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幽冥竜宮
本意
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◆◆◆◆◆
卯の花を持つ、愛しい貴女の手を取ることが出来たら花なんて散っても構わない。
万葉の恋歌を口ずさみ、少しばかり染まる六郎の頬は、穢れない卯の花のような白ではなく、紅梅のようであった。
芳乃が手にするのは、太郎地蔵へ供える為に手折った卯の花だが、万葉の歌のように思っているのだろうか?六郎は、その時、芳乃の手を取ることはなかった。
恥ずかしさを紛らわす為か、六郎は語った。
この万葉の歌は、安芸国にある山を題材にしてあると。そして同じ安芸に、平相国が、海に浮かぶ朱色の御殿を建てた、それはこの世の物とは思えない――、まるで竜宮であると。
不知火のように明かりが灯り、朱色の御殿は朧げに浮かび上がる、奏でられる雅楽の音色は水面に反響するかの如く、幾重にも響き渡り、美しく着飾る女官が愉しげに笑い合っているだろう。無論、六郎は見たことがないが、こう言った。
この世の春と――。
「竜宮とは……見てみたい――」
うっとりと、そう溢した芳乃に六郎は、愛おしむ眼差しを向け、囁いた。
「夫婦になろう、機会があれば安芸の国司の元で取り立てて貰おう」
芳乃は、声をあげて笑った。無論、鵜呑みにはしていない。しがない放免が国司の供をして安芸に下ることなどない。返事を待つ六郎は、そわそわと両腕を動かすのだが、芳乃は横を素通りし、しゃがみ込んだ。
畦道に佇む、太郎地蔵の双眸は、優しく芳乃を見つめ、薄い唇は微笑みを称えているようにも見える。
子供の頃から見守ってくれる太郎は、芳乃にとってかけがえのない者であった。そっと手を伸ばし、太郎の頬を撫でると恥ずかしそうに声を落とした――
「太郎地蔵様、私に夫が出来ました」と。
◆◆◆◆◆
―― 思い出に浸っている場合ではない!
芳乃は、唐櫃に六郎の衣を収めると、卯の花の帯紐を手早く締めた。見咎められては事だと上から湯巻を巻き付けると颯爽と部屋を後にする。
妻を殺し、すぐに六郎を殺める好機に恵まれるとは限らない、少しでも金になる物を持ち出す必要があった。卯の花の帯は打って付けだったのだ。
そして、こうも思う。
卯の花の帯は、もしかしたら私の為に用意された物ではないか?と。
こうして芳乃は、妻を連れ出した。道具箱を抱えた者、天秤棒を担ぐ者が家路に急ぐ刻限に、そっと抜け出し畦道をゆく。目指す先は太郎地蔵。
「旦那様は、日暮に畦道を通られます。そこで後をつけ、女の家まで付いて行きましょう」
芳乃の声音は、主である妻を心底思いやるような慈悲深さを含み、唇は妻を元気付けるように引き上がる――
―― 今宵は、目映いばかりの星空になる。
芳乃は、茜色に染まる天を仰ぎ見た。
◆◆◆◆◆
太郎の鏡に映る生前の芳乃は、妻を後ろに従え、細い小路に入っていった。そのまま突き進めば畦道の太郎地蔵に行き当たる。
「で?地蔵、私達は今から起こることを見ていれば良いのか?」
朧が問うた。
太郎は頷くと、膝を擦り常世にいる魂の芳乃に告げる。
「芳乃、そなたの後悔、未練、恨み、晴らして何の憂いもなく極楽へ旅立つ時じゃと思うておる、最後にもう一度そなたの現し世へ行って参れ」
「はい、太郎地蔵様……」
「太郎どんじゃ、太郎どんでよい」
止めどなく涙を流す芳乃の頬を太く短い指で撫でる太郎は、何やらゴニョゴニョと呟く、それが何かの呪いだったのか、芳乃の姿は煙のようにかき消えた。
御殿に寄せる水面は、相も変わらず月を映し、柱を打つさざ波は差し迫った御殿の主が、この世から消えることも関係ないとばかりに、じゃぶり、じゃぶりと水音を響かせる。
響は、ちらりと太郎を一瞥すると形の良い唇から物騒な言葉を漏らした、
「地蔵、芳乃は仕損じたのであろう」
「お見通しじゃな、菩薩」
又もや、菩薩と呼ぶ太郎に先程のような応酬は繰り返さない。ただ一言だけ告げた――
「仕損じた者ならば、そのままあの世へ送れば良い。それを本懐を遂げるように後押しするとは如何なることだ?芳乃の罪をこれ以上増やして何とする、地獄に落とす気か?お前の本意は何じゃ」
響は眉根を寄せ、厳しい言葉を吐く、その声音は涼しげなものではなく強く非難を表す、低く落ちるものであった。
驚いたのは、黙って聞いていた菅公と関白だ。ただ口を挟むことはない、何故ならば太郎地蔵と響との間には、何人たりとも口を挟めない、何かがあるように思えたからだ。
卯の花を持つ、愛しい貴女の手を取ることが出来たら花なんて散っても構わない。
万葉の恋歌を口ずさみ、少しばかり染まる六郎の頬は、穢れない卯の花のような白ではなく、紅梅のようであった。
芳乃が手にするのは、太郎地蔵へ供える為に手折った卯の花だが、万葉の歌のように思っているのだろうか?六郎は、その時、芳乃の手を取ることはなかった。
恥ずかしさを紛らわす為か、六郎は語った。
この万葉の歌は、安芸国にある山を題材にしてあると。そして同じ安芸に、平相国が、海に浮かぶ朱色の御殿を建てた、それはこの世の物とは思えない――、まるで竜宮であると。
不知火のように明かりが灯り、朱色の御殿は朧げに浮かび上がる、奏でられる雅楽の音色は水面に反響するかの如く、幾重にも響き渡り、美しく着飾る女官が愉しげに笑い合っているだろう。無論、六郎は見たことがないが、こう言った。
この世の春と――。
「竜宮とは……見てみたい――」
うっとりと、そう溢した芳乃に六郎は、愛おしむ眼差しを向け、囁いた。
「夫婦になろう、機会があれば安芸の国司の元で取り立てて貰おう」
芳乃は、声をあげて笑った。無論、鵜呑みにはしていない。しがない放免が国司の供をして安芸に下ることなどない。返事を待つ六郎は、そわそわと両腕を動かすのだが、芳乃は横を素通りし、しゃがみ込んだ。
畦道に佇む、太郎地蔵の双眸は、優しく芳乃を見つめ、薄い唇は微笑みを称えているようにも見える。
子供の頃から見守ってくれる太郎は、芳乃にとってかけがえのない者であった。そっと手を伸ばし、太郎の頬を撫でると恥ずかしそうに声を落とした――
「太郎地蔵様、私に夫が出来ました」と。
◆◆◆◆◆
―― 思い出に浸っている場合ではない!
芳乃は、唐櫃に六郎の衣を収めると、卯の花の帯紐を手早く締めた。見咎められては事だと上から湯巻を巻き付けると颯爽と部屋を後にする。
妻を殺し、すぐに六郎を殺める好機に恵まれるとは限らない、少しでも金になる物を持ち出す必要があった。卯の花の帯は打って付けだったのだ。
そして、こうも思う。
卯の花の帯は、もしかしたら私の為に用意された物ではないか?と。
こうして芳乃は、妻を連れ出した。道具箱を抱えた者、天秤棒を担ぐ者が家路に急ぐ刻限に、そっと抜け出し畦道をゆく。目指す先は太郎地蔵。
「旦那様は、日暮に畦道を通られます。そこで後をつけ、女の家まで付いて行きましょう」
芳乃の声音は、主である妻を心底思いやるような慈悲深さを含み、唇は妻を元気付けるように引き上がる――
―― 今宵は、目映いばかりの星空になる。
芳乃は、茜色に染まる天を仰ぎ見た。
◆◆◆◆◆
太郎の鏡に映る生前の芳乃は、妻を後ろに従え、細い小路に入っていった。そのまま突き進めば畦道の太郎地蔵に行き当たる。
「で?地蔵、私達は今から起こることを見ていれば良いのか?」
朧が問うた。
太郎は頷くと、膝を擦り常世にいる魂の芳乃に告げる。
「芳乃、そなたの後悔、未練、恨み、晴らして何の憂いもなく極楽へ旅立つ時じゃと思うておる、最後にもう一度そなたの現し世へ行って参れ」
「はい、太郎地蔵様……」
「太郎どんじゃ、太郎どんでよい」
止めどなく涙を流す芳乃の頬を太く短い指で撫でる太郎は、何やらゴニョゴニョと呟く、それが何かの呪いだったのか、芳乃の姿は煙のようにかき消えた。
御殿に寄せる水面は、相も変わらず月を映し、柱を打つさざ波は差し迫った御殿の主が、この世から消えることも関係ないとばかりに、じゃぶり、じゃぶりと水音を響かせる。
響は、ちらりと太郎を一瞥すると形の良い唇から物騒な言葉を漏らした、
「地蔵、芳乃は仕損じたのであろう」
「お見通しじゃな、菩薩」
又もや、菩薩と呼ぶ太郎に先程のような応酬は繰り返さない。ただ一言だけ告げた――
「仕損じた者ならば、そのままあの世へ送れば良い。それを本懐を遂げるように後押しするとは如何なることだ?芳乃の罪をこれ以上増やして何とする、地獄に落とす気か?お前の本意は何じゃ」
響は眉根を寄せ、厳しい言葉を吐く、その声音は涼しげなものではなく強く非難を表す、低く落ちるものであった。
驚いたのは、黙って聞いていた菅公と関白だ。ただ口を挟むことはない、何故ならば太郎地蔵と響との間には、何人たりとも口を挟めない、何かがあるように思えたからだ。
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