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幽冥竜宮
功徳水
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ひとしきり笑った芳乃は、腰を折った。吾子を抱いている為、深々と――ではないが、出来る限り頭をたれる。言葉は詰まり、声は発しないが礼を表しているのだろう。
これから楼門をくぐり抜け、地獄へと旅立つ。その時には、前世の記憶も常世での記憶も消え去り、名さえも忘れているはずだ。
堕ちる先は、等活地獄。
鉄の爪を持つ亡者となり、居合わせた亡者と殺戮を繰り返す。引き裂かれ、身が崩れ去っても獄卒により、甦えらせられ永遠に亡者を殺し、殺される。
死者なれど、痛みを感じる亡者は悶え苦しむが、死ぬることはない。永劫の絶望と業苦に身を焼かれるのだ。
ただ一つ、安堵し地獄へ堕ちることが出来るのは、吾子が地蔵菩薩の救いによって浄土へ旅立てることだと、芳乃は思っていた。
「さてと、孟婆茶も飲んだことだし、芳乃とは別れだ」
名残惜しくはあるが――と、告げる響は、いつも通りの笑みを浮かべる。
「響殿、いいえ勢至菩薩様、ありがとうございました」
響は、相変わらず形のよい唇に弧を描くのみ、すると卯の花色の産着がモソモソと動いた。眠っていた吾子が目覚めたらしい。
「ああ、ちょうど吾子も目が覚めたようだな。ほら母者に別れを申しておけ。私が伝えてやろう」
響は、しなやかな指先で吾子の頬を撫でると、微かに眉を寄せた。
「ああ……それはすまなかった。うん、そうだな」
響は、うん、うんと頷き吾子に、返答を返すような言葉を掛けるのだが、周りにはどんな会話をしているのか、まったく分からない。
「朧殿、何と申しているのだ?」
「……さぁ?」
「言えぬということか?」
「まあ、言えぬなぁ。すまぬ関白、しかし響殿が教えてくれるだろう」
朧の言葉に、芳乃も頷いた。吾子が何を言っているのか、一番気になるのは芳乃であろう。注視する眼差しを胸元の吾子に向けた。
ひとしきり、うん、うんと頷いたかと思えば笑顔を見せ、母者だけ喉を潤して狡いと申している――と告げる。
吾子の頬を撫でていた指先を、自身の胸元へ引くと1度グッと握りしめる、次に花が綻ぶように指先を開いてみせた。
狩衣の袖から覗く、腕釧と同様の金色が、後光のように四方に広がったかと思うと、その光の中心には、小ぶりの水瓶。
それを目にした途端、朧が目を見張った。孟婆などは「むむ!」と、うなり声を放ち、前のめりに水瓶を凝視するではないか。
関白は、助けを求めるように菅公の束帯の袖をグイグイと引く。その顔は、あれは何なのだ!? と物申していた。そんな関白に構わず、響は水瓶を軽く振ってみせると涼やかな声音で、こう言った。
「吾子には、孟婆茶は必要ないゆえ、特別に私の持つ功徳水を飲ませてやろう」
「いや!待て!響殿!? 」
「わ、私に飲ませてくれ!!」
朧の制止も、孟婆の懇願の声にも答えず響は、水瓶の小さなふちを吾子の唇にあてると、水を流し込んだ。
「「あぁぁ~!! 勿体ない!!」」
落胆を大いに含んだ二人の声は、常世に響き渡った。
叫んだ朧は頭を抱え、孟婆は水瓶を寄越せと言わんばかりに腕を伸ばす。
冥府の者達の見せる、人と変わらぬ落胆ぶりに、ふふっ……と口許を綻ばせた菅公は、そっと関白に耳打ちした。
功徳水とは、阿弥陀如来の脇侍である勢至菩薩と、観音菩薩が持つとされるもので、とても貴重でありがたい水だと――。
「有難いとは……また、大雑把な言い回しだな。菩薩の水だから有難いというのならば、私は理解出来ぬが……」
関白は、ただ単に何でも有難がるのは如何なものかと言う。
無神論者ではないが、あまり神や仏を敬うことがない関白らしい考え方である。菅公は、檜扇を口許に寄せ、こう囁いた――。
勢至菩薩の持つ、功徳水は何でも願いが叶うと伝えられている――と。
「何だと!? 」
瞠目し、関白は叫ぶが直ぐ様、周りを見渡し声を落とした。
「私も飲みたい……」
「ああ、私もだ」
二人は、ごくり――と喉を鳴らし、同じ意見であろう明王と孟婆に視線を流すのだが、余程悔しいのか朧は、バンバンと板間を殴り付け、孟婆に至っては響の腕から、水瓶を奪い取ろうと飛びかからんばかりだ。
さすがに、あれほど大人げない行動はしないが……と、二人して顔を見合わせた。
これから楼門をくぐり抜け、地獄へと旅立つ。その時には、前世の記憶も常世での記憶も消え去り、名さえも忘れているはずだ。
堕ちる先は、等活地獄。
鉄の爪を持つ亡者となり、居合わせた亡者と殺戮を繰り返す。引き裂かれ、身が崩れ去っても獄卒により、甦えらせられ永遠に亡者を殺し、殺される。
死者なれど、痛みを感じる亡者は悶え苦しむが、死ぬることはない。永劫の絶望と業苦に身を焼かれるのだ。
ただ一つ、安堵し地獄へ堕ちることが出来るのは、吾子が地蔵菩薩の救いによって浄土へ旅立てることだと、芳乃は思っていた。
「さてと、孟婆茶も飲んだことだし、芳乃とは別れだ」
名残惜しくはあるが――と、告げる響は、いつも通りの笑みを浮かべる。
「響殿、いいえ勢至菩薩様、ありがとうございました」
響は、相変わらず形のよい唇に弧を描くのみ、すると卯の花色の産着がモソモソと動いた。眠っていた吾子が目覚めたらしい。
「ああ、ちょうど吾子も目が覚めたようだな。ほら母者に別れを申しておけ。私が伝えてやろう」
響は、しなやかな指先で吾子の頬を撫でると、微かに眉を寄せた。
「ああ……それはすまなかった。うん、そうだな」
響は、うん、うんと頷き吾子に、返答を返すような言葉を掛けるのだが、周りにはどんな会話をしているのか、まったく分からない。
「朧殿、何と申しているのだ?」
「……さぁ?」
「言えぬということか?」
「まあ、言えぬなぁ。すまぬ関白、しかし響殿が教えてくれるだろう」
朧の言葉に、芳乃も頷いた。吾子が何を言っているのか、一番気になるのは芳乃であろう。注視する眼差しを胸元の吾子に向けた。
ひとしきり、うん、うんと頷いたかと思えば笑顔を見せ、母者だけ喉を潤して狡いと申している――と告げる。
吾子の頬を撫でていた指先を、自身の胸元へ引くと1度グッと握りしめる、次に花が綻ぶように指先を開いてみせた。
狩衣の袖から覗く、腕釧と同様の金色が、後光のように四方に広がったかと思うと、その光の中心には、小ぶりの水瓶。
それを目にした途端、朧が目を見張った。孟婆などは「むむ!」と、うなり声を放ち、前のめりに水瓶を凝視するではないか。
関白は、助けを求めるように菅公の束帯の袖をグイグイと引く。その顔は、あれは何なのだ!? と物申していた。そんな関白に構わず、響は水瓶を軽く振ってみせると涼やかな声音で、こう言った。
「吾子には、孟婆茶は必要ないゆえ、特別に私の持つ功徳水を飲ませてやろう」
「いや!待て!響殿!? 」
「わ、私に飲ませてくれ!!」
朧の制止も、孟婆の懇願の声にも答えず響は、水瓶の小さなふちを吾子の唇にあてると、水を流し込んだ。
「「あぁぁ~!! 勿体ない!!」」
落胆を大いに含んだ二人の声は、常世に響き渡った。
叫んだ朧は頭を抱え、孟婆は水瓶を寄越せと言わんばかりに腕を伸ばす。
冥府の者達の見せる、人と変わらぬ落胆ぶりに、ふふっ……と口許を綻ばせた菅公は、そっと関白に耳打ちした。
功徳水とは、阿弥陀如来の脇侍である勢至菩薩と、観音菩薩が持つとされるもので、とても貴重でありがたい水だと――。
「有難いとは……また、大雑把な言い回しだな。菩薩の水だから有難いというのならば、私は理解出来ぬが……」
関白は、ただ単に何でも有難がるのは如何なものかと言う。
無神論者ではないが、あまり神や仏を敬うことがない関白らしい考え方である。菅公は、檜扇を口許に寄せ、こう囁いた――。
勢至菩薩の持つ、功徳水は何でも願いが叶うと伝えられている――と。
「何だと!? 」
瞠目し、関白は叫ぶが直ぐ様、周りを見渡し声を落とした。
「私も飲みたい……」
「ああ、私もだ」
二人は、ごくり――と喉を鳴らし、同じ意見であろう明王と孟婆に視線を流すのだが、余程悔しいのか朧は、バンバンと板間を殴り付け、孟婆に至っては響の腕から、水瓶を奪い取ろうと飛びかからんばかりだ。
さすがに、あれほど大人げない行動はしないが……と、二人して顔を見合わせた。
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