常世の狭間

涼寺みすゞ

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幽冥竜宮

禍患

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 ◆◆◆◆◆

 檜扇ひおうぎを口許に寄せ、何と――と感嘆の声を漏らすのは菅公かんこうだった。両拳を膝に置くと恭しく太郎へ頭を下げる、関白かんぱくに至っては、空洞のまなこを向けるのみ、目の前に座る者が正体不明の村人であろうとも、地蔵菩薩であろうとも関係ないといった風情だ。

「で?おむすび地蔵、そなた芳乃よしのから毎日花を貰ったことで、わざわざ救いに参ったのか?」
おぼろ殿、違う。握り飯地蔵だ」
「黙っておれ、菩薩ぼさつ

 相手がおぼろであったら、太郎もきょうも慌てて目を逸らすだろうが、害がない眼差しなど怖くもなんともないとばかりに、お互い睨み合う。 
 このままでは話が進まぬ――と、間に割って入ったのは菅公かんこう
 無言で、腕に打ち付けた檜扇ひおうぎからは、バリバリ……と雷鳴が轟く。きょうは、小さく肩をすくめると形の良い唇を微かに震わせた。何やらまじないを唱えるようなボソボソとした動きの為、何を口にしたのかは分からないが、それ以上は言い争うこともなかったので菅公かんこうは、仕切り直しとばかりに太郎に目配せをした。

「太郎地蔵様、先を……」
「まともな奴が常世ここに居て、助かるのぅ~」

 菩薩顔のきょうを一瞥すると、芳乃よしのの前に男が現れた――と言葉を継いだ。
 芳乃よしのより、十は年嵩としかさに見えた男は、平礼烏帽子へいらいえぼし水干すいかんを身に付けていた。他の者達と違うのは、け物と呼ばれる飾り物を衣に付けていることだ。
 これは、放免ほうべんという役職の姿であった。男は下級役人で、市中取り締まりなどを行う者であったという。

「成る程、だから毎日芳乃よしのが地蔵さまを参ることも知っておったのだな」
 菅公かんこうが、言う。

「しかし、ずっと見ているというのも気味が悪い……男は芳乃よしの殿を見初めたのか?そして、太郎どんは何故芳乃よしの殿に構う?」
 
 関白かんぱくは、男が芳乃よしのを眺めていた理由に言及すると共に、太郎が芳乃よしのに心を砕く理由も知りたいと尋ねた。
 その言葉にきょうおぼろは、顔を見合せ
「石の分際で、人に恋をしおったか馬鹿地蔵」
「道端で女子おなごを物色しておったのか、色欲地蔵」
 などと言い放つ、地蔵菩薩に向かって何という口を利くものだ――と菅公かんこうは呆れたのだが、呆れたのは太郎も同じのようで、はぁ~と深く溜め息をつくと、男は毎日現れた――と話を進めた。

「無視だ、おぼろ殿」
「無視したぞ、きょう殿」

 二人の笑いを含む声音を無視し、太郎は語る。
 男は、やはり下級役人であった。十五の芳乃よしのよりも、十二支を一周多く回った歳だという。つまり、当時の男は二十七歳。
 本来ならば妻子がいて然るべきなのだが、縁がなく今も独り身であると云う。

芳乃よしのは、うま年である」
「うま?」

 太郎の言葉に、きょうが眉を上げた。不機嫌極まりないと歪むかんばせも麗しい。太郎は力強く再度、言い放った、午である!と。
 むぅ~っと膨れっ面をするきょうを他所に、読経のような太郎の声は若き芳乃よしのを語った。

「男は、下級役人であったが平家一門へいけいちもんに連なる役人のようでな、なかなか羽振りが良かった。芳乃よしのの母が病と聞きつけ、ツテを頼ったらしく薬を手に入れ、また精のつく物を届けたりもした」

 太郎は、肉付きの良い両掌りょうてのひらを板間につくと何やらゴニョゴニョと呟いた。すると、どうしたことか円を囲む中央にたらい程の大きさの鏡が現れた。背面は板間に付いている為、見えないがふちには細やかな細工の彫り物が施され、物を映す鏡は水晶のようだった。

「これは……背面の細工を見てみたい!」

 菅公かんこうは、見えるはずがない背面を覗こうと板間に這いつくばる。普段、月を見上げては歌を詠み、蝶が舞うと春を喜ぶ、風流人なのだが今は、カエルのようだ。

菅公かんこう好みの雅な古さよのぅ。私には地味に見えるが……」

 派手好きの関白かんぱくには、地味に映る鏡は何処が良いのか、わからない。ただ菅公かんこうが興味を示す物だから良いのだろうとは思う。

「……あ!」

 関白かんぱくが声を上げた、透き通る鏡が、もやもやとくゆる煙のように揺れうごめき、徐々に晴れてくるとぼんやりと人影が現れた。何事か?と皆で覗き込む。
 そこには、仲睦まじい男女が畦道で話し込んでいた。楽しげに笑うのは、横で眠る芳乃よしのより、少しばかり年若いだ。
 空木うつぎの花が、見事に咲く山の畦道に佇む地蔵と若い二人にきょうが身を乗り出す――と、指先で男の顔を撫でた。
 何か意味があるのか?と菅公かんこう関白かんぱくは、腕釧わんせん輝く手首から伸びる、しなやかな指先を辿った。

佐伯山さへきやま、卯の花持ちし、かなしきが、手をし取りてば、花は散るとも……?」

「何じゃ、それは?」
 関白かんぱくが問うた。

「いや、男がそう言った」
「そうではない、その歌だ」

 関白かんぱくの二度目の問いには、菅公かんこうが答えた。万葉集じゃと。
 そう告げる菅公かんこうの口元には、含みのある笑みが浮かぶ。関白かんぱくは首をひねり、その万葉が何じゃと三度目を問うた。

「卯の花を持つ、愛しい貴女の手を取ることが出来たら花なんて散っても構わない……まぁ、こんなところだ」
「ほぅ!」

 にゃりと関白かんぱくの頬が緩む――と、その時、目にする風景が、ぐにゃり――と曲がった。柱も、御簾みすも。
 ただ、おぼろきょうといったは、揺れ動くことがなかった。

「地蔵、悪さはよせ」

 きょうの一言で、蜃気楼のように屈折した風景は、ピタリと収まった。菅公かんこうは、気を取り直す――

「ようは、恋歌じゃな。この男はよし……」

「「 ぎゃぁ――ッ!! 」」
「な、何じゃ!? 」

 言葉を継いだ菅公かんこうの声を、打ち消すようにおぼろきょうが、悲鳴を上げた。二人して袖で両耳を押さえ麗しいかんばせは、苦痛に歪む――。驚いたのは関白かんぱく菅公かんこうだ。
 別に耳を押さえるほどの物音は、していないのだから……。

「「 地蔵ッ!! 甲高い音をたてるな!! 」」
「すまぬ、すまぬ、さて続きを話そうかの」

 どうやら、二人にしか聞こえない物音がしたらしい。不思議にも思うが、話の続きも気になると菅公かんこう関白かんぱくは、太郎地蔵に向き直った。
 納得がいかないのはおぼろきょうだ。眉根を寄せる麗しい目元は、二人揃って太郎を睨み付けるのだが、そんな非難の眼差しなど太郎は、意に介さない。

「ごほん!母御ははごは……、少しは持ち直したが次は夏の暑さが祟ってなぁ、二人が夫婦めおとになったのを見届けると息を引き取ったのだ」

 皆が、鏡を覗き込んだ。少し刻が進んだようだ。
 芳乃よしのは赤子を抱き、隣の夫は板間に広げた懐紙から美しい彩りの唐菓子を摘まむと、芳乃よしのの口に入れる。
 見ている方が恥ずかしくなる程の睦まじさだ。太郎は継いだ――。

「幸せは続かなかったのじゃ」

 静かに落ちる声音こわねに、寄せる水音が混ざり合う。鏡に映る夜空は、まさに常世とこよの空と同じであった。
 鈍く輝く平家星へいけぼしは、年若い芳乃よしのを。又、常世とこよ芳乃よしのを見下ろしていた。
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