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幽冥竜宮
大臣
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回廊を、並んで歩く二人を遠目に眺めながら孟婆は、茶杯を五つ取り出すと
「全てを忘れ、輪廻転生とは幸せであるな」と、呟いた。羨ましげな声音に視線を向けた菅公に小さく肩をすくめて見せる姿は、何処にでもいそうな老婆だ。
「これは孟婆茶ではないゆえ、安心して良い。ああ……そなたらには孟婆茶は関係ないか」
菅公は、十王の裁きを受けていない為、孟婆茶を飲んでも意味がないのであろう。十王は、言わずもがなだ。
「私も冥官の職を勤め上げ、いつかは転生の輪に入りたいのだが……」
落胆したかのように肩を落とし、背を丸める孟婆の声は言葉尻が萎む。それは無駄な願いを口にしたように。
それでも、共感するものがあったのだろう。響と朧そして太郎までもが深く頷く。皆、輪廻転生を夢見ている――と、響は呟いた。
この言葉に孟婆は、小じわがよる口許をほころばせ、枯れ枝のような指を突き出した。
「それでは、ほれ!出せ」
「何を?」
「水瓶」
「ああ、残念だが無駄だ。孟婆茶を飲んでも、私達が記憶を失くさないのと同じで私達が功徳水を飲み干しても、願いが叶うことはない」
「やはり……か。何となく、そう思っていた」
ダメ元で口にしたのだろう。孟婆は諦めが早かった。
「恋しいのぅ、人の世が。孟婆亭に隠っておるのも気が滅入るんじゃ」
「それならば、奪衣婆と役目を取っ替えてみてはどうか?」
「何を言うか、人様の衣を剥ぎ取るなど変態じゃ」
「「変態?」」
聞きなれぬ言葉に、皆が目を丸くする。孟婆は、遅れておるのぅ……と呟くと喉を潤した。
「先日、孟婆亭へ参った亡者と意気投合してな。少々話が弾んだ、変態とは普通ではない……つまり可笑しな奴という意味じゃ」
十王は、亡者の罪を暴き責め、救うのが役目であり世間話などすることもないが、孟婆は違うのだろう。
浮き世と同じで、茶をすすり日々の事柄を何気に語ることもあるのかもしれぬ――と皆、納得したが、ここにきて朧がチラリと太郎地蔵を見た。蝋燭の火先の、チロチロと揺らめく様は面白そうだ。
「ほう、それでは芳乃を冥官にしようとしていた地蔵は、十王としては変態という訳か?」
「少々違う気がするが……まあ、そんな所かもしれぬ。兎に角、私はどちらかと言えば奪衣婆よりも、刀葉樹の女の役割が似合っておると思う」
「「何をどうしたら、そう思う!? 」」
これには、響と地蔵の声が揃った。気が合わない者同士の声が揃うとは余程、腑に落ちないのだろう。
刀葉樹の女とは、衆合地獄にいる美女だ。亡者を妖艶な美貌で惑わせ、刀で出来た大樹を登らせるのだ。亡者は身も心もボロボロに切り刻まれる。
「冥府のセクスゥイー担当は、この孟婆じゃ。審議のあと記憶を消すという大事な役目がある故、仕方なく茶屋の娘のような真似をしておるが、小娘には大人の色香は出せぬよ」
「セクスゥイー?」
菅公は、首をかしげた。孟婆は、ふふんと顎を上げ、得意気に唇を引き上げる。文章博士に物を教えることが、悦に入ったようだ。
「セクスゥイーとは、妖艶という意味じゃ。これも先日、来た亡者に教えてもろうた……あ!そうそう、妖艶といえば女子を想像するが、今では男にも使うらしい」
「「男!?」」
これには、思わず響まで声を上げた。孟婆は「うむ」と頷き、顔を寄せる。白粉がしわに埋め込まれ、ギョロリと見渡す灰色の眼は、山姥を思わせる風貌でもある。濃く引かれた紅を引き上げ、そこから得意気な声音が放たれた。
「先頃まで、セクスゥイー大臣との異名を持つ者が日の本におったらしい」
「せ、セクスゥイー大臣!? 大臣とは、若くもないではないか!」
菅公は、寄せていた顔を勢いよく引き離した。
「美しい男と申すから、十五.六を想像したが……妖艶な年寄りとは……ピンとこぬな」
朧は、しなやかな指先を口許によせ、噛み締めるように呟く。
「私は、時平を想像してしまった。虫酸が走る!」
菅公は、在りし日の政敵の顔を思い出し、打ち付けもしていない檜扇からバリバリと雷を鳴らした。
孟婆が聞いたセクスゥイー大臣は、妖艶という意味で呼ばれていた訳ではないのだが、何処かで話が変わってしまったらしい。
こうして、常世の者達の認識は先頃、日本には妖艶な眉雪の老人こと、セクスゥイー大臣が君臨し、帝を補佐しているという図が成り立った。
「ところで、先頃までと申したが、そのセクスゥイー大臣は今、どうなったのじゃ?」
「政争に負けて無役になったらしい」
「あなや!! 他人とは思えぬ……ッ!」
そういえば、菅公も大臣であり、また政争に負けて太宰府に左遷された経緯があった――と、思い出した朧と響は、話を逸らさねば落雷すると頷き合う。
「……芳乃が楼門にたどり着いたようじゃな?響殿」
「ああ、そのようだな朧殿。菅公、鏡を覗こう」
さりげなく促し、皆で覗き込む。
澄み渡る水晶のごとき浄玻璃鏡には、すっかり闇が晴れた露草色の空が広がり、吾子を抱く芳乃と横に添う、関白の姿が映し出されていた。
「全てを忘れ、輪廻転生とは幸せであるな」と、呟いた。羨ましげな声音に視線を向けた菅公に小さく肩をすくめて見せる姿は、何処にでもいそうな老婆だ。
「これは孟婆茶ではないゆえ、安心して良い。ああ……そなたらには孟婆茶は関係ないか」
菅公は、十王の裁きを受けていない為、孟婆茶を飲んでも意味がないのであろう。十王は、言わずもがなだ。
「私も冥官の職を勤め上げ、いつかは転生の輪に入りたいのだが……」
落胆したかのように肩を落とし、背を丸める孟婆の声は言葉尻が萎む。それは無駄な願いを口にしたように。
それでも、共感するものがあったのだろう。響と朧そして太郎までもが深く頷く。皆、輪廻転生を夢見ている――と、響は呟いた。
この言葉に孟婆は、小じわがよる口許をほころばせ、枯れ枝のような指を突き出した。
「それでは、ほれ!出せ」
「何を?」
「水瓶」
「ああ、残念だが無駄だ。孟婆茶を飲んでも、私達が記憶を失くさないのと同じで私達が功徳水を飲み干しても、願いが叶うことはない」
「やはり……か。何となく、そう思っていた」
ダメ元で口にしたのだろう。孟婆は諦めが早かった。
「恋しいのぅ、人の世が。孟婆亭に隠っておるのも気が滅入るんじゃ」
「それならば、奪衣婆と役目を取っ替えてみてはどうか?」
「何を言うか、人様の衣を剥ぎ取るなど変態じゃ」
「「変態?」」
聞きなれぬ言葉に、皆が目を丸くする。孟婆は、遅れておるのぅ……と呟くと喉を潤した。
「先日、孟婆亭へ参った亡者と意気投合してな。少々話が弾んだ、変態とは普通ではない……つまり可笑しな奴という意味じゃ」
十王は、亡者の罪を暴き責め、救うのが役目であり世間話などすることもないが、孟婆は違うのだろう。
浮き世と同じで、茶をすすり日々の事柄を何気に語ることもあるのかもしれぬ――と皆、納得したが、ここにきて朧がチラリと太郎地蔵を見た。蝋燭の火先の、チロチロと揺らめく様は面白そうだ。
「ほう、それでは芳乃を冥官にしようとしていた地蔵は、十王としては変態という訳か?」
「少々違う気がするが……まあ、そんな所かもしれぬ。兎に角、私はどちらかと言えば奪衣婆よりも、刀葉樹の女の役割が似合っておると思う」
「「何をどうしたら、そう思う!? 」」
これには、響と地蔵の声が揃った。気が合わない者同士の声が揃うとは余程、腑に落ちないのだろう。
刀葉樹の女とは、衆合地獄にいる美女だ。亡者を妖艶な美貌で惑わせ、刀で出来た大樹を登らせるのだ。亡者は身も心もボロボロに切り刻まれる。
「冥府のセクスゥイー担当は、この孟婆じゃ。審議のあと記憶を消すという大事な役目がある故、仕方なく茶屋の娘のような真似をしておるが、小娘には大人の色香は出せぬよ」
「セクスゥイー?」
菅公は、首をかしげた。孟婆は、ふふんと顎を上げ、得意気に唇を引き上げる。文章博士に物を教えることが、悦に入ったようだ。
「セクスゥイーとは、妖艶という意味じゃ。これも先日、来た亡者に教えてもろうた……あ!そうそう、妖艶といえば女子を想像するが、今では男にも使うらしい」
「「男!?」」
これには、思わず響まで声を上げた。孟婆は「うむ」と頷き、顔を寄せる。白粉がしわに埋め込まれ、ギョロリと見渡す灰色の眼は、山姥を思わせる風貌でもある。濃く引かれた紅を引き上げ、そこから得意気な声音が放たれた。
「先頃まで、セクスゥイー大臣との異名を持つ者が日の本におったらしい」
「せ、セクスゥイー大臣!? 大臣とは、若くもないではないか!」
菅公は、寄せていた顔を勢いよく引き離した。
「美しい男と申すから、十五.六を想像したが……妖艶な年寄りとは……ピンとこぬな」
朧は、しなやかな指先を口許によせ、噛み締めるように呟く。
「私は、時平を想像してしまった。虫酸が走る!」
菅公は、在りし日の政敵の顔を思い出し、打ち付けもしていない檜扇からバリバリと雷を鳴らした。
孟婆が聞いたセクスゥイー大臣は、妖艶という意味で呼ばれていた訳ではないのだが、何処かで話が変わってしまったらしい。
こうして、常世の者達の認識は先頃、日本には妖艶な眉雪の老人こと、セクスゥイー大臣が君臨し、帝を補佐しているという図が成り立った。
「ところで、先頃までと申したが、そのセクスゥイー大臣は今、どうなったのじゃ?」
「政争に負けて無役になったらしい」
「あなや!! 他人とは思えぬ……ッ!」
そういえば、菅公も大臣であり、また政争に負けて太宰府に左遷された経緯があった――と、思い出した朧と響は、話を逸らさねば落雷すると頷き合う。
「……芳乃が楼門にたどり着いたようじゃな?響殿」
「ああ、そのようだな朧殿。菅公、鏡を覗こう」
さりげなく促し、皆で覗き込む。
澄み渡る水晶のごとき浄玻璃鏡には、すっかり闇が晴れた露草色の空が広がり、吾子を抱く芳乃と横に添う、関白の姿が映し出されていた。
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