紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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芳町

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  ◆◆◆◆◆


「何故、こんな所に呼び出されるのでしょうねぇ。さん」

 西陽射し込む一室で不機嫌を通り越し、脱力気味の声を漏らす光留は、ソファーに深く腰を掛ける男を紺さんと呼んだ。
 呼ばれた男は、特段変わった様子もなく「さぁ……ぁぁ~」と、あくび混じりの声を漏らすと、何かに思い当たったのか、机の書類から切れ長の瞳を静かに上げた。

「司法省は、現在ネオバロックなんちゃら……で、バタバタなので」
「なんちゃら……って、貴方ね」

 視察の意見交換という名目で、内務省の一室に通されていた2人は、同じ目的で同じ人物に呼び出されているというのに、心構えは全く違うようだ。

 ―― この人、清浦さんに慣れすぎて少々、心が広いのかもしれない。

 約束の時間から、15分も過ぎているのに文句も言わずに書類に目を通しているのは、どうしたことか。自分1人なら、とっくに退席していると、目の前に座る男を一瞥した。
 紺さん――と呼ばれた男は、脚を組み素知らぬ顔で「紀尾井坂方面には、もうお出掛けで?」と聞いてきた。

「ええ」
「やはり……汽船から飛び出して行ったから、押し掛けると思っていましたよ」

「貴方は、の~んびり横浜でお座敷遊びでもしてたクチですか?近衛このえさん」
「ご冗談を。光留さんがあの人清浦を連れて行ってくれたから、爆睡で遊ぶどころではありませんでした」

 1年の欧州視察に同行した2人は、共に子爵家だった。光留は大名華族の子爵だが、紺さん――こと近衛と呼ばれた男は、大身の分家にあたる。本家の録が大きいと、分家も他所の本家と変わらない録を持つことから、分家でも爵位を持つことは多々あった。

「横浜から戻ったばかりでしょう?お父上にご挨拶は?」
「できませんよ。駅から直接参りました。しかし、私は三男坊ですので自由です。帰ってこなくても気にもならないでしょう」

「そんな馬鹿な……それより、清浦さんなんか放っておいて帰りませんか?」
「帰ったら、また呼び出されるでしょう。面倒なことは、さっさと終わらせましょう」

「貴方のそういった考え方は、尊敬に値する」
「恐悦至極」

「紺さん。清浦さんを流すように、僕を流さないで。扱いが雑で地味に傷つきます」
「失敬……あ、こられたようですよ」

 俄にざわつくドアの向こうでは、機嫌が良いのか、弾むような声で「ご苦労、ご苦労」と労いの言葉が飛んでいる。まさしく清浦の声だ。誰かとすれ違っているのだろう。

さん、早く終わらせましょう」
「そうしましょう」

 2人して立ち上がるのとドアが開くのは、ほぼ同時だった。

「ごきげんよう!清浦さん」
「お疲れ様です。清浦さん」

 にっこりと微笑む若者に清浦は、ニャリと口許を引き上げた。それは、何かを試すような嫌らしい笑みに見え、早くも予感がした。
 

 ◆◆◆◆◆


 和太鼓を連打するような豪快な話し声と、半鐘はんしょうを彷彿とさせる甲高い笑い声。
 離れに通されているというのに、時折こちらが、何を話しているか分からないとは、如何なることだろう――と、光留は 褐色の瞳を物言いたげに細めてみせた。

「清浦さん、ここは……よろしくないですね」
「何だい?近君、君まで目くじらを立てるのか?」

「いえね、話をするにしては少々……もう少し静かならば良いのですが」
「新橋、柳橋でも良かったのだが、こちらにも久々に来てみたかったんだ」

 お猪口をグイッと飲み干すと、カタンと膳に伏せた。
 3人、顔を揃えたかと思えば「出掛けよう」と有無を言わさず馬車に押し込まれ、着いた先は芳町よしちょうの花柳だった。
 文句を言いかけた光留に「ちょいと違うんだよ」と笑った清浦は、暖簾を跳ね上げると「清浦だが」と、女将に告げた。
 話はついていたらしい。すぐに離れに通され、この状況なのだが芸者が1人も侍ってないことが、意外だった。

「まあ、何処かで静かに話すというのも落ち着かないものだよ。新橋などに行ったら知り合いに会いかねないしね」
「まあ、新橋や柳橋に比べたら会わないでしょうが……こうも煩くては」

蛎殻町かきがらちょうに、米商会所が置かれて威勢の良いのが出入りしていてね。少々うるさい……が、物流などの情報は入りやすい」
「清浦さん、貴方なにか調べているのですか?」

 光留は、この男が警察にも顔が利くことを思い出した。1人では入りにくいお座敷も、同席する者がいれば……

 ―― 巻き込まれたか?

 そう考えたのは、横に座る近衛も同じだったようだが、光留と違うのは
「ダシに使う気なら、話せることだけは教えてくださいよ」と、少々、他人事だということ。やはり、清浦の側に居すぎて適当さに慣れきっている。
 2対1、分が悪い。
 光留は、諦めたと言わんばかりにグローブを乱暴に剥ぎ取ると、一合徳利に手を伸ばした。

「どうぞ、清浦さん」

 にこり、ともしない。
 膳に伏せたお猪口は、飲まない――もしくは、飲まないという清浦の意思表示であり、それを光留が知らないはずもない。
 そして、子爵家の者から勧められ無役の男が無下に出来ないということも。
 清浦は、くっ……と喉を鳴らすと静かに肩を揺らす。弾むような動きは、楽しそうだ。

「子爵家の従五位から、酌をして貰えるとは花柳のどんな綺麗処よりも嬉しいねぇ……」

 辞退することもなく飲み干すと、自ら徳利を取り光留に差し出した。

「実はね、大した用じゃないんだ。内務省の御仁から少々、頼まれてね」
「大したことあるではないですか」

「いやいや、ここに座って挨拶を受けるだけで良いと言われていてね。それじゃ、2人にも同席してもらって旅の疲れを吹き飛ばそうと。なぁに、金は相手方から出るんだ。お望みなら芸者を揚げれば良い……ただし、挨拶が終わってからだが」
「誰の挨拶なのです?」

「さぁ?」
「さぁって……貴方ね」

 こんな適当な人間が、内務省から一目置かれているというのも、俄に信じがたい。
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