常世の狭間

涼寺みすゞ

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幽冥竜宮

背徳

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 賑やかな笑顔で恐ろしいことを言い放ったのは、勢至菩薩せいしぼさつだ。
 聞き間違いかと耳を疑うが、きょうは首を振ると、もう1度告げた。

「守り本尊である私が、そなたを浄土へ導くと申しているのだ。私より地蔵菩薩を信心するような輩をわざわざ、地獄の沙汰をねじ曲げてまで救う程、暇ではない」
「し、しかし……」

「何を迷うことがある?このような石に、何が出来るというのだ?私を信心した方が良いではないか、ほら……」

 美しい指先が、芳乃よしのの手に重なる。
 袖から覗く腕釧わんせんも、耳に下がる耳璫じとうも、血溜まりでぬかるむ先に輝く足釧そくせんも、菩薩の宝飾である。このように有難い姿の勢至菩薩せいしぼさつに導かれ、浄土へと旅立てるとすれば、生前どのような功徳を積んだというのであろう。
 芳乃よしのは生前の行いを省みるかの如く、きょうの細い指先が触れる、自身の荒れた手を凝視した。

 ―― 六郎をあやめるのは、仇を討つことじゃ。何が悪い?……悪くなどない、短い命を絶たれた吾子あこが不憫じゃ!

 当然の権利と言わんばかりの言葉が、脳裏で響き渡る。微笑む勢至菩薩せいしぼさつかいないだく、地蔵菩薩は同じ菩薩であるのに全く違う。
 神々しい金色の光を放ち、弧を描く唇は優美でありがたい。守り本尊であると、怨讐に囚われ鬼女の如く、人をあやめた芳乃よしのに救いを差しのべて下さるのだ。

 ―― 太郎地蔵様で、六郎の頭を打ち砕く? 

 芳乃よしのは、手にする地蔵の頭に視線を落とした。目の前の勢至菩薩せいしぼさつとは違う。金色の光も放ちはしない。

 ―― ただの石頭だ。刻が止まっていなければ我が身は六郎に、何らかの手段で息の根を止められていただろう。

 そうなれば大願を果たしもせずに、無念のまま地獄へ落とされていたはずだと思う。
 それなのに、太郎地蔵ときたら救いにも現れない上に、首と身体は切り離され、不吉極まりない。地面に倒れた身体に付けられた卯の花のよだれ掛けは、血に染まり、顔は血泥ちどろに汚れ、大きな傷はおもてを横断するかのように入っていた。
 
 ―― 汚ならしいツラだ。

 ここに至って思う、太郎地蔵は何もしてくれぬ!と。それならば、吾子我が子の仇を討ち、尚且つ浄土へ導かれる道を選んだ方が良いのではないか?
 
 ―― そうだ!そうするべきだ!迷うなど愚の骨頂なり!

「ああ!」

 芳乃よしのは、懊悩おうのうに身を震わせるような声をあげると、苦しげに柳眉を寄せ、きょうに訴えた。

きょう殿! 先程から頭の中でおぼろ殿が、何やらゴチャゴチャと申しております!」
「……申し訳ない」

 きょうは、天を見上げた。虚偽きょぎで覆われた人の心までをも、見渡せるような心眼を持っているのだ。芳乃よしのでは見えない、向こう側のおぼろの姿を捉えるのも、容易いと思われる。
 案の定「おぼろ殿は、悪びれた様子もない」と小さく笑って見せた。

「悪く思わないでくれ、おぼろ殿はどちらが得策か、そなたに申したかっただけなのだ」
「得策?」

「当然であろう?このまま刻が動けば、身体は、たちまち元の状態に戻る。骨は折れ、全身の打ち身で身動きも取れず、六郎の手にかかるだろう。そなたの大願である吾子我が子の仇はついえ去り、そなたは浄土へは参れぬ……が、私の申した通りにで六郎を討てば、やり直したうつし世ではあるが、仇も討てる上に浄土へも参れるのだ。悩むこともないであろう?」

 芳乃よしのは、腕に力を込めた。
 きょうは、美しく弧をえがく唇で、歌うように優しく言葉を紡ぐ――

「ただの石だ。そなたが山で男を襲った石、そこに転がるむくろを作り上げた石、のう?ほら、やってみよ」

 地蔵の頭を、四つのてのひらが包む。きょうの腕は、金粉が舞うように輝き、袖から覗く腕釧わんせんの目映さに目が眩みそうになるのを、堪えるように――また、煩悩に悩まされる自身を叱咤するように芳乃よしのは、しかと目を閉じた。
 頬に寄せられたきょうの唇が、そっと耳朶じだを撫でる。

「ここで討たねば、は骨折り損ではないか?さ迷う、そなたを救いに参った地蔵菩薩は、そなたを常世とこよいざなう為に姿を現したというのに……、このままでは、そなたを殺されてしまうではないか。それも又、目の前で」

 すぅ――っと、息を吸ったきょうは一気にいい放つ。

「地蔵菩薩の慈悲を無下にするな、そなたの死ぬ所を何度見せる気だ?地蔵菩薩は、血の涙を流し後悔するかもしれぬ。二度も死なせてしもうたと。、六郎の息の根を止めよ」

 菩薩の言葉とは思えぬ――と、芳乃よしのは思う。だが耳に捉える声音は、間違いなく優しく優美な勢至菩薩せいしぼさつ。だが、例え幻影のようなうつし世であろうとも、殺生を進めるとは恐ろしい。瞼を閉じる芳乃よしのは、この声の主が本当にきょうなのか?と、姿をまなこに収めるべく、長い睫毛を持ち上げた。
 視線が空で絡み合う中、先に笑みを溢したのはきょうであった。もしかしたら、初めから笑みを浮かべていた為かも知れぬ。
 吾子我が子の為に、六郎を討てと背中を押すきょうに、芳乃よしのは一度、グッと小さな唇を引き結ぶと告げた。それは小さくとも、強い意志が宿るものであった。

「太郎地蔵様で、殴り付けることは出来ませぬ」

 ――と。
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