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幽冥聚楽
本音と建前
しおりを挟む「待て、順序良く話してくれぬか?まず関白は、襖が外れなかったことで、自分の狭間だと気付いた。それで良いか?」
「それと鯉口じゃ。あれ程、切れなかったのが突然、鞘を払える状態になった……その状況を覚えておるか?」
「ああ、確か女が万作を……ごほん!」
菅公は、関白の後ろで背筋を伸ばし着座する万作を目に止めると、最後まで語らなかった。
女は、言った。未練を断つ為に万作を斬り捨てよと。それを聞いた関白は微かに怒気を含ませ、答えによっては女を斬り捨てると返したことは、菅公の脳裏にしっかりと残っていた。冷厳な視線は、普段の関白からは想像出来ぬほどの厳しさだったと。
「私の意思で鯉口が切れたのだ。その前は、何故、鞘が払えぬのかと躍起になってはいたが、奥底では抜きたくないと思っておったのだろう」
「それは、何故に?」
刀葉樹の言葉は、関白の行動に念を押すかの如く、紡がれる。思えば初めから、そうだった気がすると関白は、苦笑いを浮かべた。
「私は、万作が欲していた一胴七度で介錯することが、餞になると思っていた。しかし、本音は生かしたいと思っておったのだ。だが、万作を斬った。今にして思えば、私は斬りたくなかったのだ。わかるか?」
「うむ、わかっておる。しかし、それが最善であったであろう」
「おそらくな。ただ私は、割り切れなかったのだ。狭間は正直である、本音と建前……本音を優先したのだろう」
鞘が払えなかった理由を口にした関白は、はぁ……と、やり場のない思いを溜め息に変えると、チラリと刀葉樹に視線を流す。
「鬼は人よりも正直じゃと申しておいて、狭間は結局、私のではないか」
嘘つきが――と、言いたげな関白の非難がましい目付きに、女は小首を傾げると眼を細めた。何処と無く試すような視線に、ぞくりと肌が粟立つのは、この女の妖術なのだろうか。
「その方、何がしたいのだ?手っ取り早く役目を果たし帰ってくれぬか?」
「此はしたり。私は初めに申しました。地獄とは、ただの亡者が居座るような場所ではございません……おわかりか?」
「わかっておる」
「獄官として、私は万作を救い上げたい。それには、何としても居場所を消し去る必要があるのです」
万作の居場所とは、衆合地獄であった筈だが常世の狭間に連れ出したことで、門扉を閉めたことになると女は告げる。
「今、万作の居場所はこの常世の狭間しかありませぬ。ここを出されれば……」
刀葉樹は、ゆるゆると瞼を上げる。光の屈折か?向けられた眼の中に棲む関白の姿は、ゆらゆらと揺れた。
「心情が、ぐらぁり、ぐらぁり……と揺れておるようで、ご決断を。刻を置けば別離は辛く」
早く万作を斬り捨てよ――、言葉にはしないが、はっきりと口にしたも同然の女に、関白の唇は返答を返すことが出来ず。ただただ絞り出したかのような苦しげな声音が、静寂な空間に広がった。
「……居場所が狭間しかないのならば、このまま留め置くことは?」
「……お見苦しや、おわかりであろう?」
ここは関白の狭間である。次の亡者が現れる前の繋ぎにて、永遠に棲むことなど出来ぬと、誰しもが理解していた。次の亡者が現れれば、狭間は変化する。狭間の住人以外は、初めから無かったかのように溶け、無に期すのだ。
つまり、万作は消え去る。元々存在しなかったかのように魂ごと。
「そうなる前に、十王の御前にお戻しあれ。それが万作の為であり、関白の為でもあるのです」
審議にさえ戻せば往生できる。しかし魂ごと消え去れば、往生どころの話ではない。輪廻転生も、夢のまた夢である。
「はっきりと申しましょう。関白は、芳乃を見て底に押し込めていた小姓達を思い出した。追腹を切った不憫な者達の中でも、特に万作を。怨みに囚われ、夜叉の如き者になった芳乃が早く往生することを願ったのも、万作が忠義に囚われ往生を拒むことなく、転生の輪に加わって欲しいと願ったから」
関白は、何も答えなかった。それを応と見るか?否と見るか?
菅公は、応と感じた。関白とは、元々そういう者だと知っているからだ。女は、踏みつけていた束帯の袖から膝を浮かせ、ズズ……と関白に、にじり寄った。
真正面から見つめる獄官の眼には、相も変わらず、ぐらぁり、ぐらぁりと歪む関白の姿が映り、黒く澄み渡る眼には、唇が裂けんばかりに、引き上がる刀葉樹の女。
その女が、ふっと昊天を指し示す。何かあるのか?と、二人が空を見上げると碧色が、白く滲みだしているではないか。
「何じゃ?狭間の変化にしては、妙だが?」
「白みだした?いや、青だけが溶けているようじゃ」
ギラギラと照りつけていた火輪までもが、徐々に光を失いつつある。関白は、急ぎ周りを見渡すが、白壁の塀や櫓はもとより、室内に至るまで変化はない。後ろに控える万作も消え去る様子はなく、ホッと息をつく。
「ご安心を、ただ空が気に入らぬのです。関白の狭間なれど、獄官には眩うて、眩うて……変化を促したのですが、狭間の主の許可なくしては、これが限度のようです。残念なり」
「ほぅ、やはり地の底に棲む獄官は、明るいのが苦手なのか?」
「ええ、もう少し暗い方が……」
「……好きにしろ」
その言葉を待っていたとばかりに、刀葉樹の女は、空に向かい合掌印を結ぶと何かを唱えた。ふぅ――と吹き掛けた呼吸からは、文字が燻り出で、それを二人が目にしたと同時に、一天はガラリと姿を変えた。
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