常世の狭間

涼寺みすゞ

文字の大きさ
上 下
37 / 73
幽冥竜宮

水泡

しおりを挟む
 途端、おもてに張り付いていたきょうてのひらが、吸い付くように押し付けられた――否、正確に云うときょうてのひらに、力は入っていない。
 今までと同じく、軽くあてているようにも思われたが、どうしたことか、まるで濡れた布を、顔に張り付けられたような息苦しさを覚えた。

「――っふ!! 」

 当然の如く、息をしたいと身体が空気を求め、大きく唇を開きかけるが、張り付いたものは簡単に、それを許す気配はなかった。
 しかし、確実に息の根を止める気もないのか?僅かながらの隙間から、辛うじて吸うことは出来る。しかしながら所詮、微々たるものであり肺が満足するようなものではない。
 日照り続き、灼熱しゃくねつの大地はひび割れ、清らかな山水さんすいまでもが死を意識し、生きうおが一滴の水を欲するように、芳乃よしのの唇も又うおと同じく微々たるものを欲する。
 足りぬ、足りぬ――と、更に求めようともおもてに張り付いたものが、許さぬ、許さぬ――と、悶える苦しみから解放する気配はなかった。
 芳乃よしのは、悟った。これは、最期の瞬間だと。何十年、何百年も遠い昔、この六道辻ろくどうつじ芳乃よしのは生を終えた。足は砕け、身動きがとれぬ身体が六郎から逃げ切れるわけがない。
吾子我が子何処いずこ?」
 こう尋ねた芳乃よしのに、六郎は答えた。『――――――』と。

 ―― 何と!?

 確かに聞いたはずだった。六郎は吾子我が子むくろの在りかを口にした。それなのに、今脳裏で口を開いた六郎は声を発しなかった。
 記憶の糸を、手繰り寄せようと必死に試みるが、もやがかかったかのように六郎が唇を開けば、声音がかき消えるのだ。

 ―― このもやには覚えがある!! 

 芳乃よしのは、地蔵菩薩をいだく腕に力を込めた。すると考えを察しているのか、目の前の男が「はは!」と小さく声をあげた。それは涼しげな音――、きょうの声だった。

「覚えは……あるだろうなぁ、そなたは常世とこよへ参る時、それはそれは濃いもやに遮られていた。因に応じて果が報う……。人の行いには必ず、答えがある。それが善か、悪か、芳乃よしの、そなたのもやは誰が原因と思う?」

 ―― 原、因? 

「そう、常世とこよへ参った時、何者がそなたの記憶を邪魔しておったと思う?」

 芳乃よしのは、きょうの放つ言葉の意味が分からなかった。邪魔などする者などいないだろう、何の為にするというのだ――、そう思った。

「それがいるのだ」

 相変わらず涼しげな声音だが、芳乃よしのに伸ばされた腕は、下ろされることなく未だにおもてに張り付いていた。
 
 ―― 苦しい!

 今、何を望むか?と問われれば、息苦しさからの解放だろう。
 死して、自身の為に何かを渇望かつぼうするのは、初めてだった。
 いっそのこと、一思ひとおもいに!と願うが、これがきょうの言う、というのならば、報いを受けて当然である。塗炭とたんの苦しみを味わい、のた打ち回る。どんなに足掻あがこうとも逃れることのないごうであるからだ。

「六郎は、そなたの首を絞めた。死を覚悟して……と人間は言うが、覚悟と苦しみは決して比例しておらぬ。所詮、言うは容易たやすいのだ」

 きょうは、人の愚かさを口にした。それは呆れたような、小さな溜め息と共に吐かれ、それと同時におもてに張り付いたものが、ピタリと皮膚に沿った。
 かはっ……!芳乃よしのの喉は、微かな悲鳴を上げるが、目の前に居るであろう、輝く勢至菩薩せいしぼさつは、静かに言葉を紡いだ。

「当然ながら、そなたはいた。恨みにより、人をあやめたことを。あの時、山で男を殺さず共に逃げていたら?幸せな生を全う出来たかもしれぬ、六郎に尋ね吾子我が子の墓を聞き出し、菩提を弔う方が良かったのではないか?と」

 耳朶じだは、穏やかな声音を聞く一方で、肝心の意識は朦朧もうろうとなる。そんな中、芳乃よしのは思い出した。
 六郎は、吾子我が子むくろの在りかを口にした矢先、両腕で細首を締め上げた。節くれ立った指に、力がこもるのを肌に感じ、苦しみの中、思ったのだ。
 吾子我が子の仇を討つのと、吾子我が子の菩提を弔うのとでは、あの世で吾子我が子の罪がげんぜられるのは、どちらだったのだろうか――と。
 そして、気付いた。後者であると。
 さいの河原で、親よりも先に逝った子供らは、その罪の重さゆえに石を積み塔を作る。鬼に壊されても、幾度も幾度も石を積むのだ。

「そなたの吾子あこは、母者芳乃を夜叉の如き者に変貌させたとし、賽の河原の鬼共に執拗にやられた。他の子らは石を積むが吾子あこは、石を握ることさえも邪魔をされた。そして今も」

 ―― !?

「何を驚くことがある?ほら、気をしっかり持て。ここで意識を手放されても困る。私は、そなたをあやめようと思うている訳でも、死ぬる苦しみを与えようと思うておる訳でもない。ほら、これで楽になったか?」

 肌に吸い付くようなてのひらが、おもてから浮かされたのか、呼吸が楽になった。味わうように大きく吸い込む。
 ただの一呼吸が、このように有難いものだとは思わなかった。
 つくづく芳乃よしのは、この有難い呼吸を己が人様から奪ったことに、心底、申し訳ないと頬に涙を伝わせた。
 そんな芳乃よしのをどう思ったのか、きょうは先程の答えを、いとも簡単に漏らした。

もやは……太郎地蔵だ」
「え……何故、そのような?太郎地蔵様が何の為に……」

「そなたが亡者となり、直ぐ様常世とこよへ旅立てば、夜叉の如き心根のままであった。人をあやめ、死した者らは手に掛けられて然るべきと、己の為した悪行を正当化したであろう」

 返す言葉がないと芳乃よしのは黙り、耳を傾けた。きょうは継ぐ、

「行いの記憶をもや朧気おぼろげにし、徐々に思い出させ、悔い改めた所に手を差しのべ、浄土へいざなう――地蔵は、そう考えたはずだ。ただ予想外だったのが、そなたが地蔵のことまで忘れたことだ……ははは!痺れを切らして、太郎と名乗り現れた。そういうことだ」

 涙を流す芳乃よしのに、きょうは相も変わらず美しく微笑むと、薄い唇から

「自分の掛けた術が、自分のことも忘れさせるとは……マヌケだな」

 と、漏らした。
 当然ながら、芳乃よしのは首を振る。

「有難いことでございます」

 漏らした感謝は水泡みなわの如く、闇に漂い静かに消えた――。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

十年目の離婚

杉本凪咲
恋愛
結婚十年目。 夫は離婚を切り出しました。 愛人と、その子供と、一緒に暮らしたいからと。

王太子の子を孕まされてました

杏仁豆腐
恋愛
遊び人の王太子に無理やり犯され『私の子を孕んでくれ』と言われ……。しかし王太子には既に婚約者が……侍女だった私がその後執拗な虐めを受けるので、仕返しをしたいと思っています。 ※不定期更新予定です。一話完結型です。苛め、暴力表現、性描写の表現がありますのでR指定しました。宜しくお願い致します。ノリノリの場合は大量更新したいなと思っております。

僕の家族は母様と母様の子供の弟妹達と使い魔達だけだよ?

闇夜の現し人(ヤミヨノウツシビト)
ファンタジー
ー 母さんは、「絶世の美女」と呼ばれるほど美しく、国の中で最も権力の強い貴族と呼ばれる公爵様の寵姫だった。 しかし、それをよく思わない正妻やその親戚たちに毒を盛られてしまった。 幸い発熱だけですんだがお腹に子が出来てしまった以上ここにいては危険だと判断し、仲の良かった侍女数名に「ここを離れる」と言い残し公爵家を後にした。 お母さん大好きっ子な主人公は、毒を盛られるという失態をおかした父親や毒を盛った親戚たちを嫌悪するがお母さんが日々、「家族で暮らしたい」と話していたため、ある出来事をきっかけに一緒に暮らし始めた。 しかし、自分が家族だと認めた者がいれば初めて見た者は跪くと言われる程の華の顔(カンバセ)を綻ばせ笑うが、家族がいなければ心底どうでもいいというような表情をしていて、人形の方がまだ表情があると言われていた。 『無能で無価値の稚拙な愚父共が僕の家族を名乗る資格なんて無いんだよ?』 さぁ、ここに超絶チートを持つ自分が認めた家族以外の生き物全てを嫌う主人公の物語が始まる。 〈念の為〉 稚拙→ちせつ 愚父→ぐふ ⚠︎注意⚠︎ 不定期更新です。作者の妄想をつぎ込んだ作品です。

【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜

なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」  静寂をかき消す、衛兵の報告。  瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。  コリウス王国の国王––レオン・コリウス。  彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。 「構わん」……と。  周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。  これは……彼が望んだ結末であるからだ。  しかし彼は知らない。  この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。  王妃セレリナ。  彼女に消えて欲しかったのは……  いったい誰か?    ◇◇◇  序盤はシリアスです。  楽しんでいただけるとうれしいです。    

業腹

ごろごろみかん。
恋愛
夫に蔑ろにされていた妻、テレスティアはある日夜会で突然の爆発事故に巻き込まれる。唯一頼れるはずの夫はそんな時でさえテレスティアを置いて、自分の大切な主君の元に向かってしまった。 置いていかれたテレスティアはそのまま階段から落ちてしまい、頭をうってしまう。テレスティアはそのまま意識を失いーーー 気がつくと自室のベッドの上だった。 先程のことは夢ではない。実際あったことだと感じたテレスティアはそうそうに夫への見切りをつけた

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません

abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。 後宮はいつでも女の戦いが絶えない。 安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。 「どうして、この人を愛していたのかしら?」 ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。 それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!? 「あの人に興味はありません。勝手になさい!」

処理中です...