上 下
7 / 8

その7 蘇りし夏の思ひ出

しおりを挟む
 ミーンミーンミーンミーン

 うっとおしい程にセミが鳴いていた。

 避暑地で有名な長野県といっても、太陽が照りつける日中は普通に暑い。

 Tシャツに半ズボン。頭には麦わら帽子といった恰好で、8歳の吾郎は舗装もされていない道を歩いていた。

「あ~あ、退屈だな」

 そうぼやく。

 父方の実家があるこの村には、昨晩到着した。

 一晩が経った今日、吾郎はこの村の友達を尋ねることにした。毎年来る度に遊んでいる連中だった。

 だけど、誰一人として捕まらなかった。

 一人は海外旅行、一人は母親の実家に帰省、一人は引っ越しておらず、最後の一人は夏風邪だった。わりと風邪を長引かせる質らしく、一週間は外に出られないとのことだった。

 吾郎の滞在予定は5日間だ。このままでは一人で過ごすことになってしまいそうだ。

 太陽がこんなに輝いていて、雲一つない青空で、暑さだって気持ちがいい。

 最高に楽しいバカンスの始まりだとうかれていたのに、それは実現しそうもなかった。

「じーちゃん家に帰ってゲームでもしよっかな」

 吾郎がそんなことを呟いた直後だった。その声は耳に飛び込んでくる。
 キャンキャンという甲高い動物の鳴き声。まるで助けを求めているように聞こえた。

「何だ!?」

 吾郎は急ぎ声の聞こえた方向へと向かった。茂みをかき分け進む。
 そこには川が流れていた。一匹の犬が溺れている。

 いや、正確に言えばまだ溺れてはいなかった。必死に前足で岸にしがみ付いている。だけど岸はもろい土だ、

 吾郎の目の前で岸が崩れた。犬はそのまま川の流れへと吸い込まれる。

(大変だ!)

 無我夢中で吾郎は川に足を踏み入れる。膝ぐらいまでの深さの川だが、なかなか水流は強い。押し流されそうになる。

 歩くよりは早いと、吾郎は思いきって泳ぐことにした。水泳は得意な方だった。学校のプールとはわけが違うが、どうにか犬に追いつく。小脇に抱え岸部に戻ることに成功する。

 麦わら帽子が流されてしまったが、この際仕方ないだろう。

「良かった」

 ふうと安堵の息を吐き出してから、吾郎は改めて犬を観察する。
 顔が丸くまだ子犬のようだ。だけど子犬にしては大きかった。柴犬の成犬ぐらいはある。手足だって太い。

(何て種類の犬なんだろ?)

 そんな疑問を抱くも、

(ま、何だっていいか)

 気にしないことにした。
 犬は全身をブルルッと震わせて水気を飛ばすと、吾郎を見上げた。人懐っこい瞳をしている。

吾郎は犬の頭をぐりぐりっと撫でた。

 犬は嬉しそうに尻尾をパタパタと振る。

「お前、どこの犬だ? 首輪着けてないけど、ノラなのか?」

『ガウガウ』

 そうじゃないと訴えるかのように、犬は首を横に振った。

「面白い奴だな」

 吾郎はこの犬を気に入った。

 退屈で沈んでいた気持ちも、いつの間にか弾んでいた。

「なあ、オレ、今日暇なんだ。一緒に遊ばないか?」

『ガウッ!』

 犬が嬉しそうに吠える。

「よしよしよしよし」

 吾郎は犬の頭をさらにぐりぐりと撫でた。

「オレは吾郎。お前にも名前を付けなくちゃな。犬って呼ばれるのも嫌だろ?」

 少し考えてから、吾郎は言った。

「決めた! ガウガウ言うから、お前の名前は、ガウだ!」

 ★

 その日から、吾郎のガウと過ごす日々が始まった。

 夕暮れ時になると、ガウは何処へと去っていく。だが次の日の朝には吾郎の祖父母の家の前までやって来るのだ。

 毎日、朝から夕方まで吾郎はガウと遊んだ。

 おかげで、最高に楽しいバカンスを過ごすことができたのだった。

 ★

 夕暮れ時の空を吾郎は見上げる。

 昨日までなら、『また明日な~』とガウと別れられるのだが今日は違っていた。
 明日の朝、吾郎は東京に戻るのだ。

「なあ、ガウ」

 吾郎はガウに語りかける。

「お前って、ノラなんだよな? だったらオレと一緒に東京に来ないか? オレ、父さんと母さんにお前を飼えないかって頼む。絶対に説得するから!」

『ガウ~』

 ガウは嬉しいような、それでいて困ったような声で鳴いた。

 と、声がする。

「やれやれ、最近よく里を抜け出すと思ったら。そういうことだったのか」

 現れたのは大人の男だ。がっちりとした体格で精悍な顔をしている。

「すまないね。その子はうちの犬なんだよ」

 男は言った。

「さあ、帰るぞ」

『ガウ~』

 ガウが悲しそうな声を上げる。少なくとも男を警戒している様子はない。どうやら飼い主なのは本当のようだ。

「嫌だ! 嫌だよ!」

 吾郎はガウを抱きしめた。

「ガウはオレの家で飼うんだ! そう決めたんだ!」

 子供心に、無茶苦茶言っているのはよく分かっていた。だけど、せっかくできた新しい友達を手放したくはなかった。

「やれやれ、困ったな」

 男が苦笑する。と、不意に真面目な顔になる。スンスンと鼻を鳴らした。

「ひょっとして君は犬囲家の子かい?」

 自分の名字を言い当てられたことに、吾郎は驚く。

「やっぱりそうか。驚いたな。こんな偶然があるなんて」

 少し考えてから、男は口を開いた。

「君がそんなにもうちの子を気に入ってくれているなら、君の家で預かってもらえないか?」

「えっ!?」

 期待の目を向ける吾郎に男は言う。

「今じゃないよ。もう少し後のことだ。いろいろと条件が整わなければ駄目だからね。でも、きっとこの子もそうしたいと思うはずだ。私としても、この子には外の世界を体験させたいし。どうだろうか?」

 男は真剣に吾郎に尋ねる。

 単なるその場しのぎの誤魔化しをしているようには思えなかった。

 今日はガウと別れなければならないのは寂しいし悲しい。でも、余所の飼い犬なのだから仕方がないと理解もしている。

 それを考えたら、いずれ自分の家に来ることが奇跡に思えた。

「うん、いいよ! いいに決まってる!」

 吾郎は力強く答える。それから、ガウの顔を両手で挟むようにして掴む。

 顔を顔を突き合わせ、吾郎はこう告げた。

「ガウ! いつか必ず、オレん家に来るんだぞ。その時はオレがお前の面倒を見て、思いっきり遊んでやるからな。約束だぞ!」

 ガウは最高に嬉しそうに吠えた。

『ガウッ!』

 ★


「あれだったのか!!!」

 暴れ回る羽美の背中で吾郎は叫ぶ。

吾郎はずっと『女の子』で記憶に検索をかけていた。

思い出せなくて当然だ。吾郎には女の子と会った記憶なんてなかったのだ。

『犬』で検索していれば一発だったのだ。

こがねの森公園の森中で、羽美と交わした会話を吾郎は思い返す。

『なあ、その時のお前って、耳と尻尾生えてたか?』

『生えてたゾ』

 羽美は嘘はついていない。確かに耳と尻尾は生えていた。だけどそれ以前に、人の姿でなかったのだ。

 肝心なことを言い忘れている羽美に、吾郎は呆れる。

『ガウウウウウウ!』

 吾郎を振り落とそうと、羽美は狂ったように走る。

 もう吾郎の腕の力は限界だった。

「オレ、全部思い出したぞ。お前のことも、お前と交わした約束のこともな!」

 吾郎が声を張り上げる。

「お前、ずっとあの時の約束を覚えてたんだろ!? ずっと楽しみにしてたんだろ!? 誰かを傷つけたりしたら、お前もうここにはいられなくなるんだぞ!」

 さらに言葉を続ける。

「改めて言うぞ! オレは約束を守る! お前の面倒を見て、思いっきり遊んでやる! だから、だから元のお前に戻れ! 戻るんだあ!!!」

 吾郎は全力でその名を叫んだ。


「ガウ!!!」(超倍角)


 吾郎が全力でその名前を口にした直後だった。

羽美が突然太い前足を地面に叩き付け急ブレーキをかけた。

「うわっと!」

 吾郎は軽く吹っ飛ばされる。

 幸いそこは街中から少し離れた河川の土手だった。草の生えた坂がコンクリートやアスファルトよりは優しく吾郎を受け止める。

「うわあああああああ~~~」

 吾郎はゴロゴロと坂を転げ落ち、ようやく止まった。

 全身が痛かった。疲労も限界を突破している。ずっとしがみ付いていた腕はもう感覚がなかった。

 そんな吾郎の目の前に、巨大な狼の頭があった。羽美だった。吾郎を振り落とした後、土手を下りてきたのだった。

 今後の自分の運命を吾郎は察した。狼の大きな顎で噛み砕かれるに決まっている。

 もはや逃げる気力もなかった。

「分かったよ、ガウ。お前の好きにしろよ」

 吾郎は呟く。

「だけど、オレ一人で腹いっぱいになれよ。他の誰も……襲うなよ」

 瞳を閉じ牙の到来を待つ吾郎。

 だけど、齧られる痛みは訪れなかった。

 変わりに訪れたのは、暖かくて湿った柔らかい何かの感触だった。

(えっ?)


 瞳を開けた吾郎が見たものは、吾郎の顔を嘗める狼の顔だった。

 味わっているのとは違う。まるで吾郎のことを心配しているような雰囲気だ。

「ガウ……お前……」

『ガウッ! ガウッ! ガウウウ!』

 羽美が何かを訴えようとするが、ガウガウでは通じない。それでも明らかに先程までとは様子が違う。

 凶悪な野生を感じさせていた瞳は、穏やかで愛くるしいものになっていた。

「お前、ひょっとして元に戻ったのか?」

『ガウッ♪』

 羽美は嬉しそうに吠えると大きく頷いた。

 やはりそうだ。暴走モードは終わったのだ。

 満月はまだ出ている。むしろさらに輝きを増している。にもかかわらず羽美は平然としている。

「お前、偉いぞ! 偉いぞ! ガウ!!!」

 吾郎は何度もその名前を呼ぶ。大きな頭を抱えるようにして撫でた。
 羽美が気持ち良さそうな声を漏らす。

「さてと、いつまでもこんなとこにいてもしょーがない。早いとこ帰んなくちゃな」

 問題はどうやって帰るかだった。いくら普段の心を取り戻したとはいえ、姿はいまだ巨大な狼のまま。こんなものを連れて家には帰れない。誰にも会うことなく自宅までたどり着くなんて絶対に無理な話だ。

 吾郎はポケットから携帯を取り出しと自宅にかける。

 すぐに出た勇次に、吾郎はこう告げた。

「もしもし、親父? 大至急レンタカーを借りてきてくれない? 大きな狼が乗せられるような車を頼む」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

壁の薄いアパートで、隣の部屋から喘ぎ声がする

サドラ
恋愛
最近付き合い始めた彼女とアパートにいる主人公。しかし、隣の部屋からの喘ぎ声が壁が薄いせいで聞こえてくる。そのせいで欲情が刺激された両者はー

蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる

フルーツパフェ
大衆娯楽
 転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。  一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。  そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!  寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。 ――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです  そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。  大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。  相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。      

佐堂院家のメイドさん 淫らな夜の御奉仕

早亜ルキ(ハヤアルキ)
恋愛
自分で作成した自作漫画の、初期プロット版です。 初期プロットなので内容が漫画版とかなり違います。 漫画版→https://www.alphapolis.co.jp/manga/811821731/959447989 昔から存在する大財閥の佐堂院家。 その小さな次期当主と、メイドのお姉さんとの甘々エロコメディーです。 https://twitter.com/ppprtppp https://yukkurihayaaruki.com←自サイトにてイラスト付きのものを公開しています。

先生!放課後の隣の教室から女子の喘ぎ声が聴こえました…

ヘロディア
恋愛
居残りを余儀なくされた高校生の主人公。 しかし、隣の部屋からかすかに女子の喘ぎ声が聴こえてくるのであった。 気になって覗いてみた主人公は、衝撃的な光景を目の当たりにする…

極上の一夜で懐妊したらエリートパイロットの溺愛新婚生活がはじまりました

白妙スイ@書籍&電子書籍発刊!
恋愛
早瀬 果歩はごく普通のOL。 あるとき、元カレに酷く振られて、1人でハワイへ傷心旅行をすることに。 そこで逢見 翔というパイロットと知り合った。 翔は果歩に素敵な時間をくれて、やがて2人は一夜を過ごす。 しかし翌朝、翔は果歩の前から消えてしまって……。 ********** ●早瀬 果歩(はやせ かほ) 25歳、OL 元カレに酷く振られた傷心旅行先のハワイで、翔と運命的に出会う。 ●逢見 翔(おうみ しょう) 28歳、パイロット 世界を飛び回るエリートパイロット。 ハワイへのフライト後、果歩と出会い、一夜を過ごすがその後、消えてしまう。 翌朝いなくなってしまったことには、なにか理由があるようで……? ●航(わたる) 1歳半 果歩と翔の息子。飛行機が好き。 ※表記年齢は初登場です ********** webコンテンツ大賞【恋愛小説大賞】にエントリー中です! 完結しました!

溺愛ダーリンと逆シークレットベビー

葉月とに
恋愛
同棲している婚約者のモラハラに悩む優月は、ある日、通院している病院で大学時代の同級生の頼久と再会する。 立派な社会人となっていた彼に見惚れる優月だったが、彼は一児の父になっていた。しかも優月との子どもを一人で育てるシングルファザー。 優月はモラハラから抜け出すことができるのか、そして子どもっていったいどういうことなのか!?

処理中です...