紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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根回し

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「知っていたかい?近君……」

 清浦は、フッと燻らせる白煙と共に、言葉を継いだ。ぼんやりとくうを見つめる視線の先を追うが、煙が何かを話すわけもなし。
 近衛は、促すように清浦を見据えた。

「晃子嬢の婚約は、本決まりではないと」
「まさか……横浜で聞いたではないですか、尾井坂男爵家と貿易商の婚約と。たしか新聞でも……」

 突然、何を言い出すのか――と、訝しがる近衛に、清浦は「やはり君も、してやられたか」と、肩を揺らす。

「何の話で?」
「汽船で噂話の真相を語っただろう?本当に噂とは、当てにならんよ。黒田閣下の件も、伊藤閣下の件も新聞沙汰になったが、蓋を開ければデマだった。こう私達は、甲板員に話した。それと同じだよ」
「待ってください!それでは、令嬢のご婚約はデマと!?」

 清浦は、脱力を表すように勢いをつけて背もたれに倒れ込んだ。足を組み煙草をふかせる唇から「新聞はデマ……」と、くぐもる声を漏らす。

「それでは、光留さんは知らずに!?」
「いや、知っているだろうよ。何故なら手を回していたのは、あの男なのだから」

「はぁ!?」
「実は、この件を知って君達に騙されたと思ったのだが……安心した。しかし、やられた!」

 清浦は、肘掛けを拳で殴り付ける。余程悔しいのか、室内に白煙が充満しそうだ。

「英国へ上陸する時に、光留君が涼介りようすけ君に話していたことを覚えているかい?」
「涼介……ああ、甲板員の……いいえ。少し遠すぎましたし、波音であまり」

「私には聞こえたんだ。光留君は、こう言った。婚約はしたとしても、結婚まではいかないと思っていると。しかし、変だろう?それでは、破談ではないか。男爵が、そんな体裁の悪いことをするか?と、不思議には思っていたのだが……」
「何です!早く言ってください!」

 今度は、近衛がテーブルに身を乗り出す番だった。

「光留君は、自分が英国に行っている間に令嬢の縁談や、婚姻が結ばれるのを念頭に宮内大臣に手を回していた」
「はぁ!?」

「あの男の交遊関係は、思っていたより広い。どうやって土方さん宮内大臣までツテがあったのか……土方さんは土佐のお人だから、山内家に頼んだのかもな……悔しいなぁ、さすが大名華族だ。士族上がりの大臣ならば、その主筋に話を持っていけるものなぁ」
「いや、感心している場合じゃないでしょう!私はてっきり、宗秩寮に出仕するのは尾井坂男爵の弱味を握って、晃子さんを離婚させる気と思っていたんですが」

「それは、人でなしではないか!……悪くない」
「いや……考え過ぎでした」

「近君、これは土方さんから聞いた話だ。1年前、光留君からお会いしたいと申し出があったらしい……」
「1年前……」

 清浦は、フッと天井に向かい煙を吐き、事の顛末を語りだした――。


 欧州視察の寸前というのならば、明治24年3月頃と思われる。
 宮内大臣の土方の屋敷を、1人の若者が訪ねてきた。取り次ぎの者が言うには、田中子爵家の者と名乗ったらしい。
 夜分である。急用かと思い、土方は「用件を急ぎ聞くように」と促すが、取り次ぎの者は首を振る。
 何でも、その若者が只の使いっ走りには見えないと。しかし、名を尋ねても首を振るだけで「土方大臣にお目見えしたい」とだけ告げると言う。
 土方は怪しいと思いながらも、客間へ通すように指示を出し、自身は裏側へ回り込んだ。細い通路から、三方を壁、残る一方が扉になっている一室に入り込み、扉にある飾り細工を覗くと客間に座る若者がよく見えた。
 明るい髪色――、噂に聞く子爵家の従五位と同じだ。勿論、見かけたことはあるが顔を覚える程の面識はない。

 ―― 何故、うちに?

 普段なら身元が分かった段階で、客間へ向かうのだが、何の為に子爵家の者が訪ねて来たのか、見当が付かない。
 考えあぐねていると「土方大臣、覗いていないで、出てきて頂けたら有難いのですが……」と、申し訳なさそうな声が掛けられた。
 ハッとなり、穴を覗くと見えないはずの土方へ向かい、子爵家の従五位が畳に手を突き、深々と頭を下げていた。

「何故、分かった?」

 さすがにバツが悪いと思ったが、露見しているのに出ない訳にはいかない。土方は、回り道はせずに鈍い音をたてる隠し扉を押し開き、客人の前に姿を現した。
 顔を上げた男は、噂以上だった――と、土方は後日、清浦に語った。輝くブロンドに微笑みを浮かべる顔は、誰に似たのか?と尋ねたくなるほど、タヌキのような田中子爵には似ていなかったと。

「夜分ご無礼、田中光留と申します」
「いやいや、構わないが……よくココに帰っていると分かったね?」

 土方は、最近では数件ある愛妾の家を転々とし、本宅を留守にしていたのだが事前に所在が漏れているとは、物騒だと警戒した。

「ええ、どうしてもお目通りしたく、侯爵家に……」
「ああ……」

 光留は、言葉を濁したが侯爵家とは山内侯爵家だろう。土方は、土佐出身であるので主は山内家だったのだが、若い頃、色々あった。
 幕末 ペリーが来港し、世の中がひっくり返ったのは、そんな遠い昔のことではない。
 君主を尊び、外敵を斥けようとする思想を持つ尊皇攘夷の集まりとして土佐では、土佐勤皇党という集団が結成された。
 しかし、目まぐるしく変わる情勢の中、志半ばにして土佐藩により弾圧されたのだ。その頃 土方は、都を追い出された公卿に従い、長洲藩へ落ち延びていた為、難を逃れた。世に云う七卿落ちだが、この時に同行した公卿が明治政府の要となるのだから、人間の運とはどう転ぶか分からない。
 年若い、光留がどこまで知っているのか不明だが、土佐勤皇党は勿論、御一新で活躍した者達は、まだ存命なのだから聞いたこと位あるのかもしれない。
 そして、土方と山内家の関係が良いのか悪いのか、光留には分かりかね、濁したと思われた。土方は、この若者の慎重さに好感を持ち
「それでは、何故わしが あそこに隠れていると?」自身が、くぐり出てきた扉を指差した。

帳台構ちょうだいがまえには、武者を潜ませる――これは、大名がよくやることで」
「成る程」

 土方は、声高に笑うと「それでは、ご用件を」と本題に入るべく、光留を促した。
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