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幽冥竜宮
死闘 ②
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「朧殿!刻を止めて芳乃殿を助けてはどうじゃ!」
浄玻璃鏡に映る芳乃は、今にも石を振り下ろす勢いであった。このままでは殺生の罪を重ねに重ねてしまう!と関白は、黙り鏡を覗く朧に提案した。提案といっても、一方的に叫んだだけであるが。
はやる気持ちを抑えがたいのか、前のめりに手を突く姿は、まるで土下座をするような格好だ。
「無駄じゃ」
涼しげな声音を吐いたのは、薄く品のある唇であった。切れ長の瞳を関白へ流すと、これは過去にあったことである――そう告げたのは、響だった。
「残念だが、あったことをなかったことには出来ぬ――が、芳乃は仕損じる。見ておれ」
言葉は、関白へ向けられてはいるが、刺すような眼差しは既に、鏡の芳乃へあてられていた。
関白は、空洞の眼を麗しい顔から引き戻した。無論、浄玻璃鏡にだ。
「あっ!! 」
途端、関白が叫んだ。曇りもない水晶の鏡には、今まさに石を振り下ろした芳乃の姿が――、吹き飛んだ!
これには、朧と響の眉根が不憫と云わんばかりに下がった。おそらく、ここが生前の芳乃が死者となる分岐だったのだろう。
地べたに這いつくばり、げぇげぇと喉を鳴らしていた六郎だったが、間合いに入った芳乃の足を、自身の足で払ったのだ。六郎は元々下級役人である放免だ、市中の狼藉者を取り押さえるのには長けている。涙で洗い流された眼の端に芳乃の姿を捉えると、すかさず膝下に向かって自身の足を勢いよく振り、蹴飛ばした。
たおやかな体躯が、その勢いに勝てるはずもない。足元を崩された芳乃は石を取り落とすのは勿論のこと、痩躯は吹き飛んだ。地面に尻餅をつくどころの話ではない。軽い身体は一度叩きつけられただけでは止まらなかった。そのまま地べたを滑り、やっと止まった。
対峙する六郎は、というと呼吸も楽になったようで苦悶の表情を浮かべていた面は色を取り戻し、垂れ流していた唾液を袖口で拭う動きも平常と変わらぬ、大きく肩で息をし這いつくばっていた姿も、今では幾ばくかの余裕があるようで、ゆらゆらと起き上がっては、皮肉げに唇を引き上げた。それは、女相手に思わぬ苦杯を舐めたことへの自身への自嘲なのか、忠告も聞かずに男に立ち向かった女への嘲笑なのか、どちらとも取れる嘲りを含む面は、ハッキリとした憎悪を双眸に表していた。
「勝負あったのではないか?なぁ、芳乃」
先程までの薄暮も、今ではすっかり宵の口。人など通るわけもない。六郎にとっても願ったり叶ったりと云ったところだろう。
ザリザリ――と、湿った土を食む音をたてながら、一歩、また一歩と詰めてくる六郎は、覆い被さる木々の葉を突き抜ける白月の光に照らされ、月と同様の氷の如き微笑を浮かべていた。
それを迎えるように細い体躯が、ゆらり――と起き上がる。
それは「今帰った」と微笑む六郎に、炉端から立ち上がり優しく迎え入れていた、美しい芳乃を思い出させた。ただし、あの頃と違うのは弾ける笑みの新妻ではなく、くくくっ……と喉を鳴らし、返り血に彩られる死んだはずの妻であった。
目の前の女は、あどけなく美しかった芳乃とは真逆――、夜叉のように恐ろしい。しかし、この世の者とも思えぬ怪しげな美しさを秘めた面であった。
「勝負?ほほほ、私にはどうでも良いこと。それよりお前様、可笑しいと思いませぬか?」
「何がじゃ」
「このような時分に、奥方が戻らぬのです。家の者が探し回っておりましょう」
「はは!明日にでも、その潰れた面が女房だとわかるだろうよ。夫の元妻を殺めたはずが、逆に殺られたと。ああ、そうだ俺が証言しよう」
「いいえ、それには及びませぬ。今頃、お前様の家は炭になっておりましょう」
「……何だと?馬鹿も休み休み言え」
六郎は不愉快だと眉尻を上げ、闇に浮かび上がる芳乃を見据えた。そんな元夫の感情を読み取ったのか、くすり――と笑うと小さく嫌々と首を振ってみせる。
役人である男と、力もない女の立場は、誰がどうみても女の方が分が悪い。次の瞬間、斬り伏せられても可笑しくないのだが、当の芳乃には余裕があるようにも見えた。それが少しばかり気味が悪い――と六郎は、現状から間合いを詰めるのを止めた。
芳乃は、よくよく言い聞かせるように慎重にゆっくりと言葉を継いだ。
「吾子は、焼き殺されました。本当はこの女子も……」
微かに面を逸らし、足元に転がる骸に向かって、ペッと唾液を吐きかけた。
怨情により、燃え盛るような怨みがましい眼は、真っ直ぐに六郎を捉えている為、女の何処に唾を吐きかけたのかは、わからない。骸に浴びせることが出来たかも――だ。
それでも、死者を冒涜するかのような行動に出たのは、転がる骸が尊くある訳がないという、芳乃の強い思いからだ。死者に鞭打つというが、打たれて然るべきと。
「焼き殺してやろうと思うたが、確実に息の根を止める為には連れ出すしかなかった」
こう、芳乃は語った。六郎は、戦慄した。
それが本当ならば、明日から住む場所も後ろ楯も失うからだ。家が燃えれば、寝る場所はない。他に通う女はいるが、そういう問題ではないのだ。肝心なのは後ろ楯。
それは、顔を潰され転がる妻の身内なのだ。妻が死んでしまえば縁は切れる、しかも死の原因が自身の元妻の仕業なら、今の職務もお役御免だ。いいや、下手したら命さえも……。ゴクリ、と生唾を飲み込み六郎は、問う。
「誰が火をつけたのだ?」
「金さえ積めば、請け負う者達はおりますよ?私と吾子を襲った輩も、それでした……そんなことより、もう都には住めませぬ、参りましょう?」
夜叉のような美しい妻が囁いた、思わず六郎は聞き返す。何処へ――と。
浄玻璃鏡に映る芳乃は、今にも石を振り下ろす勢いであった。このままでは殺生の罪を重ねに重ねてしまう!と関白は、黙り鏡を覗く朧に提案した。提案といっても、一方的に叫んだだけであるが。
はやる気持ちを抑えがたいのか、前のめりに手を突く姿は、まるで土下座をするような格好だ。
「無駄じゃ」
涼しげな声音を吐いたのは、薄く品のある唇であった。切れ長の瞳を関白へ流すと、これは過去にあったことである――そう告げたのは、響だった。
「残念だが、あったことをなかったことには出来ぬ――が、芳乃は仕損じる。見ておれ」
言葉は、関白へ向けられてはいるが、刺すような眼差しは既に、鏡の芳乃へあてられていた。
関白は、空洞の眼を麗しい顔から引き戻した。無論、浄玻璃鏡にだ。
「あっ!! 」
途端、関白が叫んだ。曇りもない水晶の鏡には、今まさに石を振り下ろした芳乃の姿が――、吹き飛んだ!
これには、朧と響の眉根が不憫と云わんばかりに下がった。おそらく、ここが生前の芳乃が死者となる分岐だったのだろう。
地べたに這いつくばり、げぇげぇと喉を鳴らしていた六郎だったが、間合いに入った芳乃の足を、自身の足で払ったのだ。六郎は元々下級役人である放免だ、市中の狼藉者を取り押さえるのには長けている。涙で洗い流された眼の端に芳乃の姿を捉えると、すかさず膝下に向かって自身の足を勢いよく振り、蹴飛ばした。
たおやかな体躯が、その勢いに勝てるはずもない。足元を崩された芳乃は石を取り落とすのは勿論のこと、痩躯は吹き飛んだ。地面に尻餅をつくどころの話ではない。軽い身体は一度叩きつけられただけでは止まらなかった。そのまま地べたを滑り、やっと止まった。
対峙する六郎は、というと呼吸も楽になったようで苦悶の表情を浮かべていた面は色を取り戻し、垂れ流していた唾液を袖口で拭う動きも平常と変わらぬ、大きく肩で息をし這いつくばっていた姿も、今では幾ばくかの余裕があるようで、ゆらゆらと起き上がっては、皮肉げに唇を引き上げた。それは、女相手に思わぬ苦杯を舐めたことへの自身への自嘲なのか、忠告も聞かずに男に立ち向かった女への嘲笑なのか、どちらとも取れる嘲りを含む面は、ハッキリとした憎悪を双眸に表していた。
「勝負あったのではないか?なぁ、芳乃」
先程までの薄暮も、今ではすっかり宵の口。人など通るわけもない。六郎にとっても願ったり叶ったりと云ったところだろう。
ザリザリ――と、湿った土を食む音をたてながら、一歩、また一歩と詰めてくる六郎は、覆い被さる木々の葉を突き抜ける白月の光に照らされ、月と同様の氷の如き微笑を浮かべていた。
それを迎えるように細い体躯が、ゆらり――と起き上がる。
それは「今帰った」と微笑む六郎に、炉端から立ち上がり優しく迎え入れていた、美しい芳乃を思い出させた。ただし、あの頃と違うのは弾ける笑みの新妻ではなく、くくくっ……と喉を鳴らし、返り血に彩られる死んだはずの妻であった。
目の前の女は、あどけなく美しかった芳乃とは真逆――、夜叉のように恐ろしい。しかし、この世の者とも思えぬ怪しげな美しさを秘めた面であった。
「勝負?ほほほ、私にはどうでも良いこと。それよりお前様、可笑しいと思いませぬか?」
「何がじゃ」
「このような時分に、奥方が戻らぬのです。家の者が探し回っておりましょう」
「はは!明日にでも、その潰れた面が女房だとわかるだろうよ。夫の元妻を殺めたはずが、逆に殺られたと。ああ、そうだ俺が証言しよう」
「いいえ、それには及びませぬ。今頃、お前様の家は炭になっておりましょう」
「……何だと?馬鹿も休み休み言え」
六郎は不愉快だと眉尻を上げ、闇に浮かび上がる芳乃を見据えた。そんな元夫の感情を読み取ったのか、くすり――と笑うと小さく嫌々と首を振ってみせる。
役人である男と、力もない女の立場は、誰がどうみても女の方が分が悪い。次の瞬間、斬り伏せられても可笑しくないのだが、当の芳乃には余裕があるようにも見えた。それが少しばかり気味が悪い――と六郎は、現状から間合いを詰めるのを止めた。
芳乃は、よくよく言い聞かせるように慎重にゆっくりと言葉を継いだ。
「吾子は、焼き殺されました。本当はこの女子も……」
微かに面を逸らし、足元に転がる骸に向かって、ペッと唾液を吐きかけた。
怨情により、燃え盛るような怨みがましい眼は、真っ直ぐに六郎を捉えている為、女の何処に唾を吐きかけたのかは、わからない。骸に浴びせることが出来たかも――だ。
それでも、死者を冒涜するかのような行動に出たのは、転がる骸が尊くある訳がないという、芳乃の強い思いからだ。死者に鞭打つというが、打たれて然るべきと。
「焼き殺してやろうと思うたが、確実に息の根を止める為には連れ出すしかなかった」
こう、芳乃は語った。六郎は、戦慄した。
それが本当ならば、明日から住む場所も後ろ楯も失うからだ。家が燃えれば、寝る場所はない。他に通う女はいるが、そういう問題ではないのだ。肝心なのは後ろ楯。
それは、顔を潰され転がる妻の身内なのだ。妻が死んでしまえば縁は切れる、しかも死の原因が自身の元妻の仕業なら、今の職務もお役御免だ。いいや、下手したら命さえも……。ゴクリ、と生唾を飲み込み六郎は、問う。
「誰が火をつけたのだ?」
「金さえ積めば、請け負う者達はおりますよ?私と吾子を襲った輩も、それでした……そんなことより、もう都には住めませぬ、参りましょう?」
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