紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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新橋

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 千切れ雲流れる春茜を見上げ、不機嫌に眉を寄せる青年は、1年ぶりの帝都に深い溜め息をつく。ここは東京、新橋駅現・汐留。今から20年前の明治5年、新橋~横浜を日本初の鉄道が開通し、両区間は 50分程の陸路の旅で済んでいた。
 大きな溜め息をつくのは、大名華族である田中子爵家の従五位跡取り
 流れるようなブロンドの髪は、流行りのフロックコートに良く映える。一見、日本人離れしているように見えるが、間違いなく子爵家の令息である。
 端正な顔立ちに、憂いげな眼差し。すれ違う人々が見惚れ、立ち止まるのも無理からぬことで、本人も馴れているのか気にもしない。

「さすがに、疲れたのだろう?」

 声を掛けたのは、政府高官の清浦きようらだった。2人は 1年に及ぶ、英国視察を終え帰国したばかりであり、1日くらい横浜で疲れを癒し、東京へ戻ろうと提案する清浦の言うことを聞かず、着岸した汽船から、汽車に飛び乗った――というのが、かれこれ1時間ほど前の2人の行動だ。
 ――と、いっても清浦は 仕方なく、同行したクチだが。

「清浦さん、僕はまだ20ですよ。貴方と一緒にしないでください。それに、他の人達は横浜に残ったのですから、貴方も残れば良かったのです」
「君だけを帰すわけにはいかないよ。それにしても、横浜から50分程で着くのだから、大隈おおくまさんのお陰だな」

「そうですね」
「あ~、横浜には外国人の居留地があり、綺麗どころも揃っていると聞いていたので、楽しみにしていたんだが50分で着くなら、そりゃ帰るよな。あ~大隈さんは、良い仕事をなさったものだ」

「嫌味ったらしいですよ、貴方」
「ああ、光留ひかる君、あそこに子爵家の馬車が迎えにきているよ」

「人の話を聞いているのですか?」

 人は、ごったがいしているが、新橋駅現・汐留に馬車を寄せているのは、そう多くはなかった。汽車には、華族や高官が少なかったのだろう。清浦が目敏く、子爵家の馬車を見つけたのも頷けた。

「清浦さんもどうぞ」
「いや、私はくるまで戻るよ」

「奇遇ですね、僕も荷物を乗せたら俥で移動するつもりです」
「……屋敷の者達に知られてはいけない所にでも赴くのかね?」

「貴方と一緒にしないでください」
「変な意味じゃないよ」

 はははっ!と、高らかに声を上げた清浦は、チラリと視線を巡らせると声を潜めた。雑踏の中、どれ程の者が人様の会話に耳を澄ませているというのか――と、少々呆れたが、これが遣り手の高官の危機管理能力なのかもしれないと、光留は心持ち、左に顔を寄せる。

「紀尾井坂の恋しいご令嬢は、他の男と御婚約とか?」
「……それが何か?」

 光留の微かに苛立ちを仄めかす、語尾の強さに清浦は、声なく肩を揺らす。

「いいや、子爵もご心配であろうと思ってね。相手が決まったご令嬢に、1人息子がつきまとうなんてね」
「余計なお世話ですよ。それでは、ごきげんよう」
 
 眉目秀麗な上に、将来性豊かな男となれば両の指を使っても、数えることが出来ない縁談話が湧いてくる。
 それにより、英国行きの汽船に飛び乗ったのは、1年前だ。勿論、縁談から逃げる為だということは知る人ぞ知る。
 そして、帰国したら真っ先に、縁談を退けた原因である令嬢に想いを告げる――という考えを持っていることも、知る人ぞ――であった。しかし、悲しいかな、祖国の地を踏んで耳にしたのは、すでに令嬢の婚約が整っているという事実であり、案の定、その日の内に東京へ戻ると言い出した。
 光留は、清浦に背を向け、駆け寄る御者ぎょしゃにトランクを預けると、先に帰るように指示を出す。そんな背中を、じっと眺める清浦は、御者の納得できないと言わんばかりの様子に、口許を綻ばせた。

 ―― 御者の立場としては仕方ない。

 当然だ。1年ぶりに帰って来た令息を連れて戻らなければ、役目を果たしたことにはならない。屋敷では、子爵と夫人揃って一人息子の帰りを待ちわびているだろう。
 それが、わかる故に「畏まりました」とは、言えないようだ。
「用事がある」の一点張りに対して
「どのような用件が?」と、引かない。
 御者にしては頑張っている方だろう。
 そして、我が儘で1年も家を空けたという事実が、負い目になり御者の言い分を無下にできないでいるのも理解できた。
 清浦は、鼻に蓄えた髭を一撫でする。

「君、答えにくいことを聞くものじゃないよ。光留君は、今から私と貸座敷遊郭なんだから」
「貴方ね!」

 気色ばむ光留だったが、幸か不幸か、御者は納得しなかったようだ。
 未だにドアを開き、主を迎え入れようとしている御者を、清浦は押し退け、断りもなしに持っていたトランクを馬車に積むと、新たな一手を投じる。

「実はね、今から2人して麹町方面霞ヶ関に行かねばならないんだ。だから、悪いが光留君の代わりに荷物を持って帰ってくれ。私のは明日、取りに伺うと田中子爵にお伝えして欲しい。そう、清浦が言っていたと」
「……清浦さん」

 褐色の瞳が、ほんの少し見開かれたのは、清浦の助け船が意外だったからだろう。
 文句のつけようのない理由に、光留は胸元から引っ張り出した金の懐中時計を、わざとらしく音を鳴らし開く――と、

「清浦さん、急がねば山縣閣下がお待ちでは?」
「そうだね。あの俥で行こう」

「内務省までお送りいたします」

 御者は我に返り、提案するが清浦は首を振った。

「省じゃなくてね。秘密の場所に呼ばれているから」
「……早く出なさい。馬糞が……」

 清浦の言い分に思うところがあるが、早く帰してしまわないと時間がない。光留は追い立てるように言葉を継ぐ。
 さも、皆に迷惑をかけている――と言わんばかりに鼻を摘まみあげられたら、退散するしかない。御者は、慌てて御者台に飛び乗ると、馬に鞭打ち馬車を走らせた。
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