常世の狭間

涼寺みすゞ

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幽冥聚楽

陽炎の如き者

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 おたのもうします――
 こう言った女の顔は笠に隠れ、又、逆光により認めることは出来なかったのだが、女が陽炎のように、ゆらゆらと揺れ動く様にも見え、何処と無く異様な雰囲気を醸し出していた。
 来客ではあるが、おぼろきょうも、自身の殿閣へ戻っており狭間には、菅公かんこう関白かんぱくしか居ない。今、訪れ人が現れても二人では、どうしょうもないと正直に告げた。

「……それでは、待たせて頂いても?」

 二人は顔を見合せ、頷いた。常世に現れた者を追い返すわけにもいかぬ。例え、追い返したとしても亡者には帰る場所がない。
 無言の返答に女は、スルスルと滑るように上がり込み、腰を下ろした。顔が見えない分、衣や所作にどうしても目がいってしまう。女は、鮮やかな小袖を着ていた。肩口はやや朱色気味であり、裾に近付くにつれ紅色に変化している。声からも衣からも若い娘であることは確実だった。

「……ところで、菅笠すげがさは取らぬのか?」
「ご無礼を」

 室内に入ったというのに、笠を被ったままの女に菅公かんこうが声をかけた。
 女は言われて気付いたらしく、おもてを伏せると顎にかかる白紐をとく。
 そっと笠を下ろし、ゆるゆると顔を上げた。何処にでも居そうな顔だ。色が白いわけでも日焼けしているわけでもなし、鼻も低くもなく、高くもない。ただ、頬骨あたりにある雀卵斑そばかすが、異様に悪目立ちし、お世辞にも美人と言える顔立ちではなかった。
 しかし、滑るような足運びや、笠を取る仕草など、所作が美しい女であった。

「名は?……ああ、名乗るな。適当な名を名乗ってくれ」
「適当な……?」

「こちらの菅公かんこうは、いみなを嫌うのでな。だからといって、これ女――などと呼ぶわけにもいかぬ。私は関白かんぱくじゃ」
「成る程……それでは、私はソレでようございます」

 女は、ツッ……と指を差す。それは関白かんぱくの手に握られた物を差していた。

一胴七度いちのどうしちど?」
「いいえ、それは長うございますゆえ……でも、かたなでも」

 女は、可笑しなことを言う。普通ならば本来の名を由来とするものや、自身の好きな花の名を用いたりするのが、これまでの亡者の名乗りであった。このように投げやりな名乗りは初めてだと、二人は改めて女を眺めた。


 ◆◆◆◆◆


菅公かんこう、可笑しくないか?」
「私も、そう思っておった」

 二人は、続き間から女を見る。覗き見ているようで気が引けるが、目の前で話すべきことではないと、女を置いて席を立ったのだ。
 金箔を惜しげもなく使った襖の影に潜み、隣の間に座る女を覗くのは、右大臣みぎのおとど関白かんぱくという、この上ない身分の幽鬼達であるのだが、行動はとてもとは云えなかった。

「何が可笑しいと思った?菅公かんこう
「常世に亡者が現れるとなると、あの二人ならば先んずこちらへ戻って来ていると思うのじゃ。そなたは何が可笑しいと思った?」

聚楽じゅらくだ。が亡者ならば、ここは変化しておるはずだ」
「元々、聚楽第じゅらくていへの変化が、あの者の念じたものだとしたら?辻褄が合うのでは?」

 菅公かんこうは、横に並び女を覗く関白かんぱくに視線を流した。朱色の御殿から、聚楽じゅらくへの変化は、あの女がもたらしたものではないか?と言うが、その言葉に関白かんぱくは首を振った。

「それならば、なおのこと。変化した段階でおぼろ殿らは、ここを留守にはせぬであろう?……それに、あのような女見たことがない」
聚楽じゅらく程の屋敷ならば、侍女など多かろうて」

「侍女が、さ迷い聚楽じゅらくを思い起こすだろうか?そこまで思い入れなどないであろう……まさか、私に気があったとか?」
「ほう、侍女の分際で殿にか?」

 二人して一頻ひとしきり笑うと、関白 かんぱく
「さぁて」と、菅公かんこうを振り返った。
「待っておれ」こう告げると、ずかずかと無遠慮に広間に足を踏み入れ、あっという間に女の眼前にしゃがみこむ。

「おかたな殿、少々ご無礼」

 関白かんぱくは、でもかたなでも、好きに呼んでくれと申した女のことをかたなと呼ぶことにしたようだ。
 女の顎に指を引っかけ、慣れた手つきで顔を上げさせる。間近で見ても見覚えなどなかった。こうなったら――と、まなこを細め、女の額に意識を集中させる。
 離れた場所から様子を伺う菅公かんこうは、気付いた。関白かんぱくが女の名を覗こうとしていることを。
 常世にいる者達は、いみなを嫌う菅公かんこうにならっている。しかし、知ろうと思えば知ることが出来るのだ。以前、関白かんぱくの名を知らぬ菅公かんこうに「額に意識を集中させて、覗いてみよ」と言ったのは、他ならぬ関白かんぱくだ。それを女にやろうとしていると。

「……苦しゅうない、もそっと近こう寄れ――などと申されるおつもりか?」
「そのようなつもりはない」

「……それでは、私の顔に何かついておりますのか?」
「ついてはおらぬが……少々、黙っていてくれぬか?集中できぬ」

 懸命に女の名を覗こうと、意識を集中させるのだが、もう一歩という所で気が削がれ、なかなか上手くいかない。関白かんぱくは、まじまじと女のおもてを見つめた。

「……いつも、そのような目で女子を?」
「はぁ?」

 先程から、可笑しなことを口走る女に関白かんぱくは、思わず指を滑らせた。何の特徴もない女の顔に見覚えなどなかった。ただ、非難がましい声音と、じとっと疑いを掛けるような恨みがましい視線は、見たことがある。

 ―― これは猜忌さいき

 女は、ずずず――と膝を滑らせ間合いを詰めた。膝頭が触れあう程の近さ、女のまなこに灯る関白かんぱくの姿が、ゆらり、ゆらり――、陽炎のように揺れた。

『孫七郎、そなたは大事な跡取りじゃで』
 明るく笑う声が木霊する。
 頭を撫でる手は限りなく優しく、真っ直ぐに向けられた眼差しは、肉親の情深し。

 ―― 何をどうしたら、あのように妬まれたのだろうか?
 
 考えないようにしていた事柄が、自然と浮かぶ。――と、同時に女の額に文字のような物が、ゆらりくゆる。揺れ動くものは、風にそよぐ領巾ひれのようだ。

 ―― この女……!

 関白かんぱくは、身をよじるように顔を背け、女を突き飛ばした。力の加減などしなかった、女は勢いよく膝を崩し倒れ込む。黒髪の乱れと共に、朧気に浮かんだかに見えた文字は、くゆり消えた――。
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