72 / 73
幽冥聚楽
本音と建前
しおりを挟む「待て、順序良く話してくれぬか?まず関白は、襖が外れなかったことで、自分の狭間だと気付いた。それで良いか?」
「それと鯉口じゃ。あれ程、切れなかったのが突然、鞘を払える状態になった……その状況を覚えておるか?」
「ああ、確か女が万作を……ごほん!」
菅公は、関白の後ろで背筋を伸ばし着座する万作を目に止めると、最後まで語らなかった。
女は、言った。未練を断つ為に万作を斬り捨てよと。それを聞いた関白は微かに怒気を含ませ、答えによっては女を斬り捨てると返したことは、菅公の脳裏にしっかりと残っていた。冷厳な視線は、普段の関白からは想像出来ぬほどの厳しさだったと。
「私の意思で鯉口が切れたのだ。その前は、何故、鞘が払えぬのかと躍起になってはいたが、奥底では抜きたくないと思っておったのだろう」
「それは、何故に?」
刀葉樹の言葉は、関白の行動に念を押すかの如く、紡がれる。思えば初めから、そうだった気がすると関白は、苦笑いを浮かべた。
「私は、万作が欲していた一胴七度で介錯することが、餞になると思っていた。しかし、本音は生かしたいと思っておったのだ。だが、万作を斬った。今にして思えば、私は斬りたくなかったのだ。わかるか?」
「うむ、わかっておる。しかし、それが最善であったであろう」
「おそらくな。ただ私は、割り切れなかったのだ。狭間は正直である、本音と建前……本音を優先したのだろう」
鞘が払えなかった理由を口にした関白は、はぁ……と、やり場のない思いを溜め息に変えると、チラリと刀葉樹に視線を流す。
「鬼は人よりも正直じゃと申しておいて、狭間は結局、私のではないか」
嘘つきが――と、言いたげな関白の非難がましい目付きに、女は小首を傾げると眼を細めた。何処と無く試すような視線に、ぞくりと肌が粟立つのは、この女の妖術なのだろうか。
「その方、何がしたいのだ?手っ取り早く役目を果たし帰ってくれぬか?」
「此はしたり。私は初めに申しました。地獄とは、ただの亡者が居座るような場所ではございません……おわかりか?」
「わかっておる」
「獄官として、私は万作を救い上げたい。それには、何としても居場所を消し去る必要があるのです」
万作の居場所とは、衆合地獄であった筈だが常世の狭間に連れ出したことで、門扉を閉めたことになると女は告げる。
「今、万作の居場所はこの常世の狭間しかありませぬ。ここを出されれば……」
刀葉樹は、ゆるゆると瞼を上げる。光の屈折か?向けられた眼の中に棲む関白の姿は、ゆらゆらと揺れた。
「心情が、ぐらぁり、ぐらぁり……と揺れておるようで、ご決断を。刻を置けば別離は辛く」
早く万作を斬り捨てよ――、言葉にはしないが、はっきりと口にしたも同然の女に、関白の唇は返答を返すことが出来ず。ただただ絞り出したかのような苦しげな声音が、静寂な空間に広がった。
「……居場所が狭間しかないのならば、このまま留め置くことは?」
「……お見苦しや、おわかりであろう?」
ここは関白の狭間である。次の亡者が現れる前の繋ぎにて、永遠に棲むことなど出来ぬと、誰しもが理解していた。次の亡者が現れれば、狭間は変化する。狭間の住人以外は、初めから無かったかのように溶け、無に期すのだ。
つまり、万作は消え去る。元々存在しなかったかのように魂ごと。
「そうなる前に、十王の御前にお戻しあれ。それが万作の為であり、関白の為でもあるのです」
審議にさえ戻せば往生できる。しかし魂ごと消え去れば、往生どころの話ではない。輪廻転生も、夢のまた夢である。
「はっきりと申しましょう。関白は、芳乃を見て底に押し込めていた小姓達を思い出した。追腹を切った不憫な者達の中でも、特に万作を。怨みに囚われ、夜叉の如き者になった芳乃が早く往生することを願ったのも、万作が忠義に囚われ往生を拒むことなく、転生の輪に加わって欲しいと願ったから」
関白は、何も答えなかった。それを応と見るか?否と見るか?
菅公は、応と感じた。関白とは、元々そういう者だと知っているからだ。女は、踏みつけていた束帯の袖から膝を浮かせ、ズズ……と関白に、にじり寄った。
真正面から見つめる獄官の眼には、相も変わらず、ぐらぁり、ぐらぁりと歪む関白の姿が映り、黒く澄み渡る眼には、唇が裂けんばかりに、引き上がる刀葉樹の女。
その女が、ふっと昊天を指し示す。何かあるのか?と、二人が空を見上げると碧色が、白く滲みだしているではないか。
「何じゃ?狭間の変化にしては、妙だが?」
「白みだした?いや、青だけが溶けているようじゃ」
ギラギラと照りつけていた火輪までもが、徐々に光を失いつつある。関白は、急ぎ周りを見渡すが、白壁の塀や櫓はもとより、室内に至るまで変化はない。後ろに控える万作も消え去る様子はなく、ホッと息をつく。
「ご安心を、ただ空が気に入らぬのです。関白の狭間なれど、獄官には眩うて、眩うて……変化を促したのですが、狭間の主の許可なくしては、これが限度のようです。残念なり」
「ほぅ、やはり地の底に棲む獄官は、明るいのが苦手なのか?」
「ええ、もう少し暗い方が……」
「……好きにしろ」
その言葉を待っていたとばかりに、刀葉樹の女は、空に向かい合掌印を結ぶと何かを唱えた。ふぅ――と吹き掛けた呼吸からは、文字が燻り出で、それを二人が目にしたと同時に、一天はガラリと姿を変えた。
0
お気に入りに追加
13
あなたにおすすめの小説
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
僕の家族は母様と母様の子供の弟妹達と使い魔達だけだよ?
闇夜の現し人(ヤミヨノウツシビト)
ファンタジー
ー 母さんは、「絶世の美女」と呼ばれるほど美しく、国の中で最も権力の強い貴族と呼ばれる公爵様の寵姫だった。
しかし、それをよく思わない正妻やその親戚たちに毒を盛られてしまった。
幸い発熱だけですんだがお腹に子が出来てしまった以上ここにいては危険だと判断し、仲の良かった侍女数名に「ここを離れる」と言い残し公爵家を後にした。
お母さん大好きっ子な主人公は、毒を盛られるという失態をおかした父親や毒を盛った親戚たちを嫌悪するがお母さんが日々、「家族で暮らしたい」と話していたため、ある出来事をきっかけに一緒に暮らし始めた。
しかし、自分が家族だと認めた者がいれば初めて見た者は跪くと言われる程の華の顔(カンバセ)を綻ばせ笑うが、家族がいなければ心底どうでもいいというような表情をしていて、人形の方がまだ表情があると言われていた。
『無能で無価値の稚拙な愚父共が僕の家族を名乗る資格なんて無いんだよ?』
さぁ、ここに超絶チートを持つ自分が認めた家族以外の生き物全てを嫌う主人公の物語が始まる。
〈念の為〉
稚拙→ちせつ
愚父→ぐふ
⚠︎注意⚠︎
不定期更新です。作者の妄想をつぎ込んだ作品です。
【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜
なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」
静寂をかき消す、衛兵の報告。
瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。
コリウス王国の国王––レオン・コリウス。
彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。
「構わん」……と。
周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。
これは……彼が望んだ結末であるからだ。
しかし彼は知らない。
この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。
王妃セレリナ。
彼女に消えて欲しかったのは……
いったい誰か?
◇◇◇
序盤はシリアスです。
楽しんでいただけるとうれしいです。
業腹
ごろごろみかん。
恋愛
夫に蔑ろにされていた妻、テレスティアはある日夜会で突然の爆発事故に巻き込まれる。唯一頼れるはずの夫はそんな時でさえテレスティアを置いて、自分の大切な主君の元に向かってしまった。
置いていかれたテレスティアはそのまま階段から落ちてしまい、頭をうってしまう。テレスティアはそのまま意識を失いーーー
気がつくと自室のベッドの上だった。
先程のことは夢ではない。実際あったことだと感じたテレスティアはそうそうに夫への見切りをつけた
王太子の子を孕まされてました
杏仁豆腐
恋愛
遊び人の王太子に無理やり犯され『私の子を孕んでくれ』と言われ……。しかし王太子には既に婚約者が……侍女だった私がその後執拗な虐めを受けるので、仕返しをしたいと思っています。
※不定期更新予定です。一話完結型です。苛め、暴力表現、性描写の表現がありますのでR指定しました。宜しくお願い致します。ノリノリの場合は大量更新したいなと思っております。
最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません
abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。
後宮はいつでも女の戦いが絶えない。
安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。
「どうして、この人を愛していたのかしら?」
ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。
それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!?
「あの人に興味はありません。勝手になさい!」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる