紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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Ophelia

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「だから、お相手は貿易商の方で?」
「ご存じでしたか」

「小耳に挟みまして」
「……いいえ、貿易商は関係ありません。父が決めたことですので」

「そうでしょうね。しかし、貿易商だからと囲わないとは限りませんよ?現にお父上が……そうでしょう?」
「ええ。しかし、お相手はご存じです。私が、お妾を嫌っていると」

 ―― 婚約者に信頼を寄せているのか?

 光留は、ここにきて初めて晃子が婚約者を慕っていたら?という考えに、思い至った。
 それは、やっかいだ。やっかいと云うより腹立たしいと、笑みを浮かべた口元が自然と引き締まる。

「知っているからといって、そうするとは限りませんよ?」
「……何だか光留様は、意地が悪くなられたのでは?」

 以前からです――と、言いたいところだが、グッと呑み込み「そうですか?」と尋ねた。本音を言うならば、官の役人や、商売人が囲っている女の話でもして、結婚を躊躇するようなことを口走りたいところだ。

「ええ、先程から私を困らせてばかり」
「そんな貴女は、昔から僕を困らせてばかりだ」

「何のことだか、さっぱり分かりません」

 それは、僕を見ていないからでしょう。
 そう言いたいが、何故見なくてはならないのです? などと、言われたらショックでこの後に控える予定をこなせる気がしない。
 光留は、フィッと顔を背け、先にある窓辺の硝子を眺めた。庭先にある薔薇と共に、朧気に映る ふて腐れた男。
 何と情けない――と、思いつつ
「でしょうね」と、呟いた。
 最近、薔薇の栽培が流行りだしたとは聞いていたが、男爵邸でも温室を設えたらしい。
 鉢植えが並べられ、遠目でもいくつもの品種が見てとれた。中でも目を引いたのは、緑の葉に花開く白薔薇。

「ローズアーチとは、こちらのお屋敷に良く映えますね」
「ええ。皆様 よく仰いますが、私は詳しくなくて……綺麗とは思いますが、さっぱり」

「よく温室に足をお運びで?」
「ええ、先程も温室におりまして光留様のご来訪を存じ上げず、ご無礼を致しました」

「どうりで、貴女から薔薇の香りがすると思ったのです」

 光留は、立ち上がり手を差し伸べた。流れるような所作に、晃子はクスリと口許を綻ばす。

「何か変でしたか?」

 添えられた指先をと握り、晃子を窓辺に誘う光留は、微笑み問いかけた。

「いいえ、慣れていらっしゃると思いまして。皆様にそんな風に?」
「それは、ヤキモチですか?」

「まさか、社交界へは出向きませんので、皆様そうなのかしら?と思ったのです」
「……ああ、貴女ほど僕をガッカリさせられる人なんて、この世におりません」

「可笑しなことを仰るのね」

 晃子は、空いている指先を唇に寄せたかと思うと、小さく肩を震わせた。

「可笑しいですか?」
「ええ」

「貴女の笑顔が見れたのだから、良しとします」
「皆様に、そんな風に?」

「ヤキモチですか?」
「ふふ! いいえ。お帰りに?」

「ええ。少々、出向かなければならない所がありまして……晃子さん、あれ見えます?白のような、桃色のような」

 窓辺から温室を眺め、指を差す。鉢植えに咲く薔薇を言っているのだろうが、沢山ありすぎて、どの鉢のことか見当がつかない晃子は、視線を巡らせた。

「あとでご覧ください。あそこに白のようにも見えて、薄い桃色のような薔薇があるのです。白い頬が、ほんのり染まるのに似ている……」
「薔薇ですか?」

 不思議が宿った晃子の声色に、光留の唇は綻んだ。

「ええ。香りが強く、華やかで美しい。色合いが堪らなく可愛らしい……貴女のような薔薇です。今度、僕に下さいませんか?とても欲しいのです」
「ええ、よろしいわよ」

「庭師に、Opheliaとお伝え下さい。必ずですよ?うちの屋敷に晃子さんがお届けくださいね」
「私が?……ふふ、よろしいわよ。薔薇がお好きなの?」

「薔薇は、貴女のようだから一目で心を奪われてしまうのです」
「また、そのような……皆様に?」

「いいえ。貴女だけです」

 晃子は、堪えきれないと声をあげ笑った。きっと他の者が見たら、驚くだろう。光留からしても晃子が声を上げて笑う所など、初めて見たのだから。

「晃子さん、うちの者が笑う癖をつけておきなさいと、ずっと言っているのですよ」
「笑う癖ですか?」

「ええ、笑っている人が素敵なのは、分かりきったことですからね」
「……それは、お母様が?」

「まさか!うちの母は、能面のような……いえいえ、お雛様のような人ですので声を上げることもありません」
「まあ……ふふ、お母様のことをそのような。本当に光留様は、御無礼な方になってしまわれたようで」

 呆れと楽しさが混ざるような晃子の笑みに、光留は小さく肩を揺らした。そして「晃子さん」と名を呼ぶと、ゆっくりと扉へいざなった。

「母は、侯爵家の出でして、子爵家より家格が高いのです。どうやって侯爵家が縁談に首を縦に振ったのか知りませんが……」

 知らない訳がない。光留は、そっと部屋の隅にある白磁の一輪挿しに視線を流した。
 堂上公家華族は、懐事情が厳しい。勿論、全てとは云わないが、欧州視察の汽船で語られたように、家格は高いが金がないのだ。大名華族は元々の屋敷や土地、先祖からの高価な道具類などを持ち、懐は比較的暖かい。
 泰臣の婚約者が、大宮伯爵家と聞いた時 正直、金で買われたと思った。不憫とは思わない。金であろうが、名誉であろうが、縁談には何かしらの打算があるのだから。

「ねぇ、晃子さん。母は、笑わないのです。昔から。僕が何をしても叱りもしません。ただ1度だけ「母上様」とお呼びしたら、微かに不愉快な顔をされたのです。慌てて乳母が「おたあ様ですよ」と言い換えましたが……何でしょうかねぇ、まあ、そんな母ですので、笑う癖をつけろ――なんてことは言いません」

 思わぬ生い立ちに至情か、憐憫か、晃子の僅かに揺れる心情の流露を見た光留は、ここぞとばかりに両の手をとった。

「笑えば、福がやってくると乳母が言いました。僕もそう思います。晃子さんは どんな表情でもお美しい、静かに笑われるのも良いですが、どうせなら大きく笑った方が沢山、福が来ると思いませんか?」
「大きく……嫌ですわ、はしたない」

「はしたなくて結構、外に出られた時にご覧なさい。道を歩く人達や、汽車を待つ人達、静かに笑ってなどいるものですか」

 腑に落ちないと困惑露な晃子に、光留は温柔な笑みを浮かべ、表へ向かう扉を開けた。

「まぁ、急に笑えと言われても困られますよね、取り敢えず僕に笑って下さい。言い出したのは僕です、はしたないなどと思ったりもしませんので。僕と晃子さんに幸福が訪れるように、ね?どうです、良い考えでしょう?」

 光留は、一歩踏み出すと手本とばかりに秀逸な朗笑を響かせた。
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