紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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本駒込

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 お江戸の頃、千代田のお城一帯は、武家屋敷と言っても過言ではなかった。大名屋敷になるのだが上・中・下と所有し、その用途もハッキリと区別されていた。
 幕府から与えられた屋敷は、拝領屋敷。
 城に近い為、大名の住まいとなる上屋敷と呼ばれるもので、立地は良いがその分、狭い。
 もう1つが、抱屋敷かかえやしきと呼ばれるもので、これは大名が土地を購入した、云わば大名家の持ち家になる。
 中屋敷は、大名の跡取りが住む場合が多く、下屋敷は別邸のような役目を果たしていた。火事が多かった江戸の町から、避難先としての役割もある為、郊外に造られることが多かったのだが、御一新により幕府の土地であった拝領屋敷は、政府に召し上がられ華族となった大名達は、抱屋敷を住まいとすることになる。
 田中子爵家の屋敷は、本駒込ほんこまごめ。大名下屋敷が建ち並んだ地域ということもあり、官の役人が多く住む地域でもあった。

 今宵は、やけに騒がしい。
 闇夜を切り裂くような声をあげる夜鳴き烏に、よいは 月も浮かばない空を見上げていた。

「心にもあらでかくまかるに、昇らむをだに見送り給へ――。まるで、月に帰られるおひい様のようだけど、宵さん闇夜ですよ」
「まあ、まあ、坊ちゃま。そうなったらお止めくださいますか?」

「ええ、ええ。もちろん。一緒に連れていってくれと泣きましょう」

 光留の口調は 至って真面目だが、それがいつもの軽口だということは、長年乳母を勤める宵には手に取るようにわかる。

「坊ちゃま、宵に隠し事はなしですよ」
「何です? 何か隠しているように見えますか?」

 宵は、ずいっと盆を滑らせた。のせられているのは数日前の新聞なのだが、一目で娯楽要素の強いものだと見てとれる。

「それが何か?風呂の火起こしにでも使えばいいのに」
「坊ちゃま、この尾井坂家のご婚約の件……」

「まさか、僕が新聞にネタを与えたとか思っているのですか?」
「坊ちゃま!お父上様が、先日心配を口にされました」

「心配?」
「ええ、宵も存じております。1年前、有難いご縁談を破談にしたのは、泰臣様の御姉様が原因だと」

「原因? 違います。悪いのは僕です」
「その様なことはよいのです。お父上が御心配されているのは、坊ちゃまが欧州へ行かれていた間のことです。何か、なさいましたか?」

 いつになく強い口調に光留は内心、驚いた。乳母である宵は、母以上に大切だと思い、接しているが絶対に臣下としての態度を崩さなかった。
 もちろん、乳母であるのだから幼少の頃は、諌められることはあった。だが、ここ数年は一女中としての立ち位置に徹している素振りさえある。

「何があったというのです? ご機嫌斜めですね」
「お話ください。宵とお父上は、坊ちゃまの味方ではありませんか。それに、尾井坂家の縁談が先に決まった姉よりも、弟の許可が早かったというので、他の家の方々も不思議に思い始めておられるとか」

「ああ、成る程。そうか……」
「坊ちゃま。宵が、月に帰らなければならなくなったら、泣いて連れていって欲しいと仰って下さるのでしょう?」

 宵は、光留の膝に手を添え、言い含める様に覗き込む。この仕草は、悪戯をした光留に言い含めていた乳母のソレだ。
 こうなれば、毎回こちらが折れる羽目になる――と、褐色の瞳をすがめ、できる限りの抵抗を試みる。

「そのような目をしても、ダメです!坊ちゃま、お答え次第で宵は、おいとま乞いをしなければなりません」

 煙に巻くことはできず。
 仕方なし、一呼吸すると気を取り直し理由を聞くことにした。

「どうして、そんな話になるのですか」
「宵にも、話せないのでございましょう?そのような情けない信頼しか頂けてないとなれば、去りたくなるのも当然でございます」

 ピシャリと言い放つ宵は、決めたことは貫く強さを持っている。幼い頃から宵によって育てられたが故に、光留はよく分かっていた。

「信頼を測るのに、秘密事との引き換えを要求するなど、感心できることではありませんね」

 一言、恨みごとを言うが、これ以上は仕方なし――。盆の新聞を開き、例の記事を表に出した。引目鉤鼻ひきめかぎばなの女を指で一撫ですると、光留は「似てないなぁ」と漏らし、続けて口にした。1年前、宮内大臣の土方に晃子の縁談を差し止める願いをしたことを。
 そして快諾され、今に至ると。

「しかし、宵さん。勘違いしてはいけません。泰臣君の縁談が先に決まったのは、男爵家の跡取りだからです。皆様、不思議に思っているというのは嘘でしょう。僕の耳には全く、そんな話は入っていません」
「しかし、町で噂に……」

「新聞を見た者達が、面白おかしく言っているのでしょう。それにしても、誰がそんな噂を流したのか……記事が載って、まだ日が浅いのに。金を掴ませて流しているとしか思えない」
「何の為に!? 」

 驚愕の声と共に、腰を浮かせる宵に光留は「さあ?」とだけ答えた。故意に流しているとしても、そんな噂なんて大したことではないと。

「宵さん、僕は貴女を信頼しています。どうか、月に帰るなど言わないで下さい。嘘ではありません。宵さんには、僕の跡取りを抱いて欲しいと思っているのですから」
「勿体ない。しかし、坊ちゃまの今後のなさりようでは、帰るかもしれません。お父上を煩わせてはいけませんよ。あと宵には秘密事はダメです」

「ははっ!それでは、もう1つ教えておきましょう」

 光留は楽しげに笑うと、新聞の大和絵の女を指差した。宵は、覗き込む。
 記事には、婚約が成立し、着々と準備が進んでいるとある。普段は真っ白なグローブをつけていることが多い光留だが、今は繊細な指先が露になり、真珠の光沢を備えた爪先が記事の一文を引っ掻いた。
 ご令嬢は、嫁ぐ日を楽しみに指折り数えて待っている――。その日は、近い――と。

「あり得ないのですよ、宵さん」

 光留の低く咎めるような声音が、不気味な夜鳴き烏の声に からめとられ、闇夜に吸い込まれた。
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