紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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新橋 ②

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「さて、手荷物もなくなったことだし、光留君はどちらへ?」
「……」

「返事をしないところをみると、本当に尾井坂おいざか男爵の屋敷へ出向く気か?止めておきなさい。行っても無駄足だよ」
「どういう意味です?」

 清浦にしては珍しく、頭ごなしに反対を口にする。少々意外にも感じ、尋ね返した。

「男爵は、今、東京にはいないよ。本業で大忙し」
「本業……貿易ですか」

 清浦は、頷いた。
 華族というのは、元公家出身の堂上華族、大名家の大名華族、勲功から身分を得た新華族と分かれている。
 尾井坂男爵は、勲功――つまり、天皇家への忠義を認められ爵位を賜ったとされるのだが、この忠義というものが、遠く遡ること南北朝だという。
 そのような昔の話、本当か、どうかわからない。その為、真しやかに囁かれる噂は、金で爵位を買ったという不名誉なものだった。
 尾井坂男爵は、貿易商として金は持っているので、爵位を買っても不思議ではないと信じられていた。

「男爵がいない……しかし、よくご存じで」
「ふふふ、偶然耳にしてね」

「偶然ですか……へぇ。しかしね、清浦さん。僕は男爵に用はないのですよ」
「すっ飛ばして晃子あきこ嬢に、目通りを願うのか?あり得んだろう」

「あり得ませんね、僕は泰臣やすおみ君にご挨拶に伺うのです」
「ほう、男爵家の従五位跡取りか……そうか、確か学友だったか。しまった、失念していた」

 失念――?
 光留の片眉がピクリと跳ねた。
 どういう意味だ?と、言わんばかりの目付きに清浦は、口笛を吹き、大股で俥へ歩み寄ると、ピタリと立ち止まった。
 2度、3度、辺りを見回したかと思うと、フッと流れるような視線を向けるのだが、が、何やら魂胆を秘めているようにも思え、光留はグッと身構えた。

「まあ、悪いことは言わない。今日は止めた方がいい。だってもう夕飯時だよ? 押し掛けるつもりか?」
「余計なお世話」

 聞く耳を持たないと、そっぽを向く光留の耳朶じだに、清浦の低く落ちる声が、別の事を吹き込んだ。

「何処へ行こうがよろしいが、移動は俥で。決して1人になってはいけないよ」
「何です?気味の悪いことを言って……」

「忠告だよ」

 清浦は、脇に挟んでいた帽子を頭にのせ、車夫に「とりあえず麹町方向へ」と告げると蹴込に足を乗せ、軽々と革張黒の座席に座った。

「約束だよ。絶対に1人で歩き回ってはいけない。白い袴の男に出会ってしまったら、大変なことになるから」
「だから!気味が悪い……」

「やってくれ」
「あ!ちょっと!!」

 光留の不機嫌な叫び声なんて、知ったことではないと云うことだろう。
 清浦は、背もたれに身体を預けると顎をしゃくり、進めと促す。「へい!」と威勢の良い声が先か? 足が踏み出すのが先か?
 俥は、閉じたほろをガタガタと鳴らし、目の前から走り去った。

「何なんだ、あの人は……あ!少し乗せてください。行き先は……瀬戸物せともの町」
「へい!」

 清浦の後ろにつけていた車夫に、声をかけ飛び乗った。行き先は、思いつき。
 本当ならば、紀尾井坂付近までと言いたいところだ。他の男と婚約したといっても、相手が何者なのか、どういう経緯なのか、話を聞かなければ手の打ちようもない。
 話を聞くとすれば、男爵家以上に相応しい者は、いないのだから。
 そして、都合がいいことに想い人の弟は、学習院で机を並べた学友だ。
 帰国の挨拶に伺っても可笑しくはない――が、清浦の言葉が意外と刺さった。
 いくら学友を訪ねるといっても連絡もしていない上に、時間帯も悪い。常識がないと思われては元も子もないと思い直し、流れる景色に褐色の瞳を細めてみせる。

「ああ、懐かしいなぁ」

 1年ぶりの町並みに、思わず本音が漏れた。

「若様、東京は久々で?」
「ええ、1年ほど英国に行っていましたので」

「英国?そいじゃ、お屋敷は瀬戸物町でござんすか?」

 車夫は微かに首を捻り、背後を伺った。瀬戸物町とは、江戸の頃より焼き物を扱う土地柄であり、他にも線香や水菓子など商売が盛んであることから、商人の町とされる。
 その辺りに住む者が、英国帰りとなると話が噛み合わないと思ったのだろう。
 光留は、言葉にしない車夫に相づちをうつと、素直に答えた。

「さっきの人が麹町の方へ行ったので、逆に向かっているのです。僕も麹町へ行きたかったのですが、今は止めます」
「ああ!瀬戸物町は、昨日から瀬戸市が開かれているから、丁度良かったのでは?」

「市ですか!? それはいい!焼き物の帯留めなんか、土産に良いかもしれません!」

 車夫の何気ない一言で、晃子嬢への手土産を思いついた。本当は、英国で買い求めた物があるが、さすがに今の状況では渡す立場にないと思う。
 偶然、瀬戸物町を通りかかったので――などと、さりげない言い回しも可能だ。

「本当、いいアイデアだ」

 瞼をとじ、全身で風を感じる。
 昨日まで降っていたという、残雨の香りが湿った土の匂いと混ざりあって、鼻先を撫でるように通りすぎるのが、心地よい。
 虹でも出ていたら、幸先がよいと思うのだけど――と、過ったが、よくよく考えれば、意に添わぬからの縁談を断る為に英国へ渡り、やっと帰国したら意中の人は別の男と婚約が成立したというのだから、幸先が良いわけもない。

 ―― しかし、底にいるのならば、あとは昇るだけ……。

 楽観的だと、失笑を漏らすと共に
「宮内省に出向かねばならないなぁ……」と、小さく呟く光留の目は、笑ってはいなかった。



 
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