常世の狭間

涼寺みすゞ

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幽冥竜宮

吾子

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 うつし世と常世とこよを繋ぐ六道辻に立つのは、夜叉の如き女と金色こんじきに輝く男。
 片や、鬼女まがいの殺戮を遂げた芳乃よしのであり、もう片方は真逆のありがたい菩薩であったが、唇から放たれた言葉は、ちぐはぐなものであった。
 石塊せっかいとも云える地蔵菩薩の頭を使い、目の前の六郎を打ち殺せ――と、勢至菩薩せいしぼさつは放つ。
 それは出来ぬ――と、夜叉のような芳乃よしのが答えた、微かに震える唇が完全に閉じきらないうちに、ゴゥ――……!――と、地響きにも似た音、同時に天から螺旋状の強烈な風が吹き下ろしてきた。
 覆い被さる樹木《じゅき》の枝葉えだはは、ギシギシとしなり、金粉がまぶされたかのような葉は、バラバラと地面に降り注ぐ。
 芳乃よしのの黒髪は空を舞い、返り血に染まる小袖までもが巻き上がる程の天狗風てんぐかぜ、渦を巻き、天から地へ向かい吹き抜ける強さに、痩躯そうく芳乃よしのは、踏ん張ることしか出来ない。
 このまま巻き上げられ、あの世へ引きずられるのではないか?そう思い、地蔵菩薩を抱く腕に力を込めるのだが、無用の心配だったらしい。あれほど渦巻いていた天狗風がピタリと止み、何事もなかったかのようにきょうは微笑んでいた。
 お互い、真っ直ぐに見つめ合い対峙する、美しい勢至菩薩せいしぼさつが、その唇で次に言葉を吐くとしたら、地獄への引導だろうと芳乃よしのは覚悟を決めた。
 しかし笑みを絶やさぬ唇が、浴びせたのは『地獄への引導』ではなかった。

「成る程、なかなか良い心映えじゃ……と、誉めてやりたいところだが、無知もはなはだしい。いや、無知ではないか?愚かである、愚挙ぐきょ!この一言に尽きるわ!」

 なかなか辛辣なことをいう。しかも微笑を浮かべているのが、なお悪いと常世とこよから眺める菅公かんこうは思った。

「思慮が足りないのだ。そなたは信心する地蔵菩薩で、人をあやめる訳にはいかぬと思うだろう、だが道具が何であれ殺生はならぬのだ」
「……はい」

「ここで六郎を殺めたとしても、六郎の生涯など、とうの昔に終わっておるのだ。関係ないではないか?このまま刻が動けば、どうなるのか……覚えておらぬか?」
「覚えております」

「そうであろう?六郎は、こう言った……」

 きょうは、ザリ……と土をみ一歩踏み出すと、てのひらを掲げ芳乃よしのの顔面を覆った。
 細く、しなやかな指先ではあるが、細面の芳乃よしのの顔を覆うには、余りあるものだった。

むくろとなった妻が、でんでん太鼓を持ち出した時に、そなたが生きておることは分かっていた』

 その声に芳乃よしのは、肩を大きく震わせた。何故なら目の前のきょうから、六郎の声音がするのだ。
 まさか、刻が動き出したのか?おもてを覆うてのひらは、六郎なのか?
 そんなわけはない!とは思うものの、そう錯覚するほど、芳乃よしのの心情は乱れていた。それでも片隅に、安堵にも似た穏やかさが存在するのは、きょう勢至菩薩せいしぼさつであるということ。きょうならば、人の声音を真似ること位、いとも容易いだろう。
 涼やかな声音が野太い声音に変化し、過去の六郎の言葉放つ。このまま、命の灯火ともしびが消える、その時までをも辿るのならば、もう一度息絶える瞬間を味わうことになるのだろう。
 それは、途方もない苦しみだった。
 しかし、条件を断った芳乃よしのに、文句をいう筋合いもなければ、己のやって来たことを棚に上げ、勘弁して欲しいなど言えるものでもない。
 救いを求める立場ではなく、又、救いを求めようとは思わなかったが、霊魂とはいえ此度こたびを終える瞬間は、地蔵菩薩と共にありたいと、いだく腕に力を込めた。

『そもそも、そなたが焼け死んだとは思っておらなんだ。むくろがなかったからな。小さな吾子あこの物があったのだ、そなたが燃え尽きるわけがない……ああ、それと卯の花色の帯紐、よう見つけたな?』

 これは、最期に交わした六郎との会話であった。

 ―― ああ、やはり最期を辿って地獄へ堕ちるのか……。

 芳乃よしのは、黙り聞き入った。六郎の語りは続く。

『それは、先頃の平相国平清盛様の慶事の褒美で頂いたものじゃ。五色程の帯紐が並べられ、好きな物を一本頂いたのだが……』
「それが何故、あのような場所に……?」

 芳乃よしのは、思わず問うた。それは、生前に交わした言葉と、一言一句変わりはしなかった。
 あの時、六郎は吐き捨てるように笑った。顔は、馬鹿馬鹿しいとでも言いたげだったのを今でも覚えているのは、最期に見た夫の顔だったからだろうか?
 しかし、今の芳乃よしのは、目の前に立つ者をまなこに映すことはない。何故なら、ピタリと張り付いたてのひらが、剥がされる気配はないからだ。
 ハッ……と小さく吐く息に、微かな笑いが溢れた気がした。

『そなたが生きておると思うたからだ。隠さねば、厄介だからな』

 おそらく、転がるむくろに視線を流しているだろう。もう何十年も、何百年も過ぎ去った昔のことが、鮮明に甦る。目にしなくとも、全ての動作が魂に焼き付いているのだ。
 六郎は、焼けたむくろが発見されなかったことから、芳乃よしのが生きているのではないか?と疑った。
 妻の手前、表立って事を荒立てることは出来なかったが、褒美で貰う帯紐は迷うことなく、卯の花色に手を伸ばしたという。
 嫉妬深い妻に見つかれば、何を言われるか分かったものではないと、袖口に縫い付けたと。
 しかし、芳乃よしのを探し出す手立てもなければ、生きている確証もなし。しかし、それならそれでも良いと、生涯仕舞い込む気であったとも言った。
 多少の罪悪感もあり、供養でもあるとも。

 ―― 何が、供養か

 悪態をつきたくもなったが、少し救われた気もしたのだ。少なくとも、忘れられてはいなかったと――。

吾子あこ何処いずこじゃ?むくろは、どこで眠っておるのじゃ?」

 何十年も、何百年も昔に尋ねた最期の言葉を、芳乃よしのは放った。
 これで終われる、これで地獄へ堕ちるとしても未練を残し、さ迷うよりマシであると、震える声音を放つ唇は、うっすらと笑みを浮かべていた。
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