紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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 光留は、瀬戸物町を訪れていた。出迎えたのは、あの日と同じ親子にも見える、50程の女と20前の女。しかし、一目で若い女の顔色が悪いことに気がついた。

「体調が、優れませんか?」

 若い女は、嬉しそうに微笑みを浮かべ、静かに首を振ると、茶を運んできた年配の女が「おめでたなのです」と、囁いた。

「これは、おめでとうございます」
「ありがとうございます」

 光留は、この幸薄げにも見える女が、家を与えられた妾であると思っている。そして、それは間違いないだろう。
 ――となると、旦那の愛情が無くなっても子供がいれば、生活の不便はない。女にとって言葉通りの意味よりも、ことだと。

「僕は、名乗らないつもりでしたが、貴女達の名前を知らないというのも、落ち着かないものです。光留と言います。お名前を伺っても?」

 2人は、顔を見合わせ肩を揺らす。
 笑い方まで同じとは、本当は親子なのでは?と、光留は わざとらしく懐疑の眼差しを向け、すぐに柔らかく笑ってみせる。
 若い女は、ほっそりとした指先を口許に寄せ、又しても、ふ、ふふ――と揺れ、青白い面を隠すような紅唇を開いた。

「申し訳ありません。静かに笑えと、旦那様のお言いつけなのです。親子ではありませんよ。私は、さきと申します。こっちは、さとと申します」
「静かに笑う? 奇妙な言いつけですね。あ、そうだ、里さん。瀬戸物町について尋ねたいことがあるのです。ちょっと良いですか?」

 光留は、里を手招きし、手入れの行き届いた庭の垣根へ歩んだ。先に進んでしまえば里は、ついて来ざるを得ない。一言、主である咲に断り、草履を引っ掻けると小走りに寄った。

「咲さんの顔色……医者は大丈夫と?」
「ええ、悪阻で食が細くなっておりまして。ただ、果物はよく食べるので大丈夫と」

「あと1つ。僕は尾井坂家の泰臣君と学友でして、此方の話をしましたら大層、慌てておられたけど……何かお力になれることがないかと思っております」
「まあ……!ありがとうございます。しかし、ご心配はいりません。ああ……こう言ってしまうと、つっけんどんと思われてしまうでしょうね」

 愁いげに瞼を伏せる光留は、見ず知らずの女の為に骨をおると言っているのだ。明らかに立場が上の者からの申し出を断る――という状況に、里が狼狽えるのは無理なかった。
 おそらく、想定もしていないことであり、無礼でない辞退の言葉を知らないだろう。
 そして焦り、ペラペラと口が軽くなるのではないか?と、淡い期待をするのは光留だ。

「ああ、ここだけのお話ですよ。咲様は、泰臣様のお母様の姪にあたられます」
「……長崎の?」

「良かった。泰臣様がそこまで話されているということは、本当に仲がよろしいのですね」

 里は、掛け衿を指でなぞり、ホッとした様子をみせた。光留は素知らぬ顔で「ええ、学友ですので」とうそぶく。
 生母のことを口にしない泰臣が、光留に語ったとなると、深い信頼関係にあると思うのは当然だ。必然的に里の口は、滑らかになった。光留の知る情報は、晃子からもたらされた物なのだが、知るよしもない里は、語る。
 元々、泰臣の生母に仕えていた里は、主が亡くなっても、男爵家の厚意で与えられた家に咲と2人で住んでいた。
 しかし、亡くなった妾の使用人の面倒をみることはないと、男爵夫人により家を追い出された2人に泰臣が、家を借りてくれたと。
 なかなか複雑な事情に光留は、あの日、泰臣が苛立たしい感情を露にしたことが、ストンと腑に落ちた。そっとして欲しいことを、突っかれた状態だったのだと。

「しかし、どうなのだろう?従妹が、妾奉公とは……男爵家のご家族が知ったら」

 晃子の嫌悪を浮かべる顔が、簡単に想像できた。何故なら、あの日、晃子はハッキリ口にしたのだ。妾を持つような男は嫌いだと。それは、妾、本人にも言えたことだろう。

「やはり、お気づきでしたか。こちらが妾と」
「悪いと言っているわけではないのです。咲さんを、心配しております」

 光留は、あくまで咲を心配していると告げた。これに、安堵を浮かべた里は継いだ。

「実は……ここだけの話でございます。この住まいは、泰臣様が借りた家ではありません」

 声を落とす里に、光留は耳を寄せた。
 豆腐売りのラッパが近くで響き、そこらの女が「こっち!こっち!」と、呼び止める声が垣根の向こうから聞こえる。威勢の良い豆腐売りの「へい!」と、小気味良い返事に里は、自身の声を紛れ込ませた。

「泰臣様が、咲様の面倒をみられていたのですが、事情を知るお知り合いが、当時学生であられる泰臣様より、色々とお世話ができるから……と、生活の面倒までみてくださいまして……」
「成る程、その人が旦那ですか」

「はい。初めは本当に泰臣様の代わりといった風だったのですが……」
「まあ、男女の仲なんてどう転ぶか分かりませんからね」

「はい。泰臣様は、大変なお怒りで……。それで、こちらに引っ越して参りました。すぐに咲様は身籠られ、泰臣様が大変辛い立場になられると思えば、私も苦しく」
「何故、泰臣君が辛いのです?」

 光留は、怪訝に眉をひそめた。何か聞き漏らしたか?と。その時、母屋の咲が「あ、旦那様」と嬉々とした声を放った。
 反射的に振り返った里には、姿が見えたのだろう。
「まあ!まあ!よくお越しくださいました!」と、こちらも嬉しそうだ。光留そっちのけで駆け出した。妾奉公ならば、旦那の訪れが第一なのだから仕方ない。
「近くを通りましたので」
 落ち着いた低い声が、光留の耳に届いた。秒針が少しずれた印象、声の次に生垣からスラリとした長身の男が姿を現した。
 チラリと光留を捉えた眼が、微かに見開かれ、薄い唇から「田中様……?」と疑問を投げ掛ける音が漏れた。

「羽倉崎さん……」

 光留から、一切の音が消えた。
 軽快なラッパの音も、井戸端を繰り広げる女達の笑い声も――。
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