紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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紀尾井坂 ②

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 光留は、盆をテーブルに置くと「どうぞ」とだけ言った。茶托に乗った湯飲みをのは、泰臣の役目らしい。

「光留、粗茶でございますが」
「ありがとう」

 馬鹿丁寧に差し出した。勿論、わざと。
 悠然たる光留は、生まれの良さが滲み出ている。「ありがとう」の一言だけでも、他と違った。

「ところで、早々に当家にいらした訳は?」
晃子あきこさんのご婚約者は誰です?」

「……それを尋ねに、わざわざ?」

 聞いたものの、光留が何の為に現れたのかは、容易に想像がつく。
 何がきっかけかは知らないが、以前から光留が姉の晃子に懸想しているというのは、噂になっていたのだ。しかし、泰臣は半信半疑であった。
 田中子爵家は、大名華族ということから広大な屋敷、国許に土地、蓄えた金もあれば、多額の金禄公債も受け取ったはずだ。
 また、貴族院議員の報酬まで合わせると金には困っていないはずであり、本人はと云うと評判は元より、将来性の面でも太鼓判を捺される男だ。宮家との縁談が出たのも頷ける。それなのに光留は、縁談を蹴ったという。
 理由は、欧州視察同行。皆が首を捻ったのは、英国に行っている間、婚約という形を取らずに、話自体が消し飛んだことだ。
 どう考えても、子爵家が難色を示したのだろう――と。
 そんな訳で「田中子爵家には、他に考えているお相手がいるらしい」という、妙な噂が広まった。
 学友らは、言う。
『宮家以外に、誰を考えているのか?』
『断ることが出来ないから、英国に行った』と。
 いやいや、断るからって官の欧州視察に簡単に同行など出来ないだろう――と泰臣は、笑った。箱根や草津と違うんだぞと。

『いや、視察に引っ張ったのは、警保局長の清浦だろう』
『清浦に、何の得がある?』

 子爵家に恩を売っておく気か――?とも思うが、よく分からない。皆、更に首を捻ったのだが、ここで誰かが口にした。

『清浦が何の為に?とかは、分からないが子爵家が考えているお相手は、泰臣君の御姉様だろう。それしか考えられない、大変ご執心らしいから』と。

 まさか、成金男爵家など話にならないだろう。それに、あんな女を光留が見初めるとは思えないと泰臣は、本気で思ったのだが満場一致で、その説が有力候補に上がったのだ。
 勿論、信じた訳ではなかったが今朝、子爵家から来訪の打診があった時に嫌な予感がし、今、確信に変わろうとしていた。
 目の前の男は、脚を組むとソファーの背もたれに、大きく身体を預けた。
 だらけた姿に、いつもの優美なの微笑みなんて欠片もない。麗しい顔は、あからさまに不機嫌に歪む。
 チッ!と舌打ちが漏れたとしても、驚きはしないほどだ。

「ええ、ええ。そうですとも。僕は、晃子さんのご婚約の件を知りたくて参りました」
「悪いことは言わない。あの女は止めておけ」

「……何です?君、御姉様を盗られたくな……」
「そんな訳あるか!」

 泰臣は、ブルッと震えてみせると膝の上で組んだ腕に身を乗り出した。これから説得を試みるつもりではあるが、褐色の瞳を覗くと考えが揺らぐとも思えない意思の強さを感じた。

「光留、あの女……いや、姉は美しいかもしれないが、違うだろう。そんなことで選ぶなんてお前らしくない」
「そんなことで選んでいません」

「違うのか?」
「あのねぇ、人の美醜なんて歳と共に衰えるし、上には上がいるってもんですよ」

「じゃあ、何処が良いと?他に取り柄なんてないだろう」
「君、御姉様になんてことを……」

「光留、宮家の縁談を蹴った理由は本当に姉への懸想なのか?」

 泰臣の言葉に、光留はふいっと視線を逸らした。壁際にある一輪挿しに冷然たる眼差しを向けると、美しい唇を引き上げるのだが何とも皮肉げに見えるのは、いつもの優しく緩む目元の片鱗さえも、見えないからだろう。

「何処ぞの貿易商が、先祖の功績で爵位を貰ったそうです」
「は?」
「まあ、お聞きなさい」

 光留は、いつもの笑顔をみせた。

「先祖の功績など適当に作ったもので実は、男爵位を買ったと後ろ指を差されるが、そのようなこと男にとっては、どうでもよろしい。金に加え、爵位を手にした……となると跡継ぎが必要です。男には、これまた金を積んで貰ったと噂された正妻がいたのです。何処かの士族出身らしいですが、僕は知りません」

 光留は、湯飲みの蓋を外し口許に寄せる。指先まで洗練された動きは、見惚れるほどだが、茶を含む唇が告げている話は、妙な方向へ向かいそうだと泰臣は眉根を寄せた。
 何故なら光留が話す内容は、男爵こと尾井坂家のことだったのだから。

「男には、正妻腹の女子が1人。ご存じの通り、爵位は女では継げません。養子を貰うにしても、男系6親等以内、華族であることや宮内大臣の許可などややこしい。しかし、この男には長崎にお妾がおりましてね。そこに男子が1人いたのです。これは良い、女子に養子を貰うよりも正真正銘の男爵令息がいるのですから。男は、妾と共に生まれたばかりの男子を東京へ呼びました。当たり前ですが、妾は別宅へ。男子は本宅へ、正しいですか?泰臣君」
「正しい……が、何故 お前は詳しいんだ?俺は、物心ついた時から本邸に住んでいる。妾腹はともかく、長崎から来たとか皆知らない筈だが」

「はは!馬鹿言っちゃいけませんよ。僕だって、妻にする人の家のこと位、調べますよ」

 光留は、呆れたと言わんばかりの顔つきだが、帰国してすぐ調べ上げられることではない。つまり数年前、少なくとも1年前には調べはついていたのだろう。
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