常世の狭間

涼寺みすゞ

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幽冥竜宮

地獄の沙汰

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「これは、これは……」

 一番に声を上げたのは、きょうだった。麗しいかんばせは、知らぬうちに御殿に立ち入って来た侵入者に驚きもしていない。
 芳乃よしのの時も、そうだったが常世とこよに何者かが侵入者する時は、振動で伝わる。現に菅公かんこう関白かんぱくは、芳乃よしのが足を踏み入れた時には直ぐ様、出迎えていた。
 それが、今回はなかったことに菅公かんこうは、隣の関白かんぱくを見やった。見返す関白かんぱくおもてにも、同じ疑問が浮かんでいるようだ。

「今頃、のこのこと現れるとは……何様のつもりじゃ?

 おぼろの引き上がる唇は、玉水たまみずのように瑞々しいが、そこから放たれた声音は皮肉をふんだんに含み、紅玉こうぎょくのような瞳は侮蔑を露にする。
 そのような居たたまれない視線を浴びせられても、意にも返さないのだろう。太郎は、のそのそと進み出ると断りもなく芳乃よしのの横に座した。

「二人に芳乃よしのを救って欲しいと思うての」
「回りくどく、ここへ誘導せずとも……」

 太郎は、おぼろの言葉を手で制した。

芳乃よしのは、生前殺生せっしょうを行っておる」
「だから何じゃ」
「地獄の沙汰の初めは、殺生を問うもの……」

 おぼろは、ぴくり――と眉を上げたが、唇を引き結び太郎の言葉を待った。
 文句を継がないおぼろに満足したのか、太郎は芳乃よしのの卯の花色に手を添える。

「私は芳乃よしのが幼い頃より存じておった。気立ての良い娘でのぅ、母御ははごと二人で畦道の隅で花を売っておった、父御ててごは存じぬ」

 太郎は語る。
 母一人子一人の生活は苦しく、日々の暮らしで精一杯だったと。懐かしげに細いまなこを更に細める様子は、いつくしむ地蔵菩薩のように慈悲深い顔立ちをしている――が、その顔を凝視する、もう一人の菩薩顔は頭の傷が気になって堪らないと、指で自身のつむじから、右眉にかけて線を引いてみせる、無言で。

菩薩ぼさつ……追々話す故、黙っておれ」

 太郎は、菩薩顔のきょうをあだ名で呼んだ、菅公かんこうこだわりで常世とこよでは、本名で呼び合わないのだから、きょうだろうと菩薩ぼさつであろうと同じなのだが、きょうは思うところがあるのだろう、更に無言で二度目の線を引くと「黙っておったが?」と告げた。

「減らず口をたたくな」
「態度がデカイぞ、太郎の分際で」
「太郎がダメなら、私のことも菩薩ぼさつと呼ぶが良い」
「握り飯みたいな顔をして、何が菩薩ぼさつだ」
「何じゃと!」
「やるか、握り飯!」
「待て、待て、喧嘩より先に芳乃よしのだ」

 見るに見かねて止めたのは、菅公かんこうだ。さすがに子供じみた喧嘩だときょうも黙り、太郎は小さく溜め息をつくと続ける――。
 それは、芳乃よしのが貧しいながらも、母を助け良く働いたこと、側で眺める太郎に余り物で悪いが……と毎日一本だけ花を分けてくれたこと。
 そして、年頃になった芳乃よしのの前に二、三日に一度、若者が花を買いに現れるようになったこと。

「思えば、あれが不味かった……」

 太郎の落ちる視線は、卯の花の帯にあてられ、沈む声音は夜のとばりに溶け込むように消える。
 うつし世ならぬ、常世とこよ狭間はざま水面みなもの呼吸のような波音が響き渡る、夜空には朧気おぼろげに浮かぶ月と、鈍く輝く平家星へいけぼし。太郎の語りに皆が聞き入った。
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