常世の狭間

涼寺みすゞ

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幽冥聚楽

露払

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「何と!?どういうことじゃ?」

 菅公の声音が、大きく跳ね上がった。皆で死出の旅路に出るというのに、一人だけ盃を交わしていないとは可笑しなことであると。
 その面は、不可解な物でも見るように関白主従を凝視した。
「私が話そう……」こう告げた関白は、右手に携えた一胴七度いちのどうしちどごと、今度は、しかと万作をかき抱いた。
 菅公は、ごくりと唾を呑み込む。先程過った考えが、現実味を帯びてきた気がしたのだ。それは、万作の背から刃を貫くのではないか?という、恐ろしい結末。鯉口が切られた刀は、流れるような動作で、右から左に持ち変えられた。

 ―― いつでも、鞘を払えるではないか!

 菅公は、見たくないと腰を浮かしかけるのだが、グンッと袖を引かれた。何事かと振り向くと、束帯そくたいの袖を刀葉樹の女が踏みつけているではないか。いつの間に……とは思うが、それが女の告げる言葉なのだろう。無言の意思表示、逃げるな――と。

 ―― いざとなったら、面を伏せよう。

 菅公は腹をくくり、はきと声を上げた。先を聞かせよ――と。



 ◆◆◆◆◆

 盃は、順に流れた。山本主殿助とのものすけが盃を飲み干し、秀次に渡すと最後の不破万作の番になった。

「万作……」

 名を呼び、盃を渡そうとすると何を思ったのか、万作は突然立ち上がる。素早く二三下がると、恭しく手を突いた。
「皆様方、お聞きくださいませ」
 神妙な万作の眼が、座敷を見渡した。皆も何事かと続く言葉を待つ。

「私が、推参すいさん申し上げますようにお思いでしょうが、私はお酒を頂きません。今生の別れ、死出の山をも共にという時なれば、御色付けに頂くものと分かっておりますが……。しからば、皆様は今少しお召し上がり下さいませ」

 こう言うと座敷から出ていった。皆して顔を見合せると、万作らしいと呟き笑う。
 肴挟みを、秀次に食して貰う為に辞退したのであろうと皆が思っていたのだが、そうではなかった。
 万作は、先程の机から自分の名が記された脇差を掴み取ると、早くも諸肌を脱ぎ白洲へ飛び降りた。
「万作ッ!! 」
 三十郎と主殿助は、膳を払いのける勢いで腰を上げるのだが、到底二人の制止で止まる万作ではない。両手で握った脇差しを腹の前で大きく振り上げた時「待て!」と声が掛かった。ピタリと万作を止めたのは、他でもない秀次の声。

「そなたの介錯は、秀次であるべきだ」
「勿体ない御言葉にて……」

 万作の感涙を露にする声音に、山田三十郎は「え!?」と小さく叫んだ。
 何故なら、秀次の介錯を譲った三十郎は、一番腹をと心に決めていたのだ。
 ――が、突然先を越された。
 元より、三十郎の一番腹は予想がついた。それに気付かない万作でもない。誰よりも秀次の一等を願う気持ちは、死を目前にしても変わることはなかったのだ。
 しかし、順相応にいけば一番腹は三十郎である為、万作は出し抜く形で一等を勝ち取った。
 三十郎は、大変悔しがったが、日頃の万作を知る者としては、致し方なし――と最後は、呆れ笑った。
 こうして小姓三人は白洲へ並び、秀次は刀を携え、万作の横に立つ。嫌でも目につく美しい刃文はもんに、万作は尋ねた

「その御刀の銘は?」 
「さあ?太閤へ渡してしまったからなぁ。銘などない代物だ」

 秀次は、微かに視線を逸らした。

「……左様ですか」
「そなたの介錯をしたら、くれてやろう。村正の名はないが」

 万作は、花のように笑った。
 金梨地の鞘がなくとも、地侍が持つような鞘であっても、抜身の美しさは隠しようがない。は、明らかに関白の一等である。その地位を妬み、羨み、何度も目にした一胴七度いちのどうしちどだ。万作が気付かない訳もなかった。

「……栓なきこと」
「でた!」
「私の言葉です!」
「そうであった」

 ケラケラと笑う秀次に、万作は告げた。

「死出の旅路の露払いは、我らにお任せ下さいませ」

 秀次は、微笑むだけである。返答を待つ気はなかった。困らせるだけだと分かっていたからだ。

 ―― 殿下は、すぐ参られぬ。

 おそらくウロウロと彷徨き、浄土へ往生するのは、刻が掛かるであろうと。しかし、それでも良いと万作は思った。露払いをし、浄土でお待ち申し上げれば良いのだと。
 太閤を謀ってまで、一胴七度いちのどうしちどを手元に残したのが、嘘でも自分の為と言ってくれるのならば多少、寄り道をされても許せる。万作は、今まで口に出来なかった想いを叫んだ。

「殿下は、万作の一等でございました!」

 返事など聞く気もない。願わくば、あの世にて――とだけ思い、左腹に国光を突き立て一気に真横にかき切った。
「お見事!」誰かの声が掛かるが
「まだ!」と介錯を制し、返す刀で十文字にかき切った瞬間、目の前が真っ赤に染まった。それが、万作が目にした最期の風景だった。
 人は死ぬる時、雲座うんざに乗った沢山の菩薩がお迎えに来るらしい。美しい旋律しらべかなで、死者が後ろ髪を引かれないように、浄土とは美しく、愉しく有難い所だと、不安を払拭させる為に仏みずからが歌をうたうという。

 ―― 嘘か実か……。

 魂になった万作は、六道辻の地蔵菩薩に手を合わせた。

「嘘であった。菩薩など来なかった」
「それでは、何が見えたのだ?」

 首が落ちた気味の悪い地蔵が、声を発した。万作はチラリと視線を向ける。

「地蔵は、話せるのか?」
「そなたは、人ではないゆえ聞こえるようになったということじゃ」

「……何であろうか、真っ赤に染まったのは鮮血であると思うのだが、何か見えた気がした」

 関白のお供衆として、主の恥になるような追腹にするつもりは、毛頭なかった。
 右に行き着いた刃を抜き取ると、更に十文字に、かき切るべく突き立てた――。その時、眼前は……。

「ああ!桜じゃ、あの山麓の!パッと淡い桜色が……しかし、すぐに真っ赤に染まった。折角ならば殿下のお姿も見たかった」

 不服そうに頬杖をつく万作に、地蔵が笑い声をあげると、誰か来たぞと声をかける。
 万作は、立ち上がった。畦道の暗闇から、お――い!と手を振る者が駆けてくる。
「万作殿、待たせた」
 現れた二人に万作は、弾けるような笑顔を見せた。
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