常世の狭間

涼寺みすゞ

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幽冥竜宮

水泡

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 途端、おもてに張り付いていたきょうてのひらが、吸い付くように押し付けられた――否、正確に云うときょうてのひらに、力は入っていない。
 今までと同じく、軽くあてているようにも思われたが、どうしたことか、まるで濡れた布を、顔に張り付けられたような息苦しさを覚えた。

「――っふ!! 」

 当然の如く、息をしたいと身体が空気を求め、大きく唇を開きかけるが、張り付いたものは簡単に、それを許す気配はなかった。
 しかし、確実に息の根を止める気もないのか?僅かながらの隙間から、辛うじて吸うことは出来る。しかしながら所詮、微々たるものであり肺が満足するようなものではない。
 日照り続き、灼熱しゃくねつの大地はひび割れ、清らかな山水さんすいまでもが死を意識し、生きうおが一滴の水を欲するように、芳乃よしのの唇も又うおと同じく微々たるものを欲する。
 足りぬ、足りぬ――と、更に求めようともおもてに張り付いたものが、許さぬ、許さぬ――と、悶える苦しみから解放する気配はなかった。
 芳乃よしのは、悟った。これは、最期の瞬間だと。何十年、何百年も遠い昔、この六道辻ろくどうつじ芳乃よしのは生を終えた。足は砕け、身動きがとれぬ身体が六郎から逃げ切れるわけがない。
吾子我が子何処いずこ?」
 こう尋ねた芳乃よしのに、六郎は答えた。『――――――』と。

 ―― 何と!?

 確かに聞いたはずだった。六郎は吾子我が子むくろの在りかを口にした。それなのに、今脳裏で口を開いた六郎は声を発しなかった。
 記憶の糸を、手繰り寄せようと必死に試みるが、もやがかかったかのように六郎が唇を開けば、声音がかき消えるのだ。

 ―― このもやには覚えがある!! 

 芳乃よしのは、地蔵菩薩をいだく腕に力を込めた。すると考えを察しているのか、目の前の男が「はは!」と小さく声をあげた。それは涼しげな音――、きょうの声だった。

「覚えは……あるだろうなぁ、そなたは常世とこよへ参る時、それはそれは濃いもやに遮られていた。因に応じて果が報う……。人の行いには必ず、答えがある。それが善か、悪か、芳乃よしの、そなたのもやは誰が原因と思う?」

 ―― 原、因? 

「そう、常世とこよへ参った時、何者がそなたの記憶を邪魔しておったと思う?」

 芳乃よしのは、きょうの放つ言葉の意味が分からなかった。邪魔などする者などいないだろう、何の為にするというのだ――、そう思った。

「それがいるのだ」

 相変わらず涼しげな声音だが、芳乃よしのに伸ばされた腕は、下ろされることなく未だにおもてに張り付いていた。
 
 ―― 苦しい!

 今、何を望むか?と問われれば、息苦しさからの解放だろう。
 死して、自身の為に何かを渇望かつぼうするのは、初めてだった。
 いっそのこと、一思ひとおもいに!と願うが、これがきょうの言う、というのならば、報いを受けて当然である。塗炭とたんの苦しみを味わい、のた打ち回る。どんなに足掻あがこうとも逃れることのないごうであるからだ。

「六郎は、そなたの首を絞めた。死を覚悟して……と人間は言うが、覚悟と苦しみは決して比例しておらぬ。所詮、言うは容易たやすいのだ」

 きょうは、人の愚かさを口にした。それは呆れたような、小さな溜め息と共に吐かれ、それと同時におもてに張り付いたものが、ピタリと皮膚に沿った。
 かはっ……!芳乃よしのの喉は、微かな悲鳴を上げるが、目の前に居るであろう、輝く勢至菩薩せいしぼさつは、静かに言葉を紡いだ。

「当然ながら、そなたはいた。恨みにより、人をあやめたことを。あの時、山で男を殺さず共に逃げていたら?幸せな生を全う出来たかもしれぬ、六郎に尋ね吾子我が子の墓を聞き出し、菩提を弔う方が良かったのではないか?と」

 耳朶じだは、穏やかな声音を聞く一方で、肝心の意識は朦朧もうろうとなる。そんな中、芳乃よしのは思い出した。
 六郎は、吾子我が子むくろの在りかを口にした矢先、両腕で細首を締め上げた。節くれ立った指に、力がこもるのを肌に感じ、苦しみの中、思ったのだ。
 吾子我が子の仇を討つのと、吾子我が子の菩提を弔うのとでは、あの世で吾子我が子の罪がげんぜられるのは、どちらだったのだろうか――と。
 そして、気付いた。後者であると。
 さいの河原で、親よりも先に逝った子供らは、その罪の重さゆえに石を積み塔を作る。鬼に壊されても、幾度も幾度も石を積むのだ。

「そなたの吾子あこは、母者芳乃を夜叉の如き者に変貌させたとし、賽の河原の鬼共に執拗にやられた。他の子らは石を積むが吾子あこは、石を握ることさえも邪魔をされた。そして今も」

 ―― !?

「何を驚くことがある?ほら、気をしっかり持て。ここで意識を手放されても困る。私は、そなたをあやめようと思うている訳でも、死ぬる苦しみを与えようと思うておる訳でもない。ほら、これで楽になったか?」

 肌に吸い付くようなてのひらが、おもてから浮かされたのか、呼吸が楽になった。味わうように大きく吸い込む。
 ただの一呼吸が、このように有難いものだとは思わなかった。
 つくづく芳乃よしのは、この有難い呼吸を己が人様から奪ったことに、心底、申し訳ないと頬に涙を伝わせた。
 そんな芳乃よしのをどう思ったのか、きょうは先程の答えを、いとも簡単に漏らした。

もやは……太郎地蔵だ」
「え……何故、そのような?太郎地蔵様が何の為に……」

「そなたが亡者となり、直ぐ様常世とこよへ旅立てば、夜叉の如き心根のままであった。人をあやめ、死した者らは手に掛けられて然るべきと、己の為した悪行を正当化したであろう」

 返す言葉がないと芳乃よしのは黙り、耳を傾けた。きょうは継ぐ、

「行いの記憶をもや朧気おぼろげにし、徐々に思い出させ、悔い改めた所に手を差しのべ、浄土へいざなう――地蔵は、そう考えたはずだ。ただ予想外だったのが、そなたが地蔵のことまで忘れたことだ……ははは!痺れを切らして、太郎と名乗り現れた。そういうことだ」

 涙を流す芳乃よしのに、きょうは相も変わらず美しく微笑むと、薄い唇から

「自分の掛けた術が、自分のことも忘れさせるとは……マヌケだな」

 と、漏らした。
 当然ながら、芳乃よしのは首を振る。

「有難いことでございます」

 漏らした感謝は水泡みなわの如く、闇に漂い静かに消えた――。
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