常世の狭間

涼寺みすゞ

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幽冥竜宮

平家星

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 ジリジリと、襲いかかる頃合いを見計らっているのか孟婆もうばは、枯れ枝のような指をソワソワと蠢かせ、灰色のまなこきょうの手にする水瓶すいびょうを凝視する。
 きょうは、指先をキュッと絞る。握りしめられた拳が開かれた時には、すでに四方に飛び散っていた金色の光も、水瓶すいびょうも消え去っていた。

「どうだ?……うん、うん、そうか」

 きょうは、またしても言葉を発しない吾子あこと会話をする。吾子あこの唇は、動きもしないのだが元々赤子ということもあり、話すわけもない。おそらく念のようなもので会話をしているのだろうと、菅公かんこう関白かんぱくも尋ねはしなかった。

「ああ、そなたは人間道だ。親より先に生を終えた。今度は功徳を積み、生を全うせよ」

 吾子あこは、自身の行き先を尋ねているらしかったのだが、ここに来てきょうの眉が寄った。

「それは……、まあ、そうだが……」

 歯切れが悪くなる憂い声に、おぼろは柳眉をひそめると、チラリと太郎地蔵を一瞥した。相も変わらず背を向けている。
 孟婆もうばに至っては、何を考えているのか孟婆茶もうばちゃをガブガブと煽り飲んでいた。

「……」
 蝋燭の火先ほさきを揺らめかせ、呆れた眼差しを向けるが、その視線を勘違いしたのか
「私は、いくら飲んでも忘れぬゆえ」
 などと、自棄やけ酒ならぬ、自棄やけ茶を決め込む。おぼろは、はぁ……と溜め息をつくと
きょう殿……」と名を呼んだ。
 その声に、ゆっくりと振り返るきょうは、天女もかくありや――と言わしめる程の優艶ゆうえんな微笑みを浮かべ、薄く開く桜色の唇は、涼しげな声音を奏でる。

吾子あこは、母者ははじゃと共に人間道へ参りたいと申しておる」

 その言葉に、今まで背を向けていた地蔵がゆっくりと振り返る。細い双眸そうぼうは、感情を表さず、じっときょうを見つめていた。
 おぼろは腕を組み、孟婆もうばは茶を煽るのを止めた。共通するのは皆、深い心理まで見渡すような眼差しをきょうに向けていることだった。

「確かに……やっと出逢えた母と共にありたいと願うのは、当然であるな」

 こう呟く菅公かんこうは、そっと束帯そくたいの袖でおもてを覆った。

菅公かんこう、泣くな」
関白かんぱく、私はまだ泣いておらぬ。今からじゃ」

 芳乃よしのは、頬を濡らした。見上げる無垢な眼差しに、ごめんね、ごめんね――と繰り返す。それは今生こんじょうの最後……いや、吾子あこは産まれて死ぬるまで願いを口にしたことなどないのだ。
 ただ1つの願い事でさえ、叶えてやることも出来ない不甲斐なさに、泣くことしか出来ぬと吾子あこを抱く腕に力を込めた。

「それで良いか?」
「え?」

 きょうの問いに、思わず声を上げたのは関白かんぱくだ。

「何を妙な声を上げているのだ、芳乃よしのに尋ねているだけなのに」
「尋ねる?きょう殿、吾子あこの願いを叶える気か!? 」
功徳水くどくすいは、そういうものだ」

 水を打ったような静けさの中、誰一人として口を挟まない。おそらくきょうの言葉に反論などないのであろう。もしくは、あったとしても功徳水くどくすいを口にしたことで、反論など出来ぬのかもしれない。
 功徳水くどくすいとは、極楽浄土にある金・銀・瑠璃・玻璃はり硨磲しゃこ珊瑚さんご瑪瑙めのうで造られた七宝しっぽうの池に湧き出る水とされる。
 阿弥陀如来の脇侍きょうじである勢至菩薩せいしぼさつは、宝冠ほうかん水瓶すいびょうを掲げている。その中に功徳水くどくすいが入っているのだ。
 とても有難い水であり、何でも願いが叶うとされている。
 吾子あこは、それを口に含み、願った。
 母と共に浄土へ参り、人間道へ転生したいと。願えば、天道でも叶うのにだ。

「……芳乃よしの吾子あこはもう1度、そなたの子として産まれたいと申しておる」
きょう殿……!」

 驚き、名を呼ぶ芳乃よしのに答えもせず、きょうは継ぐ。

「犯した罪を償うと、地獄へ堕ちる覚悟があるのならば、吾子あこの願いを聞き入れ、人間道で功徳を積み直すのが良いのではないか?」

 白磁はくじのような頬を伝う涙は、さながら真珠が溢れ落ちるように、細い顎から吾子あこの産着を濡らした。
 きょうは、静かに微笑んだ、そして告げる。

芳乃よしの、母として最初で最後の吾子あこの願いを断るような真似は……」
「いたしません、今度こそ吾子我が子を育て上げます」

 涙で霞む声音が、常世とこよに反響すると、一天を覆っていた漆黒の闇がうっすらと変化する。それは徐々に夜明けを迎えるように。薄明はくめいの中、キラキラと輝く鳳凰ほうおうは、止まり木であった御殿の屋根から、ゆっくりと翼を広げ天穹てんきゅうに舞った。

「ああ、芳乃よしのが造り出した狭間はざまが消え去る時が来たようだ」

 きょうは、時明ときあかりの空に指を差す。
 そこには、東の空がうっすらと明るくなるのに、未だに輝く平家星。

芳乃よしの、生前も……そして死人になってからも、そなたを見守っていた星じゃ。平家星の別名は、という意味を持つとか?」

 切れ長の瞳は、チラリと太郎地蔵へ流されたが、その視線を当の太郎は睨み返した。その顔が面白かったのか?楽しそうに肩を揺らすきょうは、ボソリと低く呟く。

「何でも……六道を練り歩き、皆を救いあげる役目を持つ者が、自分が側に付いていなくとも芳乃よしのを見守り、何かあれば飛んで行けるようにと、そなたの頭上に輝かせていた星だとか……」

 誰が――?と、問う必要などなかった。六道すべてを行き来し、皆を救う者など1人しかいない。錫杖しゃくじょうを持ち、歩行かちで練り歩くのは地蔵菩薩だ。
 芳乃よしのは、号泣した。そして菅公かんこうも。

「御殿を出たら、記憶は消え去る。しかし平家星が導いてくれるだろう。心配することはない、が迎えに来て浄土へ導いてくれる」
「はい」

「見送りはせぬ。ここで別れだ」
「はい」

 芳乃よしのは、深々と頭を下げると立ち上がった。腕にはしっかりと吾子あこを抱いて。

菅公かんこう……は無理か、関白かんぱくは見送りに行くのだろう?」

 おぼろは、畳に張り付き号泣する菅公かんこうは、無理だとしても芳乃よしのに思い入れが深そうな関白かんぱくは、楼門ろうもんまで出向くのではないか?と声を掛けた。案の定、答えは「行く」であった。
 
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