常世の狭間

涼寺みすゞ

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幽冥竜宮

荒療治

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 その時、おぼろ菅公かんこうの手にする檜扇ひおうぎを奪い取ると、自身の左手に打ち付けた。
 パンッ!! 空気が裂ける音と共に、カッ!といかずちのような閃光が室内を包む、菅公かんこうが打ち付けた時よりも、一層強い光波こうはに呑み込まれ、芳乃よしのは声を上げた。
 熱と光が同時に覆い被さるような衝撃と共に、脳裏にいくつもの風景が浮かんだ。記憶の断片か?畦道の脇に佇む地蔵菩薩に、若い男女が手を合わせる様子が、ぱっと浮かび消えた。
 女が誰かに馬乗りになり、石のような物で殴り付けている、鮮血が飛び散り打ち据える女の両腕、顔、着物までもが真っ赤に染まる――、腰に巻く卯の花色の帯は、まるで初めから紅色だったかのようだ。

「う、卯の花!?」

 泣き叫ぶ芳乃よしのの口から、言葉らしい言葉が放たれ、かすみがかかる双眸そうぼうは、自身の腹に向いた。

「太郎は言ったのだろう?卯の花の帯を思い出せると」

 いつの間にか横に立つきょうは、そっと芳乃よしのの手をとった。あんなに止まらなかった腕が、すんなりと止まり指先から血塗られた椀が、ごとり――と足元に落ちた。

「い、言った……あれは?私か?」
「それを思いだし、未練を捨てて浄土へ向かうのが芳乃よしの、そなたの今からやるべきことだ」

「浄土……まさか、私は死んでいるのか?」
常世とこよには死人しびとしか来ぬよ」

 微笑むきょうは、観音菩薩のようだ。輝く金色こんじき腕釧わんせん芳乃よしのの眼前に迫った。
 腕を伸ばし、額に指を当てたきょうの薄く形の良い唇が、花開き言葉を継ぐ。
 それは歌うように優しく奏でるように芳乃よしのの心に響いた――。

芳乃よしの、何があっても救いあげるから行って参れ」

 心地よい声音に導かれるように、芳乃よしのの意識は、すとん――と落ちた。
 横たわる芳乃よしのを、関白かんぱくはヨロヨロと起き上がり覗き込むと、ホッと息を漏らす、椀で殴られ続けた額の傷は完全にふさがり、濃紫の袴に飛び散ったはずの鮮血も消え去っている。

「寝たのか?」
「魂が、忘れたものを取り戻しに行ったのだ。それにしても関白かんぱくも、思いきったことをやったなぁ……」

 関白かんぱくの問いに、きょうが答えたのだが、先程の殴打の件を思い出したのだろう、袖で顔を隠すと肩を震わせた。
 関白かんぱくは、にやにやと口許を緩ませると
 
「早く思い出させて、往生させてやりたいと思ったまで」

 と、言う。
 緩むおもては、ふざけているようにも見えるが、この言葉に真摯な想いを感じたおぼろは、紅の引かれた目元を緩ませ、

「私のすることをと申したが、そなたらも大概だな、菅公かんこうは生前、芳乃よしのが食っていた菓子で記憶を寄せた」

 ――と菅公かんこうの手際を誉める。満足気に菅公かんこうが笑うとおぼろは頷き、言葉を継いだ。

関白かんぱく芳乃よしのが飲んだであろう、死人が浮く水……うぅ、気持ちが悪い」

 おぼろは、心底気持ちが悪いのだろう。柳眉りゅうびを潜め、桜色の大袖で顔を被う。その姿は優美な天女のようだ、心なしか伏せられた瞼は儚げにも見え、目尻に引かれた紅は美貌を際立たせる。
 山の御殿に、このような女が棲んでいたら迷い込んだ者達は、正体が例え妖かしであれ、良いとさえ思うだろう。
 見た目、天女のおぼろは気分を害したが、原因である関白かんぱくは、にやにやと笑う。上手くいったな――と。

「「やり過ぎじゃ」」

 三人の声が綺麗に揃った。

「無論、死人しびとが浮かんでいたというのは嘘であるし、池の水というのも嘘なのだがな……」

 ――と、今更ながら言い訳じみたことを言うのだが、そっと芳乃よしのの腹に手をあて、卯の花色の帯に指を這わせた。上質な帯だが身に付けている衣は擦り切れ、組合せとしては可笑しい。関白かんぱくは尋ねた。

この者芳乃は、生前何者だったのだ?」

 これまで、数多の迷い人が訪れたが大して興味を示さない関白かんぱくが、魂の生前を気にするとは――と、三人は意外に思った。

「そなた、いつもの如く興味がない故、初めから輪に加わらなかったのではないのか?」

 菅公かんこうは、御殿に現れた芳乃よしのを案内する途中で姿を消した行動は、そういうことではなかったのか?と、暗に指す。

「初めから話が進むとは思わなかったまでよ」

 つまり、関白かんぱくは多少興味はあったが直ぐ様、芳乃よしのが思い出すとは思わなかったので、時間を潰していた――という。

「まぁ、関白かんぱくの疑問も当然じゃな、私とて、この身なりはいささか……」

 菅公かんこうまでもが、顎に指を掛け、まじまじと眠る芳乃の腹に視線を落とした。
 二人の疑問におぼろは、答えもせず揺らめく火先ほさきを巻き上げられた御簾裾みすすそに移す。
 途端、おぼろの端正な顔立ちが歪んだ。当然の事ながら、関白かんぱく菅公かんこうが視線を追う。
 そこには、一人の男が佇んでいた。
 身の丈は、そこまで大きくはない。どちらかと言えば小柄だ。よく剃りあげられた、つるりとした頭部にずんぐりとした体躯、赤い小袖の裾を捲し上げ、帯に差し込んでいる為、膝下は露になっていた。
 まなこは異様に細く、薄い唇を引き結び、じっとこちらを眺めている。
 特筆すべきは、男の頭の傷だ。
 つむじから右眉に掛け、刀傷なのか、物で打ち付けて割れたのか、大きな傷が走っていた。
 菅公かんこう関白かんぱくも、唾を呑み込んだ、この男の特徴が数少ない情報の太郎に合致したのだ。
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