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幽冥竜宮
孟婆茶
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芳乃の眼前には、繧繝縁の置畳が四つ。
座すのは朧、響、菅公、関白。
太郎は、何故か広間の端に座り、背を向けている。そして初めて見る老婆は、畳ではなく芳乃と同じく、板間に座っていた。
勿論、朧も響も畳を勧めるのだが、老婆曰く「この方がやり易い」とか。
銀髪を頭上に結い上げた老婆は、化粧が濃い。近くで見ると白粉は、シワに埋め込まれ、紅も塗りたくったようだ。しかし、それよりも気になるのは老婆の膝先の盆だ。そこには、赤茶色の茶壺と茶筒、茶杓など様々な茶道具が並べられていた。
「芳乃、吾子は眠ったか?」
「はい」
響は黙り頷くと、チラリと老婆に視線を流した。それが合図だったのか老婆は、「孟婆じゃ」と一言だけ口にした。
「芳乃でございます」
ここに座るということは、地獄の獄卒か冥官だろうと深々と頭を下げた。
「人は六道へ向かう時、前世の記憶を消す必要がある。孟婆は、その役目を担う冥官である」
「はい」
芳乃は、涼しげな声音に耳を傾け、素直に頷いた。
「芳乃には、今から孟婆茶を飲んでもらう。この御殿を出たら全て忘れることになる。よいか」
「はい……出るまでは覚えているのでしょうか?」
「ああ。しかし、そなたが入ってきた漆喰の白壁にある楼門をくぐれば……綺麗さっぱり」
芳乃は頷き、眠る吾子に頬を寄せると、端で背を向ける太郎に身体を向けた。
「太郎地蔵様」
「……」
何を考えているのか、赤い小袖の背はピクリとも動かない。芳乃は悲しげに眉を下げたが、軽く首を横に振り、最後の別れを口にした。
「太郎どん……」
「嫌じゃ!」
「聞いてくだされ……」
「嫌じゃ!わしを忘れるなんて嫌じゃ!」
頭を振り、芳乃の今生の別れを遮り叫ぶのは太郎だ。普段の読経じみた声は鳴りを潜め、嫌だと叫ぶ音は鏧を打ち鳴らすように高い。
「これ、爺。ワガママを申すな」
「何じゃと!婆っ!わしは爺ではない!」
孟婆の勝ちか、太郎地蔵は振り返った。丸い顔にある細い双眸からは、滂沱たる涙が流れ落ちていた。
「太郎地蔵様……!」
芳乃が膝ですり寄り、袖で拭う。その袖は血に染まりはしていない。
芳乃の小袖は、幻影の現し世から戻ると、真新しい物に変わっていたのだ。おそらく、初めて袖を通した時のような状態だろう。
「のう芳乃、わしと一緒に地獄へ参ろう。閻魔庁で寝ているだけでもよいのだ」
「「はぁ? 」」
朧と響の声が揃った。構わず太郎は続ける。
「吾子も一緒じゃ!これで離れなくて済む、親子三人で愉しく暮らそう」
「こら。いつ父御になったのだ」
孟婆までもが、突っ込みを入れた。芳乃は声を上げて笑った、ひとしきり楽しげに肩を揺らすと、静かに首を振った。
「これ以上、過ちを犯すと吾子に顔向け出来ませぬ」
涙を懸命に堪え、心配をかけまいと、ぎこちなく引きあがる芳乃の唇は、震える笑みを浮かべた。覚悟が固いと察する太郎は、これ以上引き留める言葉を掛けるわけにはいかなかった。ただ一言
「……そうか、そうじゃな……」
――と、漏らすとうなだれ又、背を向けた。
困ったものだと、言わんばかりに苦笑いを浮かべた響は、孟婆に頷いた。
すると、孟婆は茶釜に柄杓を差し込んで、茶壺に注ぐ。枯れた枝のような指で小さな茶杯を引き寄せると、それに茶を移した。
菅公は、興味深いと身をのりだし、関白は味や香りが気になるのか、鼻をひくつかせている。
孟婆は、茶杯を芳乃の目の前に置いた。器が、赤茶色の為、茶の色などは分からないが、二口程の量だ。
芳乃は、茶杯を手に取り口元へ運ぶが、いざとなると躊躇してしまう。
口に含めば、現し世の記憶を失い、永遠に続く責め苦を背負う。そして何より吾子を忘却するのが辛いと。
カタカタと震える指先に、茶までもが揺れ動き動揺が形と表れてしまう。芳乃は、決意と共に指先に力を込め、左腕に抱く吾子をじっと見つめると、不安ごと一気に煽り飲んだ。
目を皿のように広げ、眺めるのは菅公と関白だ。もしかしたら、今後飲むことになるかも知れぬ茶だ。
しかも、効果は記憶を無くすものなのだ。興味はある。
「ど、どうだ?」
唾を呑み込み、真剣な様子で問う関白に、すかさず
「孟婆茶について、飲んだ者はすぐ忘れてしまうのじゃ」
――と、孟婆が返す。
関白の問う意味を読み取った上で、ニャリ……と唇を引き上げる様子は、聞いても無駄と言わんばかりだ。
チッと舌打ちした関白は、忌々しい!と、膝を叩く。その軽快な音に皆が笑った。
これから堕ちる地獄では、笑みを浮かべることなどないだろう。永遠の苦しみから逃れる術もなく、悶え死に又、甦える。
亡者同士で切り裂きあい、猛火の中、天からは熱した鉄が暴雨のように降り注ぐ。
時には、炎の口を持つ鳥や犬、狐、はたまた虫にも皮を食い破られ、肉を喰らわれる。しかし死ぬることは許されない。
獄卒が杖をつく「活!活!」と。
責め苦は永遠に続く、この奈落の底から這い出るには、どうすればいいのか?
そのようなことは、亡者には考え及びもしないのだ。一心不乱に殺戮を繰り返す。自身が何者かも、そして何を行い、このような目にあっているのかも知らず。
それを知るゆえに、皆は笑う。
地獄へ堕ちる瞬間に楽しさを目一杯、知っていて欲しいと――。
座すのは朧、響、菅公、関白。
太郎は、何故か広間の端に座り、背を向けている。そして初めて見る老婆は、畳ではなく芳乃と同じく、板間に座っていた。
勿論、朧も響も畳を勧めるのだが、老婆曰く「この方がやり易い」とか。
銀髪を頭上に結い上げた老婆は、化粧が濃い。近くで見ると白粉は、シワに埋め込まれ、紅も塗りたくったようだ。しかし、それよりも気になるのは老婆の膝先の盆だ。そこには、赤茶色の茶壺と茶筒、茶杓など様々な茶道具が並べられていた。
「芳乃、吾子は眠ったか?」
「はい」
響は黙り頷くと、チラリと老婆に視線を流した。それが合図だったのか老婆は、「孟婆じゃ」と一言だけ口にした。
「芳乃でございます」
ここに座るということは、地獄の獄卒か冥官だろうと深々と頭を下げた。
「人は六道へ向かう時、前世の記憶を消す必要がある。孟婆は、その役目を担う冥官である」
「はい」
芳乃は、涼しげな声音に耳を傾け、素直に頷いた。
「芳乃には、今から孟婆茶を飲んでもらう。この御殿を出たら全て忘れることになる。よいか」
「はい……出るまでは覚えているのでしょうか?」
「ああ。しかし、そなたが入ってきた漆喰の白壁にある楼門をくぐれば……綺麗さっぱり」
芳乃は頷き、眠る吾子に頬を寄せると、端で背を向ける太郎に身体を向けた。
「太郎地蔵様」
「……」
何を考えているのか、赤い小袖の背はピクリとも動かない。芳乃は悲しげに眉を下げたが、軽く首を横に振り、最後の別れを口にした。
「太郎どん……」
「嫌じゃ!」
「聞いてくだされ……」
「嫌じゃ!わしを忘れるなんて嫌じゃ!」
頭を振り、芳乃の今生の別れを遮り叫ぶのは太郎だ。普段の読経じみた声は鳴りを潜め、嫌だと叫ぶ音は鏧を打ち鳴らすように高い。
「これ、爺。ワガママを申すな」
「何じゃと!婆っ!わしは爺ではない!」
孟婆の勝ちか、太郎地蔵は振り返った。丸い顔にある細い双眸からは、滂沱たる涙が流れ落ちていた。
「太郎地蔵様……!」
芳乃が膝ですり寄り、袖で拭う。その袖は血に染まりはしていない。
芳乃の小袖は、幻影の現し世から戻ると、真新しい物に変わっていたのだ。おそらく、初めて袖を通した時のような状態だろう。
「のう芳乃、わしと一緒に地獄へ参ろう。閻魔庁で寝ているだけでもよいのだ」
「「はぁ? 」」
朧と響の声が揃った。構わず太郎は続ける。
「吾子も一緒じゃ!これで離れなくて済む、親子三人で愉しく暮らそう」
「こら。いつ父御になったのだ」
孟婆までもが、突っ込みを入れた。芳乃は声を上げて笑った、ひとしきり楽しげに肩を揺らすと、静かに首を振った。
「これ以上、過ちを犯すと吾子に顔向け出来ませぬ」
涙を懸命に堪え、心配をかけまいと、ぎこちなく引きあがる芳乃の唇は、震える笑みを浮かべた。覚悟が固いと察する太郎は、これ以上引き留める言葉を掛けるわけにはいかなかった。ただ一言
「……そうか、そうじゃな……」
――と、漏らすとうなだれ又、背を向けた。
困ったものだと、言わんばかりに苦笑いを浮かべた響は、孟婆に頷いた。
すると、孟婆は茶釜に柄杓を差し込んで、茶壺に注ぐ。枯れた枝のような指で小さな茶杯を引き寄せると、それに茶を移した。
菅公は、興味深いと身をのりだし、関白は味や香りが気になるのか、鼻をひくつかせている。
孟婆は、茶杯を芳乃の目の前に置いた。器が、赤茶色の為、茶の色などは分からないが、二口程の量だ。
芳乃は、茶杯を手に取り口元へ運ぶが、いざとなると躊躇してしまう。
口に含めば、現し世の記憶を失い、永遠に続く責め苦を背負う。そして何より吾子を忘却するのが辛いと。
カタカタと震える指先に、茶までもが揺れ動き動揺が形と表れてしまう。芳乃は、決意と共に指先に力を込め、左腕に抱く吾子をじっと見つめると、不安ごと一気に煽り飲んだ。
目を皿のように広げ、眺めるのは菅公と関白だ。もしかしたら、今後飲むことになるかも知れぬ茶だ。
しかも、効果は記憶を無くすものなのだ。興味はある。
「ど、どうだ?」
唾を呑み込み、真剣な様子で問う関白に、すかさず
「孟婆茶について、飲んだ者はすぐ忘れてしまうのじゃ」
――と、孟婆が返す。
関白の問う意味を読み取った上で、ニャリ……と唇を引き上げる様子は、聞いても無駄と言わんばかりだ。
チッと舌打ちした関白は、忌々しい!と、膝を叩く。その軽快な音に皆が笑った。
これから堕ちる地獄では、笑みを浮かべることなどないだろう。永遠の苦しみから逃れる術もなく、悶え死に又、甦える。
亡者同士で切り裂きあい、猛火の中、天からは熱した鉄が暴雨のように降り注ぐ。
時には、炎の口を持つ鳥や犬、狐、はたまた虫にも皮を食い破られ、肉を喰らわれる。しかし死ぬることは許されない。
獄卒が杖をつく「活!活!」と。
責め苦は永遠に続く、この奈落の底から這い出るには、どうすればいいのか?
そのようなことは、亡者には考え及びもしないのだ。一心不乱に殺戮を繰り返す。自身が何者かも、そして何を行い、このような目にあっているのかも知らず。
それを知るゆえに、皆は笑う。
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