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幽冥竜宮
うつろい
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「足を踏み入れたな」
「閻魔が迎えに出向いた故、心配要らぬだろう」
二人は、誰にともなく言葉を漏らした。それは独り言のようであり、会話をしているようにも思えるのだが、芳乃の様子が見えない菅公は、ただ結末しか把握出来なかった。どうやら芳乃は、太郎地蔵の手引きで浄土へ往生したらしい。
過去の出来事は、浄玻璃鏡にて覗くことが出来た。この鏡は閻魔庁にある物だというのだから、浄土を映せぬとは思えなかった。しかし、さすがに極楽浄土への旅路をさ迷う魂に見せることは、憚かられるのだろう――と、理解した。
「それはそうと、勢至菩薩は吾子に孟婆茶を飲ませなんだが?あれは何故じゃ?赤子でも、炎に焼かれた記憶は残ろう」
孟婆は、煙管を咥え、ふっと白いものを燻らせた。ゆらゆらと上がる煙は、荼毘に付された人のようだ。
「綺麗さっぱり忘れさせた方が良かったろうて……何故、最後飲ませなかった?」
カッン!と灰を落とす仕草は、なかなか貫禄があるのだが、灰色の眼は疑心を浮かべているようにも見える。
それを受け、薄い唇を微かに引き上げると響は、淡々と答えた。
「赤子の記憶が鮮明に残るのは、その年までじゃ。つまり吾子は、まだ乳飲み子だったゆえ、せいぜい一つ二つ。それ以降は朧気になり自然と記憶は消え失せる。まあ、夜泣きなど大変であろうが……その程度、辛抱してもバチは当たらぬだろう」
どこか素っ気ない態度に、クスクスと喉を鳴らし「嘘を申すな、響殿」と、声を掛けたのは朧だった。
意味ありげに細まる赤い眼に、すかさず漏れた笑みの真意を問うた。
「嘘とは、どういう意味だ?朧殿」
「そなたは、閻魔に情けをかけたのだろう。浄土で再会したが、忘れ去られるのは可哀想だと。芳乃は先に生まれ変わる、その子として生を受ける吾子には、まだ刻があるゆえ……」
「ああ!成る程!……わかるか?菅公」
「わからぬ」
孟婆は、閃いたと言わんばかりに手を打ち鳴らすが菅公には、さっぱりだ。学問や世の習いならば、人には負けぬと自負するが、さすがに逝ったことがない常世のことなど分からない。
孟婆は、にやり――と真っ赤な唇を引き上げる。それは、それは嬉しそうに。やはり文章博士に、物を教えるというのは悦に入るようだ。
高説を宣ふ――とばかりに、丸めた背をピン!と伸ばし、しわがれた唇から響の真意を述べる。
「つまり、今は極楽ゆえ生前を覚えておっても問題はなし。辛い思い出など思い出すこともないであろう、如来の庇護下であるゆえな。吾子の転生まで刻はある。いよいよ……となれば、閻魔が孟婆茶を所望するであろう」
「ああ!成る程!」
あれ程、芳乃を気に掛けていたのだ、吾子のことも最期まで手順を踏み、手を貸すだろうと見込んでいるということだ。
孟婆の申すことに異論はないのだろう。響は、泡立つように消えゆく御殿を見上げた。音があれば、ゴボゴボ――と鳴り、溶けていく様子に
「次は、誰の望んだ風景が現れるのやら……」と呟いた。
「亡者が訪れておらぬ場合は、ここはどうなるのじゃ?そなたらの殿閣か?」
「いいや、その時に強く願った者の風景が現れる。つまり響殿や、私は冥府の殿閣など願うことはない。ひたすら無を決め込むと、必ず菅公の思い描くものになる」
「関白は、何も考えておらぬようでな。申し訳ないが、常に私の見たい物に変わる」
「ほう!ほう!それでは、帝の御殿が見たいのう。菅公、是非とも」
「内裏か……よし、念じてみよう」
孟婆の願いに、パン!と手を打ちならすと強く瞼をとじる。眉間にしわを寄せ、内裏、内裏、内裏、内裏……と小さく念じる様子は、呪詛でもやっているようで、何やら鬼気迫るものがあると、3人はまじまじと魅入る。
水泡となり、かき消える柱や御簾、座す置き畳の繧繝縁は、鮮やかな色が水に溶けるように、ゆらゆらと舞い上がり、菱紋様と共に消え去った。
板間には、内裏の物だろうか畳が敷き詰められ、真綿入りの茵がそれぞれの膝下に現れる。四方の縁は、緋色の派手な錦で装飾され、さすが帝の住まいであると孟婆は唸った。
襖に描かれた風景は、大きな城がそびえ立ち、貴族の屋敷が立ち並ぶ。往来を行き来する小さな人間までもが生き生きと描かれているのだが、目を見張るのは、色鮮やかな上に金箔が惜しげもなく使われていることだ。
背後にある書棚は、黒漆が見事なまでの光沢を放ち、そこには大小異なるが金箔の家紋が散りばめられていた。
開け放たれた襖の向こうに望むのは、白壁が美しい櫓、何処までも続くような長塀、後光のように輝くのは金瓦だ。
「ゴウジャスじゃぁぁぁぁ!! 」
「悪趣味じゃぁぁぁぁ!! 」
ギラギラと輝く金に、孟婆は興奮で叫び、騒ぎに瞼を上げた菅公は、背後に仰け反った。
黒漆に散らばる金の家紋は、五七桐。帝が使用するのは菊と桐の御紋だ。しかし、このきんきら御殿は内裏ではない上に、想像すらしていないと菅公は、目を回す勢いで周囲を見渡した。
「関白であろう?」
「それしかないな……」
朧と響は、顔を見合わせ笑った。
五七桐とは、帝が臣下に下賜する紋である。時代が下れば誰でも使用出来るのだが江戸以前は、そうはいかなかった。限られた大名のみが使用するのが五七桐。
下賤の身でありながら、自身の才覚で関白まで上り詰めた太閤、豊臣秀吉の紋所である。
「閻魔が迎えに出向いた故、心配要らぬだろう」
二人は、誰にともなく言葉を漏らした。それは独り言のようであり、会話をしているようにも思えるのだが、芳乃の様子が見えない菅公は、ただ結末しか把握出来なかった。どうやら芳乃は、太郎地蔵の手引きで浄土へ往生したらしい。
過去の出来事は、浄玻璃鏡にて覗くことが出来た。この鏡は閻魔庁にある物だというのだから、浄土を映せぬとは思えなかった。しかし、さすがに極楽浄土への旅路をさ迷う魂に見せることは、憚かられるのだろう――と、理解した。
「それはそうと、勢至菩薩は吾子に孟婆茶を飲ませなんだが?あれは何故じゃ?赤子でも、炎に焼かれた記憶は残ろう」
孟婆は、煙管を咥え、ふっと白いものを燻らせた。ゆらゆらと上がる煙は、荼毘に付された人のようだ。
「綺麗さっぱり忘れさせた方が良かったろうて……何故、最後飲ませなかった?」
カッン!と灰を落とす仕草は、なかなか貫禄があるのだが、灰色の眼は疑心を浮かべているようにも見える。
それを受け、薄い唇を微かに引き上げると響は、淡々と答えた。
「赤子の記憶が鮮明に残るのは、その年までじゃ。つまり吾子は、まだ乳飲み子だったゆえ、せいぜい一つ二つ。それ以降は朧気になり自然と記憶は消え失せる。まあ、夜泣きなど大変であろうが……その程度、辛抱してもバチは当たらぬだろう」
どこか素っ気ない態度に、クスクスと喉を鳴らし「嘘を申すな、響殿」と、声を掛けたのは朧だった。
意味ありげに細まる赤い眼に、すかさず漏れた笑みの真意を問うた。
「嘘とは、どういう意味だ?朧殿」
「そなたは、閻魔に情けをかけたのだろう。浄土で再会したが、忘れ去られるのは可哀想だと。芳乃は先に生まれ変わる、その子として生を受ける吾子には、まだ刻があるゆえ……」
「ああ!成る程!……わかるか?菅公」
「わからぬ」
孟婆は、閃いたと言わんばかりに手を打ち鳴らすが菅公には、さっぱりだ。学問や世の習いならば、人には負けぬと自負するが、さすがに逝ったことがない常世のことなど分からない。
孟婆は、にやり――と真っ赤な唇を引き上げる。それは、それは嬉しそうに。やはり文章博士に、物を教えるというのは悦に入るようだ。
高説を宣ふ――とばかりに、丸めた背をピン!と伸ばし、しわがれた唇から響の真意を述べる。
「つまり、今は極楽ゆえ生前を覚えておっても問題はなし。辛い思い出など思い出すこともないであろう、如来の庇護下であるゆえな。吾子の転生まで刻はある。いよいよ……となれば、閻魔が孟婆茶を所望するであろう」
「ああ!成る程!」
あれ程、芳乃を気に掛けていたのだ、吾子のことも最期まで手順を踏み、手を貸すだろうと見込んでいるということだ。
孟婆の申すことに異論はないのだろう。響は、泡立つように消えゆく御殿を見上げた。音があれば、ゴボゴボ――と鳴り、溶けていく様子に
「次は、誰の望んだ風景が現れるのやら……」と呟いた。
「亡者が訪れておらぬ場合は、ここはどうなるのじゃ?そなたらの殿閣か?」
「いいや、その時に強く願った者の風景が現れる。つまり響殿や、私は冥府の殿閣など願うことはない。ひたすら無を決め込むと、必ず菅公の思い描くものになる」
「関白は、何も考えておらぬようでな。申し訳ないが、常に私の見たい物に変わる」
「ほう!ほう!それでは、帝の御殿が見たいのう。菅公、是非とも」
「内裏か……よし、念じてみよう」
孟婆の願いに、パン!と手を打ちならすと強く瞼をとじる。眉間にしわを寄せ、内裏、内裏、内裏、内裏……と小さく念じる様子は、呪詛でもやっているようで、何やら鬼気迫るものがあると、3人はまじまじと魅入る。
水泡となり、かき消える柱や御簾、座す置き畳の繧繝縁は、鮮やかな色が水に溶けるように、ゆらゆらと舞い上がり、菱紋様と共に消え去った。
板間には、内裏の物だろうか畳が敷き詰められ、真綿入りの茵がそれぞれの膝下に現れる。四方の縁は、緋色の派手な錦で装飾され、さすが帝の住まいであると孟婆は唸った。
襖に描かれた風景は、大きな城がそびえ立ち、貴族の屋敷が立ち並ぶ。往来を行き来する小さな人間までもが生き生きと描かれているのだが、目を見張るのは、色鮮やかな上に金箔が惜しげもなく使われていることだ。
背後にある書棚は、黒漆が見事なまでの光沢を放ち、そこには大小異なるが金箔の家紋が散りばめられていた。
開け放たれた襖の向こうに望むのは、白壁が美しい櫓、何処までも続くような長塀、後光のように輝くのは金瓦だ。
「ゴウジャスじゃぁぁぁぁ!! 」
「悪趣味じゃぁぁぁぁ!! 」
ギラギラと輝く金に、孟婆は興奮で叫び、騒ぎに瞼を上げた菅公は、背後に仰け反った。
黒漆に散らばる金の家紋は、五七桐。帝が使用するのは菊と桐の御紋だ。しかし、このきんきら御殿は内裏ではない上に、想像すらしていないと菅公は、目を回す勢いで周囲を見渡した。
「関白であろう?」
「それしかないな……」
朧と響は、顔を見合わせ笑った。
五七桐とは、帝が臣下に下賜する紋である。時代が下れば誰でも使用出来るのだが江戸以前は、そうはいかなかった。限られた大名のみが使用するのが五七桐。
下賤の身でありながら、自身の才覚で関白まで上り詰めた太閤、豊臣秀吉の紋所である。
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