常世の狭間

涼寺みすゞ

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幽冥竜宮

水泡の竜宮

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 芳乃よしのは、来た時と同じように渡殿わたどのを通り、途中にあった階段を使い庭先に降りた。
 足を踏み入れた時には、水面みなもが打ち寄せ、さながら海に浮かぶ御殿であったが、今では水は引き、空も澄み渡る。目に映るすべてが、様変わりしている様子に芳乃よしのは、くすりと小さく笑った。

「私は長いこと六道辻ろくどうつじで、さ迷っていたのです。あの辻に立ち、季節が何度も何度も移り変わるのを見ていました」

 芳乃よしのは、懐かしげにまなこを細める。噛み締めるような言葉は、うっすらと紅がのった唇から溢れ落ちた。

「光輝く漆喰しっくいの白壁は、見渡す端まで長く伸び、正面に構えられた楼門ろうもんは、立派な朱色の屋根に神々しい鳳凰を掲げていた。今では鳳凰も飛び立ってしまったが、それを疑問にも思わない。辺りが移ろうのに不思議だと思う感情は、遠い昔に失くしたようで……」
「ああ、人の世など瞬きの間じゃ」

 山の畦道は、六道辻であった。
 佇む芳乃よしのの目の前に現れた、太郎に言われるがまま進んだ先には、月光に照らされた皓皓こうこうたる朱色の御殿。無数の篝火人魂に浮かび上がる広大な庭に芳乃が駆け出したのは、ついさっきの出来事だ。
 芳乃よしのは、ポツリポツリと言葉を紡ぐ。横に立つ関白かんぱくは、感情のないまなこを向けるのみだが、空洞のまなこを冷たいと感じることはなかった。

「佇む場所は、変わらない。そして考えも……私は何も変わらなかった。時が移ろうても、何故に吾子我が子を殺されねばならなかったのか?答えは出ぬ。そうこうしている内に、何故、辻に佇んでいるのか?何故、離れられないのか?単純な理由でさえ忘れ去ってしまった。吾子我が子のことさえも。その位、私はこの地に縛られておった……いや、怨念おんねんに囚われ、動くことが出来ませなんだ」
「……怨みとは、そういうものだ」

 関白かんぱくの優しさなのか、はたまた本心からか、芳乃よしのの言葉を否定もしない。理解しておると頷く様に、芳乃よしのは有難いと更に継いだ。

「人の生を終えた者達が私を素通りし、畦道を逝くのです。六道辻ろくどうつじ常世とこよと繋がっております。今なら分かるのですが、当時は全てを忘れ去っておりました。ゾロゾロと向かう先は金色の光がまばゆうて、私も……と足を進めようとした時もありましたが、足に根が張ったように動かぬのです。思えば、あれが怨みの為せる業でしょう。怨念如何なるや……忘れ去っても離れがたい。怨みだけは残っていた」

 芳乃よしのは、伏せた瞼を上げた。大きな池の縁を囲むような白砂は、光を反射しキラキラと輝く。それは極楽浄土にある七宝しっぽうの池のように思えた。

「移りゆく季節が、何度巡ったかなど分からぬ程の時を過ごしました。常世とこようつし世の流れは違うとか」
「確かに……地獄の長さなど理解出来なかったな」

 関白かんぱくは、先程きょうが語っていた等活とうかつ地獄の刑期を思い出した。1兆何千億という途方もない時間だ。

「私の瞬き一つでうつし世は、数年進んでいるのかもしれませぬ」
「ははは!それでは、さ迷っておったとしても、大したことではないな」

 芳乃よしのは、関白かんぱくを見上げ微笑んだ。

「ところで関白かんぱく、貴方は本当に関白なのですか?」
「ああ、関白かんぱくであるが?」

安芸あきにある竜宮のような御殿は、ここと似ておりますか?」

 芳乃よしのは、ぐるりと見渡した。輝く朱の御殿をまなこに焼き付けるかの如く、瞬きもせずに。
 関白かんぱくは、同じように見渡してみせるが首を振った。

「ここは、厳島いつくしまではない。厳島は海の中に鳥居が立つ。ここはどちらかと云えばお伽草子とぎぞうしの竜宮だな」
「ふふふ、やはり……楼門ろうもん辺りは、そうであろうと思うておったが御殿は……」

「ああ、御殿は貴族の屋敷じゃな。少々可笑しいが」
「どのような所が?」

 芳乃よしのは、自分が夢見た竜宮が本来の物と違ったとしても構わなかった。ただ御殿がどう可笑しいのかは興味が沸いた。
 関白かんぱくは、池の向こうに指を差し継いだ。

芳乃よしの殿は、ここへ参った時、楼門ろうもんをくぐり抜け、池に掛かる朱橋を渡った。そして……今降りて来た階段を上り御殿へ入ったであろう?」
「はい」

「貴族の屋敷とは、町方の者のように庭先を突っ切って家に入らぬのだよ」

 苦笑いを浮かべる関白かんぱくのそれは、人懐こい笑みにも見え、芳乃よしのは生前の関白かんぱくの面差しを覗いた気がした。そんな芳乃よしのの考えなど察しもしないのか、楼門ろうもんの方角を向いていた指先は、ぐるりと御殿を指す。

きょう殿らが居られた寝殿から廊下を歩き、車宿くるまやどりを経て門から外へ……」
「成る程、貴人の物とはかけ離れているようじゃ」

「それで良いのだ。町方のそなたが貴人のふりをすることもない。合わせることもない。身の丈に合うということが、如何に大切で幸せなことか……夢見た物が水泡みなわの幻であろうとも、そなたが造り出した水泡みなわの竜宮が一等良いのだ」
「しみじみと語るのじゃな」

「身に染みておるゆえ」

 御殿に背を向け、歩み出した関白かんぱくの肩は小さく波打つが、直ぐ様ピタリと止んだ。

「ここを一歩でも出たら、永遠にさようならじゃなぁ」

 芳乃よしのは視線を外した。何故なら感情を宿すことのない関白かんぱくまなこが、とても寂しげな陰りを見せた気がしたからだ。

と往生したらどうです?」
「嫌じゃ、私は生まれ変わりたくない」

「はは!人間道とは限らぬのに」
「何を申すか、私は罪を犯してはおらぬよ。いや、人として生をうけておったから罪がないわけはないか……しかし、生きる上での罪しか犯しておらぬ」

 関白かんぱくの言葉に、思わず声をあげて笑う芳乃よしのは「物は言い様じゃな」と継いだ。

関白かんぱく、貴方様のお名前を冥土の土産に聞いても?」
「すぐ忘れるくせに?」

 関白かんぱくは、ケラケラと笑った。腹に手を添え、天を仰ぎ大笑たいしょうする姿は、この世の春を謳歌したであろうの生前とは、生まれ変わりたくないと言わしめる程、辛いものだったとは想像も出来ない。
 そんなことを思い、見上げる芳乃よしの関白かんぱくは優しく微笑んだ。
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