのだが――。
 これは、ちゃんとした家庭教師でも付けた方が良いとは思うが、財政火の車では無理なのだろう。

「でも、だって、は禁止です。そもそも田中なんてありふれて、誰のことか分からないでしょう。宮内省の田中だって、6人位いますよ。皆さん、僕のことは光留と呼ぶのですから。ひ・か・る・さ・ん、はい、どうぞ」

 駒子は、パッと華やかな笑みを浮かべると、両手を合わせた。その仕草が「ありがとう」と言っているようで、光留は微笑んでみせるのだが、次の瞬間、おっとりと話していた駒子の言葉が、やけに早くなった。

「ああ!良かった!光留さん、私、様なんて言いなれなくて、気取ってるようで……ムズムズしてましたの!」
「え?あ、はい」

 少々、驚いたが下町育ちであり、職人気質の親に育てられたのかもしれない。早口は、ゆっくり直せばよいとさえ思えた。

「この靴も、売ったらいくらになるか気になって」
「……は?売る?」

「嫌だわ、売るわけありません!ふふふ!」

 駒子は、井戸端の女のようにヤダ!と、光留の肩を軽快に叩いてみせる。おそらく、冗談だったのだろう。呆然と見つめる光留の視線に、肩を竦めて見せるのは、悪戯を咎められた子供のようだ。

「光留さん、食堂に行きましょう」
「食堂? しかし、泰臣君を待ってからが」

「私、ここに来ればお腹一杯食べれると聞いて来ましたのよ。嘘なのですか?」
「誰がそんなことを……」

「父です。美味しいものがあるからって。あと泰臣様と結婚すれば、お腹が空くことがないって!」

 あまりの言い種に、魂が飛びそうな錯覚を覚えた。

「え……、まさか!光留さん、嘘なのですか?」
「は!! いえ、嘘ではないですが……」

 まさかの食い扶持目当ての結婚だったとは、予想外過ぎて言葉を絞り出すことが出来ずにいる光留に、駒子はホッと安堵の息をつくと、微笑み言った。

「食堂の物は、持ち帰ってもいいのかしら?折箱があれば良いのだけれど……」
「いやいや、朝から仕込んだ物です。明日には傷んでいるかもしれません」

 光留は、必死に止めた。なるべく傷つけないように、傷むと――。しかし、駒子は満面の笑みで又しても、パシン!と肩を叩く。

「少し臭う位なら、大丈夫ですのよ!何度も食してる私が保証します!」

 光留の我慢は、限界に達した。咄嗟に顔を背け、両手で覆い隠した。必死に声を殺すが、小さく漏れているかもしれない。

 ―― ダメだ。涙が出てきた!

 2階から奏でられるピアノの独奏に、光留は願った。もっと大きく――と。歔欹きょきにも似た笑いが漏れたら、周りは何と思うだろう。これ程、ショパンに感謝したことはない。明日、そこらを彷徨く子犬に餌をやろうと心に決めた。

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