紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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帰宅

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「瀬戸物町で品を見たかったのだけど、今日は無理そうですねぇ」
「そうですね、明日出直された方がよろしいかも、焼き物でもお求めに?」

「ええ、壺でも……あれ?」

 帯留めを――とは、さすがに言わない。そして何気に巡らせた視線が、居間にある一輪挿しを捉えたのは、偶然だった。
 白磁に真っ赤な椿の絵が入っているのだが、普通の椿ではない。家紋だ。

「ここのお宅は、椿紋なのですか?」
「いいえ、旦那様がお持ちになられたもので、よく分かりません。あれは家紋なのですか?」

「……ええ。おそらく。へぇ、これとよく似た物を知人の家で見たもので、懐かしく思ってしまいました」
「一輪挿しが欲しいと言ったところ、これを持ち帰りましたので、何処ででも買い求めることができるのかも?」

 女は小首を傾げ、微笑んだ。
 光留は、はは!と声を上げると首を振る。

「おそらく、買い求めることは出来ないでしょう。僕は同じ物を紀尾井坂の男爵家で見ましたから」
「まあ!泰臣さんとお知り合いで!? 」

「泰臣さん? 貴女、泰臣君をご存じなのですか?」

 これには、面食らった。泰臣とは学習院時代の学友であり、尾井坂男爵家の令息だ。
 このような下町の女と知り合いな訳がないのだが、横に座る女は、親しげに泰臣と呼んだ。様ではなく、さん――と。

「……あれ? 僕は、知らなくて良いことを知ってしまったかもしれない」
「え? 何がです?」

「いえ、こちらの話……それにしても遅いですねぇ」

 光留は、車夫の帰りを待ちわびた。



 ◆◆◆◆◆


 とんだ災難にあった――と、光留は嘆息を漏らす。代わりの俥に乗り、屋敷に帰り着いたのは、陽が落ちきった後だった。
 泥濘に、はまったのは自分のせいではないが、手を尽くしてくれた車夫に多めの駄賃を握らせたのは、云うまでもない。
 しかし、屋敷に入れば親よりも口うるさい者が、待ち構えていた。
 衣桁いこうから、浴衣を外し肩に掛けてくるのは、物心ついた時から側にいる乳母のよいであり、公爵家のおひい様である母よりも口うるさいから、始末に終えなかった。

「坊っちゃまが、馬車でお帰りにならないから、バチがあたったのでしょう」
「ちょっと、よいさん。そういうこと言うの止めて。運の無さは、1年間で思い知りました。そんなことより、お土産があるのです」

「お話をお逸らしになってはなりませんよ」
「逸らしているつもりはないですが、英国の毛染めです。宵さん、白髪が増えたと愚痴を溢していたでしょう?とても良いらしいですよ」

 早い所、部屋から出ていってもらおうと隅に置かれた鞄を漁り、次から次へと畳に並べる。

「ああ、これこれ!」
 
 牛乳瓶程の大きさの物を取り出し、目の前に置く。

鉄漿かねで染めるより、時間が短縮できるそうですよ」
「まあ!嬉しい!坊っちゃま、ありがとうございます」

「どういたしまして。ついでに、坊っちゃまは止めて下さい。僕はもう20ですから、光留様と」
「そうでした!1年前は、奥様をお迎えになると期待しておりましたのに、英国へ行ってしまわれるものだから……早くお相手を」

「ええ、そうですね」
「尾井坂様の所は、年内と噂になっておりますよ」

 思わぬ言葉に光留は「は?」と、声をあげた。我ながら変な声だと思ったが、宵は気付かなかったようで、相好を崩し頷いた。

「ご学友の泰臣様」
「え?そっち!? 誰です、相手は」

大宮おおみや伯爵家と伺いましたが、宵が詳しい訳ございません」

 宵は、カラカラと笑ってみせた。元士族の娘である宵は、よく笑う。
 母の笑った所など見たこともない光留は、幼い頃から宵の笑い声が好きだったのだが、今は、声を揃えて笑っている場合ではない。
 夕刻会った女は、泰臣さんと親しげに呼んでいた。そして留守がちの旦那とは、あの女がお妾であるということではないか?
 そう考えていたのだ。知らなくても良いことを知った――と。

「大宮伯爵……あまり芳しくない財政でしたが、今も火の車ですかね。泰臣君がお妾を囲っても文句も言えないような……」
「まあ!坊っちゃま!」

 ピシャリ! と膝を打つ、宵の掌に
「何ですか? 」と、恨みがましい目付きで応戦してみたが勝機は、あちらにあるようで直ぐ様、目を逸らす。

「すみません、言葉が過ぎました。明日の朝1番に男爵邸へ使いを出してください。本日、光留がお伺いしたいのですが、ご予定如何かと」

 不機嫌露な宵の顔が、パッと明るくなった。きっと、お祝いを伝えに出向くと思ったのだろうが、正直、泰臣が結婚しようが、妾を囲っていようが興味はなかった。
 それよりも、泰臣の結婚話から自分に飛び火してくると事だ。

「さぁさぁ、僕はもう寝ますから」
「え、ちょっと!坊っちゃま!」

 まだ、話し足りないと言わんばかりの背中をグイグイと押し、ピシャリ!と障子を閉めた。正直、廊下から話しかけてくるのを覚悟していたが、旅の疲れを考慮したのか?宵にしては、簡単に諦めてくれたようで、すぐに足音は遠ざかった。
 ホッと息をつき、畳に並べた土産から黄色の小瓶を手に取った。偶然、通りかかった店で見かけ、買い求めた香水だ。
 清浦が目を丸々と見開き、数度頷いたのを良く憶えている。そして「綺麗な色をした瓶だ」と言ったのも。
 何故なら、光留も同じことを思ったからだ。葉間から射し込む光に似たに「お日様色ですね」と、呟く自分の顔が、デレデレと締まりのないものだったことも、そしてその時、脳裏に浮かんでいたこともハッキリと憶えている。
 瓶を眺める様子から、余程、気に入ったと思ったのだろう。ニコニコと笑みを称えた店主は、サンプルか?似たような色の小瓶を軽く振ってみせると「フジェールロワイヤル」そう言い、光留の真っ白なグローブに吹き掛けた。
 吸い込んだ香りは、色の通りに自然の中にいるような神々しい匂いに思え、鹿鳴館で見上げた葉間に立つ、晃子の美しい姿を思い出させるのに十分なものだった。
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