常世の狭間

涼寺みすゞ

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幽冥竜宮

妻女

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 トントン拍子に事が運ぶかに思われたが、屋敷が手薄になったからといって、妻子の住む母屋に立ち入ることは困難であった。
 芳乃よしのは、気がく思いで、今日も母屋付近の廊下を懸命に磨く、念入りに刻をかけて。その時、女の金切り声が芳乃よしの耳朶じだつんざいた。何に腹を立てているのか、居室から扇がくうを舞う。縁側に落ちると同時に、怒鳴り声が響き渡る。

「あの人は、何処の女に通っているのです!?」

 ―― 成る程。
 一言で察知した。

 ―― さて、どういたそうか?
 芳乃よしのは、ふと考え込んだ。六郎の跡をつけ、囲った女の場所を特定すれば襲いやすいのではないか?
 しかし勤めを放り出し、付け回すことなど困難極まりない……、芳乃よしのは降って湧いた好機を、どう活かそうか夢中で考えた――その時、

「そなた、何をしているのです!」

 金切り声が頭上で響く、しかも自分に向けられた言葉であった為、内心飛び上がったのは云うまでもない。当然ながら芳乃よしのおもてからは血の気が引いた。
 考え事をしている間に、六郎の妻が廊下に出てきてしまったのだ。鉢合わせは流石に不味かった――とは思うものの、後の祭り。過ぎ去るのを待つしかないと身を固くした芳乃よしのに、思いがけない言葉が掛けられた。
 この者を家から出しなさい――と。
 驚き、思わず顔を上げた、そこには真っ赤になり、怒りに震える妻の顔があったのだが突然、いとまを言い渡されたのでは堪らないと、芳乃よしのは平伏して願い出た――

「申し訳ございません、私はただ廊下の掃除を……」
「そのようなことは、どうでもよい!」

 妻は、一言答えると後方に控える侍女に叫ぶ

「見目良い女子おなごを母屋……いえ、この屋敷におくでない!!」

 芳乃よしのは思い出した。手を取り共に逃げ、そしてあやめた男が言っていた、六郎の妻は嫉妬深い――という言葉を。
 そんな考えなど知るよしもない妻は、言い捨てると芳乃よしのの横を過ぎ去る、
 ―― 逃がしてなるものか……。
 芳乃よしのまなこは、妻の背にあてられ、唇は大きく引き上がる――

「私は……旦那様の想い人を存じております」

 静かな声音が、恐ろしく響いた気がした。妻は勢い良く振り返り、芳乃よしのの元へ駆け戻ると「それはまことか」と問うた。その声は、火のように熱く怒りに震えているのだが、見上げた顔は色を失ったように青ざめていた。


 ◆◆◆◆◆

 煌々こうこうたる朱色の御殿で膝を付き合わせるのは、うつし世ならぬ常世とこよの住人。
 蝋燭の火先ほさきのように揺らめくまなこと、額にかかれた花鈿かでんが印象深いおぼろは、横に座るきょうを見やる。

「やはり、美しい者が側におると気に入らぬということか?私はきょう殿が横に居ても気にならぬが……」
「人とは、妬む者であるからな。それにおぼろ殿は、十分美しいゆえ」

 二人して顔を見合わせると、満足げに頷き合う。一体、何を言っているのだろう?とも思ったが芳乃よしのは、真ん中の鏡を見つめながら先を継いだ。

「控える侍女の手前、話すことが憚られる……と目配せをすれば、六郎の妻は頷き立ち去った……が、すぐに私は侍女頭から呼び出された。この時ばかりは歓喜の声をあげるのを必死で我慢したわ」

 鏡には、いそいそと廊下を進む芳乃よしのの姿が映っていた。

 ◆◆◆◆◆

 人目を避ける為か?呼び出されたのは、妻の居室ではなく納戸なんどだった。じめじめと薄暗い空間に殺されたはずの元妻と、手を下した妻が同じ空気を吸っているのが妙な気分であったが、芳乃よしのは懐へ差し込んできた物を取り出し、妻へ差し出した。

「これは……でんでん太鼓?何じゃ?」
「私は、畦道の地蔵菩薩様の前をよく通るのですが、そこで旦那様六郎が女と会っているのを何度か目にしました」

「何と!?」
「あれは……元の妻ではないか?と皆が噂しております」

「皆が!? 噂になる程、見かけるのか!?しかし、元妻は焼け死んだはず……!」

 目をむく妻に芳乃よしのは、首を振ると小声で囁く――。

「元妻は、地蔵様を信心しておったと評判でございます。あの辺りには物乞ものごいも居りますゆえ、元妻の顔も見知っておるようで……」

 そっと視線を逸らし、暗に匂わす。そなたの夫は元妻が焼け死んだと偽り、隠すばかりか今も寵愛していると。
 妻の指先が小刻みに震え、でんでん太鼓がカタカタと鳴る。芳乃よしのは、嘲笑ちょうしょうに緩む頬を引き締め、更に継いだ。

「しかし、旦那様も用心なされておるようで、少しでも周りに人が居たら元妻の家には寄られないようだ……と」
「何故じゃ!!」

「さぁ、それは私には……あ、でも……」

 何かを、思い出した素振りをしてみせる。案の定、申せ!と怒鳴られた。芳乃よしのは、妻の耳元で囁いた――

「実は、元妻は身重だとか……何を警戒されているのかは存じませんが、何かしら理由があるのでは……と噂でございます」

 ―― この一言に、妻がギクリと肩をすくめたのを芳乃よしのは見逃さなかった。

 ―― やはり、お前が命じて吾子我が子を殺したのか……。

「そのでんでん太鼓は、旦那様六郎が地蔵菩薩にお供えされた物らしいのです」
「何故そのような……」

物乞ものごいの話では、元妻の家へ行くことを断念した場合、合図なのか旦那様六郎は地蔵様の足元に石を置かれるとか……、おそらく元妻と二人だけの秘密の何かなのでしょう。」

 わざと六郎の寵愛が、未だに元妻である芳乃よしのにあると匂わせ、続ける。

「でんでん太鼓は、腹の子への土産だったのか、石の代わりに置かれたようで物乞ものごいが盗んでしまったようです」
「それを何故、そなたが持っておるのじゃ」

「ふふふ、旦那様にこれを渡して金品をせびろうと思うたのです」
「何!?」

「しかし、旦那様より奥方様へ」
「何故、私にしたのじゃ?」

泡銭あぶくぜにを少々手に入れても、いとまを出されては先々困りますので」
「……ほう、これで手を打とうということか」

「なりませんか?」

 でんでん太鼓は、亡き吾子我が子の形見とも云うべきものであったが、背に腹は代えられぬと差し出した。

「いや、取引があった方が信用できる……ところで、そなた元妻の家を探しだしてくれぬか?」
「畏まりましてございます」

 芳乃よしのの引き上がる唇は、恭しく答えた――。
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