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幽冥聚楽
心得て候ふ
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「夕さりか。茜色が物悲しく、美しいのぅ」
「火灯し頃とは、乙ではないか!菅公どうじゃ?酒でも出して……」
「ご冗談を。獄官が控える逢魔が時に、風流を求められては困りもうす」
「「逢魔が時……」」
呼び方一つで、一気に気味が悪い夕焼けに見えてくるのは、不思議なものである。
「さて、あまりモタモタしていると使えぬ者よと、閻王の叱責を喰らいかねませぬゆえ」
「閻魔が、この件に噛んでおるのか?」
「噛むと申すより、王として然るべきことで。罪もない者を留め置くことを、良しとされぬのです。閻王も菩薩も」
「それは分かるが、話ならば一献指しながらでも良いだろう」
「他人事のように……片手間に話をすると、決心がつきませぬぞ」
「決心など、知ったことではない」
「関白……」
「さぁ、万作!酌をいたせ」
途端、見事な黒漆の膳が菅公と関白の目の前に現れた。そこには、朱塗りの盃台に載せられた盃と銚子。
素早く後方より進み出た万作は、馴れた手つきで盃を差し出す関白に銚子を傾ける。
「お刀殿、菅公の盃を」
「私が……?」
「ここには美女が揃ってはいるが、大切な役目があるのだろう?閻魔の叱責を喰らいかねるような大事な話を聞かせる訳にもいかぬ。そうであろう?」
黙り込む刀葉樹の女に、関白は更に継ぐ。
「それでは、その方が酌をしてはどうだ?ほら、さっさとせぬと私は盃を三度飲み干したぞ?そのうち酔いが回り、決心とやらも付かぬかもなぁ」
幽鬼が酒に酔うなど、あり得ない。関白は酌をせねば、話も聞かぬと申しているのだ。
盃を寄せる唇は、ケラケラと笑い声を上げ、澄み渡る黒い眼が、試すように細まる様に観念したのか刀葉樹は、ズズズ……と、菅公に膝を寄せた。
「菅公、一献」
「何か、悪いような気が……」
そうは思うが、こうなれば仕方なしと、菅公も盃を差し出すと一気に煽り飲んだ。
「そう、そう。解脱、解脱と繰り返すのは、万作の往生と解脱が何らかの関係があるからであろう?」
「お察しですか」
「勿体振らずに、さっさと申せ。獄官とは口の軽い者と、勿体振る者など極端過ぎる」
「これは、なかなかの嫌味を仰る」
「悪気はない。酔いが回ってきたのかも知れぬ」
「……さようで、そうそう。獄官の口の軽さと言えば、面白い話がございました」
ポン!と手を打った刀葉樹に、地獄の話とは面白いと二人は頷き、聞き入る姿勢になった。
「俱生神という者をご存じか?」
「ああ、人が産まれる時に必ず両肩に乗ってる者じゃな?」
「さすが菅公、関白は如何に?」
「ああ、人が死ぬるまでの善行と悪行を記録し、閻魔庁の審議にて鏡と照らし合わせるのであろう?」
「お見事。私が万作を狭間に連れ出すと閻王へ報告に行ったおりの話でございます。その俱生神が驚くべきことを口にしたのです」
「何じゃ」
菅公は、盃を膳に置くと真剣な面持ちで女を見やるのだが、関白は相も変わらず、盃を万作に差し出した。
「俱生神が申しました……。万作の主は、関白秀次であったな?と」
「その口振りは、気になるではないか。早よう申せ」
「失礼、それではサラッと申しましょう……」
女は、掌を頬にあて内緒話と言わんばかりの動作をしてみせるのだが、音のない狭間ゆえに、女の声はよく響いた。
「俱生神も、万作の姿を見ておりました。あのような美童が関白の色小姓ではないとは……と、首を捻るのです。司命も司録も、衆道を心得ておらぬのだから相手が、いくら美しくても無駄だと笑いましたが……そこで俱生神は、勢いよく首を振りましてございます」
髪を振り乱し、頭を振る女は、俱生神の真似をしているのだろうが、丑の刻参りを行う鬼女のようにも見え菅公は、面白い、見てみよ――と関白に合図を送る。
しかし、視線を送られた関白の目は、刀葉樹の女に釘付けになり、その面は、みるみるうちに血の気が引くようにも見えた。
―― はて?
女の鬼女ぶりが、そのように恐ろしいのか?と、怪訝に思う菅公の耳朶を強烈な一言が貫いた。
「衆道を心得ておらぬとは、真っ赤な嘘にて!関白は、よぉぉく!心得て候ふ!と俱生神が申しました」
バタバタバタ……と畳を打つのは、盃から溢れる酒の音。菅公の眼前には、盃を差し出したまま固まる関白と、銚子を傾けたまま笑顔が固まる万作の姿。
人は、恐ろしいものを目撃したり、心に堪えられぬ衝撃を受けた時などは、全く関係のないことを考え、自身を落ち着かせることがあるが、菅公も同じであった。
音がない狭間に何故、鯉口や襖の音はあるのか?それと、滝のように落ちる酒の音も――など考えるが、答えはすぐに弾き出される。
関白の狭間ゆえに、主の身の回りには音が出る場合もあると。
―― ああ!気晴らしにもならぬ考えが浮かんでしまった!
菅公は、目の前の光景から目を逸らす。その時、バタバタバタと畳を打つ水音に、関白の窺うような声が混ざった。
「万作、酒が……」
「この銚子からは、湧き出でてくるようで。心配ご無用かと……」
関白の濃紫の袴を容赦なく濡らす様は、篠突く雨のようだ。菅公は、さりげなく腰を浮かせたが右袖が身についてこない。もしや――と思い、ちらりと視線を流すと案の定、黒袖は女の膝下に敷かれていた。
「う、ううう……」
菅公は、泣いた。
「菅公……私が泣きたい」
関白の消え入るような声音は、バタバタバタとかき消えた。
「火灯し頃とは、乙ではないか!菅公どうじゃ?酒でも出して……」
「ご冗談を。獄官が控える逢魔が時に、風流を求められては困りもうす」
「「逢魔が時……」」
呼び方一つで、一気に気味が悪い夕焼けに見えてくるのは、不思議なものである。
「さて、あまりモタモタしていると使えぬ者よと、閻王の叱責を喰らいかねませぬゆえ」
「閻魔が、この件に噛んでおるのか?」
「噛むと申すより、王として然るべきことで。罪もない者を留め置くことを、良しとされぬのです。閻王も菩薩も」
「それは分かるが、話ならば一献指しながらでも良いだろう」
「他人事のように……片手間に話をすると、決心がつきませぬぞ」
「決心など、知ったことではない」
「関白……」
「さぁ、万作!酌をいたせ」
途端、見事な黒漆の膳が菅公と関白の目の前に現れた。そこには、朱塗りの盃台に載せられた盃と銚子。
素早く後方より進み出た万作は、馴れた手つきで盃を差し出す関白に銚子を傾ける。
「お刀殿、菅公の盃を」
「私が……?」
「ここには美女が揃ってはいるが、大切な役目があるのだろう?閻魔の叱責を喰らいかねるような大事な話を聞かせる訳にもいかぬ。そうであろう?」
黙り込む刀葉樹の女に、関白は更に継ぐ。
「それでは、その方が酌をしてはどうだ?ほら、さっさとせぬと私は盃を三度飲み干したぞ?そのうち酔いが回り、決心とやらも付かぬかもなぁ」
幽鬼が酒に酔うなど、あり得ない。関白は酌をせねば、話も聞かぬと申しているのだ。
盃を寄せる唇は、ケラケラと笑い声を上げ、澄み渡る黒い眼が、試すように細まる様に観念したのか刀葉樹は、ズズズ……と、菅公に膝を寄せた。
「菅公、一献」
「何か、悪いような気が……」
そうは思うが、こうなれば仕方なしと、菅公も盃を差し出すと一気に煽り飲んだ。
「そう、そう。解脱、解脱と繰り返すのは、万作の往生と解脱が何らかの関係があるからであろう?」
「お察しですか」
「勿体振らずに、さっさと申せ。獄官とは口の軽い者と、勿体振る者など極端過ぎる」
「これは、なかなかの嫌味を仰る」
「悪気はない。酔いが回ってきたのかも知れぬ」
「……さようで、そうそう。獄官の口の軽さと言えば、面白い話がございました」
ポン!と手を打った刀葉樹に、地獄の話とは面白いと二人は頷き、聞き入る姿勢になった。
「俱生神という者をご存じか?」
「ああ、人が産まれる時に必ず両肩に乗ってる者じゃな?」
「さすが菅公、関白は如何に?」
「ああ、人が死ぬるまでの善行と悪行を記録し、閻魔庁の審議にて鏡と照らし合わせるのであろう?」
「お見事。私が万作を狭間に連れ出すと閻王へ報告に行ったおりの話でございます。その俱生神が驚くべきことを口にしたのです」
「何じゃ」
菅公は、盃を膳に置くと真剣な面持ちで女を見やるのだが、関白は相も変わらず、盃を万作に差し出した。
「俱生神が申しました……。万作の主は、関白秀次であったな?と」
「その口振りは、気になるではないか。早よう申せ」
「失礼、それではサラッと申しましょう……」
女は、掌を頬にあて内緒話と言わんばかりの動作をしてみせるのだが、音のない狭間ゆえに、女の声はよく響いた。
「俱生神も、万作の姿を見ておりました。あのような美童が関白の色小姓ではないとは……と、首を捻るのです。司命も司録も、衆道を心得ておらぬのだから相手が、いくら美しくても無駄だと笑いましたが……そこで俱生神は、勢いよく首を振りましてございます」
髪を振り乱し、頭を振る女は、俱生神の真似をしているのだろうが、丑の刻参りを行う鬼女のようにも見え菅公は、面白い、見てみよ――と関白に合図を送る。
しかし、視線を送られた関白の目は、刀葉樹の女に釘付けになり、その面は、みるみるうちに血の気が引くようにも見えた。
―― はて?
女の鬼女ぶりが、そのように恐ろしいのか?と、怪訝に思う菅公の耳朶を強烈な一言が貫いた。
「衆道を心得ておらぬとは、真っ赤な嘘にて!関白は、よぉぉく!心得て候ふ!と俱生神が申しました」
バタバタバタ……と畳を打つのは、盃から溢れる酒の音。菅公の眼前には、盃を差し出したまま固まる関白と、銚子を傾けたまま笑顔が固まる万作の姿。
人は、恐ろしいものを目撃したり、心に堪えられぬ衝撃を受けた時などは、全く関係のないことを考え、自身を落ち着かせることがあるが、菅公も同じであった。
音がない狭間に何故、鯉口や襖の音はあるのか?それと、滝のように落ちる酒の音も――など考えるが、答えはすぐに弾き出される。
関白の狭間ゆえに、主の身の回りには音が出る場合もあると。
―― ああ!気晴らしにもならぬ考えが浮かんでしまった!
菅公は、目の前の光景から目を逸らす。その時、バタバタバタと畳を打つ水音に、関白の窺うような声が混ざった。
「万作、酒が……」
「この銚子からは、湧き出でてくるようで。心配ご無用かと……」
関白の濃紫の袴を容赦なく濡らす様は、篠突く雨のようだ。菅公は、さりげなく腰を浮かせたが右袖が身についてこない。もしや――と思い、ちらりと視線を流すと案の定、黒袖は女の膝下に敷かれていた。
「う、ううう……」
菅公は、泣いた。
「菅公……私が泣きたい」
関白の消え入るような声音は、バタバタバタとかき消えた。
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