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幽冥聚楽
陽炎
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真夏の火輪は、ジリジリと金瓦を焼きつける。陽炎立つようにも見ゆるが、今回の常世は、まるで熱がなかった。
それでは冷えているのか?と云われれば、そうでもない。暑くもなく、寒くもなく――といった所だ。
常世の狭間は、訪れ人により造り出される。風景も気温も、基本的に訪れ人の念じた物だと関白は思っていた。
現に、誰も来なかった時は菅公の御世だ。春麗らかな心地よい季節であり、毎度の如く鴬が囀り、仄かな梅の香りが鼻先をくすぐる。
広大な庭園の水流を眺め、筆を走らせる菅公は、いつも楽しそうだった。望んで作り上げた、己の常世なのだから、心踊るのも然もありなん。
だが、聚楽の主はこう思う。
―― 全く、楽しくない。
これが、本心だ。
しかし背後に控える者達は、生前同様に美を競い合い、貝合わせや歌詠みを楽しんでいるのだ。口が避けても、楽しくないなど言えぬ――と頬杖を突き、次の訪れ人を待つ日々が続いていたのだが、一向に誰も来ない上にうたた寝をすれば、昔の夢をみる始末。
関白は、眼を細め、遠くを眺める。白壁続く長塀、日輪が反射し黄金の輝きを放つ金瓦。ここは、絢爛豪華な聚楽第。
主は、輝く将来を約束されたはずだった、関白豊臣秀次。
「菅公、こういう時に限って、誰も来ぬとは如何なることだ?」
チラリと視線を流し、背後に誰もいないことを確認すると本音を漏らした。
「関白は、ここが嫌なのか?」
「ああ、嫌いじゃ」
「そうじゃなぁ、辛い思いが甦るとなると少々、きついな……私は、珍しい物を見れて楽しんでおるが」
「珍しいとは何ぞ?」
関白は、微かに眉を上げた。
これじゃ――と、菅公は一言申し、紫の布を巻き付けた物を目の前に置いた。
何処からどう見ても刀だ。
何が珍しいのかわからないと、関白は首を傾げた。菅公は、意味ありげに唇を引き上げると「刀は、珍しくないか?」と問うた。
「……菅公、私はこう見えて刀の検分は得意でな、名物もいくつか所有しておる」
「そうであろう、そうであろう」
そんな事は存じておると、束帯の肩を揺らし、布に巻き付けられた紐を、ほどき始めた。スルスルと畳に落ちる紐と共に、巻かれた布がはだけると、立派な金梨地高蒔絵塗の鞘が現れた。
梨地とは、蒔絵を施す過程で粉をまぶし、最終的に上から透漆を塗る。その後、余分な粉を研ぐのだが、透明な漆に粉の凹凸が出来る。その様子が梨の肌に似ていることから梨地と呼ばれた。無論、金梨地なので鞘は、見事な金色をしてる。
「これは何じゃ?関白」
「何じゃとは、私の愛刀だが」
「銘は?」
「村正」
「この村正、愛刀なのに腰に差していないのだな?」
「ここで刀を差す必要はないであろう?」
「しかし、ここは関白の常世じゃ。愛刀ならば聚楽が現れた段階で、部屋の隅に現れるのでは?布を巻かれた状態で仕舞い込まれているとは、何故じゃ?」
「確かに……しかし、知らぬよ」
「ふむ、朧殿や響殿がおれば、何かわかったであろうが……仕方なし」
「常世の殿閣も、顔を出す必要があると申しておったが、帰ってきたら聞いてみると良いな。……出来れば、その前に誰かの常世に変わって欲しいが」
余程、嫌なのか関白は噛み締めるように言葉を継いだ。
「しかし、この村正とやら……そなたの愛刀なら善き代物であろうが、少々可笑しなものじゃな?」
「可笑しい?何処がじゃ?」
「ほれ、見てみよ」
菅公は、金梨地の鞘を横向きに掲げると右手で柄を握り、鞘を引き抜こうと力を込めた――が、ピクリとも動かない。まるで刀身と鞘が、吸い付いているかのようだ。
ぐ、ぐぬぬ――。くぐもる声が、菅公の喉から漏れるのみであり、鎺の音が鳴る気配もなし。
「菅公、ふざけておるのか?」
――と、問いはするが菅公の面は、みるみるうちに朱色に変わっていった。腕に込めた力は、持てる全てなのだろう。
「もしや、持ち主しか抜けぬのか?どれ、貸してみよ。この刀はな、私自ら試し斬りを行ったもので、一の胴を七度も達成した名物じゃ……」
関白は、慣れた手つきで鯉口を切る――が、カチリという音が鳴らないことに、ギョッと目を見張る。
手入れは欠かしたことがなかった。死んだあとのことは知らないが、自分が念じた常世の聚楽にあるのだから、なまくら刀な訳がない。鞘を払えば、美しい波紋を持つ村正だが、鞘から抜けない所か、鯉口さえ切れないことに関白は、驚愕の悲鳴を上げた。
「元々、こうではないのだろう?」
「当たり前だ!」
乱暴な物言いをし、胡座をかく足を投げ出した。普段、飄々と物事を受け流す関白が、叫ぶだけでも珍しいのに、崩した足の裏に鞘を挟み込み、両手で柄を引き抜こうとする姿は、面白い。
菅公は、わざとらしく声をかけた。
「関白殿下、お行儀が悪いぞよ」
「元々、私は悪いのだ!ああ、それよりコレは一大事じゃ!」
「今まで仕舞い込まれていたのだ、知らなかったと思えば良いではないか」
「知ってしまったではないか!」
名刀も、鞘が払えなければ意味がない。いくら一の胴を七度斬ったとてだ。
関白は、菅公に鞘を持たせ、両手で刀身を引き抜こうと試みた。その時――
「もうし――、おたのもうします」
何処からともなく、聞こえてきた声音は幾重にも広がる山彦のような不思議な声だった。二人は村正から視線を外した、無論声の主へ。若い娘だろうか?紅色の小袖に両の手は、ぶらりと下げ、何も手にしていない。
いつの間に現れたのだろうか、昊天に浮かぶ、雲の峰を背景に菅笠を被る女が佇んでいた。
それでは冷えているのか?と云われれば、そうでもない。暑くもなく、寒くもなく――といった所だ。
常世の狭間は、訪れ人により造り出される。風景も気温も、基本的に訪れ人の念じた物だと関白は思っていた。
現に、誰も来なかった時は菅公の御世だ。春麗らかな心地よい季節であり、毎度の如く鴬が囀り、仄かな梅の香りが鼻先をくすぐる。
広大な庭園の水流を眺め、筆を走らせる菅公は、いつも楽しそうだった。望んで作り上げた、己の常世なのだから、心踊るのも然もありなん。
だが、聚楽の主はこう思う。
―― 全く、楽しくない。
これが、本心だ。
しかし背後に控える者達は、生前同様に美を競い合い、貝合わせや歌詠みを楽しんでいるのだ。口が避けても、楽しくないなど言えぬ――と頬杖を突き、次の訪れ人を待つ日々が続いていたのだが、一向に誰も来ない上にうたた寝をすれば、昔の夢をみる始末。
関白は、眼を細め、遠くを眺める。白壁続く長塀、日輪が反射し黄金の輝きを放つ金瓦。ここは、絢爛豪華な聚楽第。
主は、輝く将来を約束されたはずだった、関白豊臣秀次。
「菅公、こういう時に限って、誰も来ぬとは如何なることだ?」
チラリと視線を流し、背後に誰もいないことを確認すると本音を漏らした。
「関白は、ここが嫌なのか?」
「ああ、嫌いじゃ」
「そうじゃなぁ、辛い思いが甦るとなると少々、きついな……私は、珍しい物を見れて楽しんでおるが」
「珍しいとは何ぞ?」
関白は、微かに眉を上げた。
これじゃ――と、菅公は一言申し、紫の布を巻き付けた物を目の前に置いた。
何処からどう見ても刀だ。
何が珍しいのかわからないと、関白は首を傾げた。菅公は、意味ありげに唇を引き上げると「刀は、珍しくないか?」と問うた。
「……菅公、私はこう見えて刀の検分は得意でな、名物もいくつか所有しておる」
「そうであろう、そうであろう」
そんな事は存じておると、束帯の肩を揺らし、布に巻き付けられた紐を、ほどき始めた。スルスルと畳に落ちる紐と共に、巻かれた布がはだけると、立派な金梨地高蒔絵塗の鞘が現れた。
梨地とは、蒔絵を施す過程で粉をまぶし、最終的に上から透漆を塗る。その後、余分な粉を研ぐのだが、透明な漆に粉の凹凸が出来る。その様子が梨の肌に似ていることから梨地と呼ばれた。無論、金梨地なので鞘は、見事な金色をしてる。
「これは何じゃ?関白」
「何じゃとは、私の愛刀だが」
「銘は?」
「村正」
「この村正、愛刀なのに腰に差していないのだな?」
「ここで刀を差す必要はないであろう?」
「しかし、ここは関白の常世じゃ。愛刀ならば聚楽が現れた段階で、部屋の隅に現れるのでは?布を巻かれた状態で仕舞い込まれているとは、何故じゃ?」
「確かに……しかし、知らぬよ」
「ふむ、朧殿や響殿がおれば、何かわかったであろうが……仕方なし」
「常世の殿閣も、顔を出す必要があると申しておったが、帰ってきたら聞いてみると良いな。……出来れば、その前に誰かの常世に変わって欲しいが」
余程、嫌なのか関白は噛み締めるように言葉を継いだ。
「しかし、この村正とやら……そなたの愛刀なら善き代物であろうが、少々可笑しなものじゃな?」
「可笑しい?何処がじゃ?」
「ほれ、見てみよ」
菅公は、金梨地の鞘を横向きに掲げると右手で柄を握り、鞘を引き抜こうと力を込めた――が、ピクリとも動かない。まるで刀身と鞘が、吸い付いているかのようだ。
ぐ、ぐぬぬ――。くぐもる声が、菅公の喉から漏れるのみであり、鎺の音が鳴る気配もなし。
「菅公、ふざけておるのか?」
――と、問いはするが菅公の面は、みるみるうちに朱色に変わっていった。腕に込めた力は、持てる全てなのだろう。
「もしや、持ち主しか抜けぬのか?どれ、貸してみよ。この刀はな、私自ら試し斬りを行ったもので、一の胴を七度も達成した名物じゃ……」
関白は、慣れた手つきで鯉口を切る――が、カチリという音が鳴らないことに、ギョッと目を見張る。
手入れは欠かしたことがなかった。死んだあとのことは知らないが、自分が念じた常世の聚楽にあるのだから、なまくら刀な訳がない。鞘を払えば、美しい波紋を持つ村正だが、鞘から抜けない所か、鯉口さえ切れないことに関白は、驚愕の悲鳴を上げた。
「元々、こうではないのだろう?」
「当たり前だ!」
乱暴な物言いをし、胡座をかく足を投げ出した。普段、飄々と物事を受け流す関白が、叫ぶだけでも珍しいのに、崩した足の裏に鞘を挟み込み、両手で柄を引き抜こうとする姿は、面白い。
菅公は、わざとらしく声をかけた。
「関白殿下、お行儀が悪いぞよ」
「元々、私は悪いのだ!ああ、それよりコレは一大事じゃ!」
「今まで仕舞い込まれていたのだ、知らなかったと思えば良いではないか」
「知ってしまったではないか!」
名刀も、鞘が払えなければ意味がない。いくら一の胴を七度斬ったとてだ。
関白は、菅公に鞘を持たせ、両手で刀身を引き抜こうと試みた。その時――
「もうし――、おたのもうします」
何処からともなく、聞こえてきた声音は幾重にも広がる山彦のような不思議な声だった。二人は村正から視線を外した、無論声の主へ。若い娘だろうか?紅色の小袖に両の手は、ぶらりと下げ、何も手にしていない。
いつの間に現れたのだろうか、昊天に浮かぶ、雲の峰を背景に菅笠を被る女が佇んでいた。
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